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  紅貴と妖獣  

 

李京の北、慶。その街で紅貴らは5日程滞在することになった。翡翠が療養する間に、紅貴は桃華に剣の稽古をつけてもらうことになっていた。毎朝早くに起こされ、稽古とという名の一方的な打ち合いを行い、木刀を床に落とす頃には、朝の眠さなど嘘だったように吹き飛んでいる、という生活を送っていた。
 剣の打ち合いを終え、冷たい床に仰向けに寝ていると、視界に、桃華の顔が現れた。まさか、まだ剣の打ち合いをやるつもりだろうか。手にできたばかりの豆はすでにじくじくと痛んでいるし、今日だけで、十回以上打ち負かされているのだ。また、あの恐怖を味わうはめになるのだろうかと、背中を冷たい汗が流れる。
「ねぇ」
 びくりと、自らの肩が震える。何か言い返さなければ。そう思うのに、一見、武官には見えない少女を前にして、紅貴は喉が張り付くのを感じた。なんとか、ごくりと息を飲むと、桃華は急ににこりと笑った。
「紅貴が捕まえた妖獣さん見せて!」
 予想外の言葉に、ぱちぱちと目を瞬かせていると、桃華が再び口を開く。
「紅貴、妖獣!」
 再び言われ、紅貴は起き上がる。
「呼ぶのは良いけど、あいつ暴れるんだよなぁ……」
 はぁ、とため息をつきながら言うと、桃華は頬を膨らませた。ぞくりと、再び背を冷たい汗が流れる。これはあまり良い予感はしない。
「妖獣さん出してくれないなら明日から私……」
「わかったよ! 今呼ぶから、まってくれ!な?」
 慌てて紅貴が言うと、桃華は嬉しそうに頷いた。どうしてだろう。桃華と話しているといつも桃華に振りまわされている気がする。一見すればにこにこと笑んでいるだけなのに、その笑顔に逆らうことができない。そんなことを思いながら、紅貴は桃華を横目で見る。桃華はにこにこと笑っており、そんな桃華を見ていると自然とため息が零れてしまう。
(さっさと呼ぶか……)
 そう、心の内で呟き、紅貴はそっと目を閉じ、妖獣の名前を呼ぶ。
「梓穏(しおん)」
 脳裏に、妖獣の名前を描くと、それは現れた。妖獣という禍々しい名前の割にそれは大きくはない。長い身体――とはいってもせいぜい人の腕に巻きつくことができるくらいの大きさのそれはふわふわの毛をゆらしていた。管狐、というだけあって顔は、動物の狐と似ている。けれど、世間に知られている狐よりも顔は小さく、瞳は丸い。
「わぁ〜! やっぱりこの子可愛いね」
 桃華のはしゃいだ声が聞こえる。
「そいつ、噛むから気をつけて」
 そう、紅貴は忠告した。しかし、目の前には紅貴の予想を越える光景が広がった。
「キュゥゥ!」
 管狐が、紅貴には聞かせたことがないような甘い声を発したかと思えば、桃華の腕に巻き付き始めた。
「きゃ、くすぐったい! でもかわいい」
 桃華がきゃっきゃと笑いながら、腕に巻き付いた管狐を撫で始めた。
――ちょっと待て
 紅貴は、管狐を捕まえて以来、何度か呼んだことがあった。けれど、今桃華に見せている態度になるどころか、いつも紅貴の指を噛むのだ。大人しくしろ、だとか、お前の主人は俺なんだぞ、と言おうが言うことを聞きやしない。その、管狐が主人ではない桃華になついている。
「おい梓穏!」
 紅貴が声に出して名前を呼ぶが、梓穏は紅貴を威嚇するようにこちらを睨みつける。
「紅貴、なんだかこの子紅貴のこと怖がってない? 紅貴、この子虐めたの?」
――怖がっている?
 紅貴は桃華が言った言葉に耳を疑った。この管狐のどこが紅貴を怖がっているように見えるのだろう。怖いのは俺だ!そう言うとして、紅貴は辞めた。その言葉はあまりにも情けない。
「俺、ちょっと外いってくる」
 はぁ、とため息をつき、紅貴は野外に出た。道場の前の少々大きめの医師に座っていると、足元に黒い猫がやってきた。紅貴の足元に擦り寄り、ごろごろと喉を鳴らし始めたのを見て紅貴は自然と笑みを零す。
「俺のことをわかってくれるのは、お前だけだよ。クロ」
 この数日間で仲良くなった猫を抱き上げ、紅貴は猫の背を撫でる。
(あいつもクロくらい可愛げがあったら良いのになぁ)
 そんなことを思い、この数日間で増えたため息を、紅貴は再びついたのだった。

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