史書
第二章 旅の始まり 1
李外門を出た先も、石畳は続いている。辺りは、朝も早く人通りが少なかった。5頭分の馬の足音が石畳に響いているだけで、辺りは静かだ。紅貴の前には、翡
翠、白琳、瑠璃がおり、紅貴はその後を付いて行っていた。紅貴のうしろには桃華がいる。ちらっと後ろをみると、桃華に先ほどまでの元気な様子はなく、手綱
を片手に、眠そうに眼をこすっていた。
「おい、桃華、大丈夫か?」
きちんと手綱は操っているものの、眠そうな桃華の様子を心配に思った紅貴は声をかける。
「うん〜だいじじょうぶ〜眠いの〜」
キュン……
桃華がそういうと、天馬の天テンは心配そうに鳴き声を上げた。
そ
の時だった。紅貴がのっていた馬が急に立ち止った。急に止まったため、落馬しそうになった紅貴だったが、なんとかこらえる。もしかしたら、よく躾けてある
という、皇太子の馬がうまく支えてくれたのかもしれない。前を見ると、翡翠、白琳、瑠璃も止まっていた。ちょうど見張り台へ差し掛かろうという場所だ。
「ちょっと翡翠!急にとまるなんてどういうこと?」
どうやら、止まった原因は、先頭を走っていた翡翠にあるらしかった。
「嫌な予感がする」
瑠璃に聞かれた翡翠は、見張り台の二階を睨むと、ぼそりと呟いた。やがて、天テンから降りた桃華もやってきた。いつものにこやかな表情で、先ほどまでの眠そうな様子はない。
「みんな急にたちどまってどうしたの?」
にっこりと笑って桃華がいうと、白琳が答えた
「みなさんを置いていこうかという勢いで走っていた翡翠様でしたのに、嫌な予感がすると言って急にとまったんです」
「ふ〜ん。いやな予感かぁ。……。確かにするね〜」
何気ない口調で言う桃華だが、眼だけは翡翠同様に鋭かった。李外門と、李仙道のあいだのこの路には、二階建ての見張り台がある。一階は、人が
通り抜けられるようになっており、二階は普段であれば、兵士が見張りをしている。桃華と翡翠はその二階を睨みつけていた。
翡翠は、何も言わずに見張り台へ向かって歩き出した。紅貴たちもあわてて追いかけた。
見張り台の階段を昇りきろうかというところだった。先頭を歩いていた翡翠が急に立ち止まった。
「ちょっとどうした……!?」
最後まで言う前に、翡翠のすぐ後ろについていた紅貴は何が起きているか気づいた。翡翠の目の前に、一人の、中年の兵士が立っている。兵士が持つ刀の先は、
翡翠の首の横に当てられていた。嘉国の兵士らしい男は、眼で威圧しているように感じる。紅貴に向けられた物ではなく、前をにいる翡翠に向けられているもの
だとは解っていたが、 兵士の氷のように冷たい黒い瞳に、紅貴は震えそうになった。
「ここに何の用だ。貴様が戦いに身を置くものであるというのは、見ればわかる。あれが貴様の仕業だというのなら、俺が相手をするから覚悟をしろ!」
兵士の激しくまくしたてるような声に、思わず紅貴がびくりとする。しかし、言われた当の翡翠は、わざとらしく大きなため息をついただけだった。
「貴様、いったい何を考えている!」
「何か誤解していないか。俺たちは、ただここを通りかかっただけにすぎない。嫌な予感がしたから様子を見に来た」
「信じられるか!貴様がどんな事情で来ようと怪しすぎるお前を通すわけにはいかない!さっさと引け!」
「わかった。それなら、武器をあずけるからそこを通せ。……何かあったんだろう?」
翡翠のその言葉に、兵士が驚いたように紅貴には感じられた。
「一般の方を巻き込むわけには……」
兵士は、力なく刀を下ろす。先ほどまでとは一変した兵士の態度に、紅貴は驚いたが、当然の反応なのかもしれない。翡翠は、もう一度ため息をつき、言う。
「気にするな。今は休暇中だが、これでも一応、嘉の兵の端くれだ」
翡翠はそう言って、腰にさしていた刀を鞘ごと外すと、兵士に押し付け、見張り台の二階に押し入った。紅貴は、なんとなく申し訳なく思え、呆然としている兵
士に軽く頭を下げた。白琳、瑠璃、桃華も後ろからついてきた。紅貴は目の前の光景に唖然とする。一人の男が、倒れていたのだ。男は全身を包帯が巻かれてい
たが、かすかに、その包帯が赤く染まっているところがあった。その横で座っている若い兵士の手には包帯が握られいた。倒れている男の応急処置をしていたの
だろう。座っている兵士は、驚いた様子で、紅貴を見た。
「あなた方は……?」
紅貴が答えに困っていると、瑠璃が代わりに答えた。
「緑の目の人、うちの馬鹿兄なんですけど、馬鹿兄が嫌な予感がするとか言い出して、急にこちらに押し掛ける形になってしまったんです。お騒がせしてごめんなさい。ところで、これはいったい何があったんですか?」
「実
は私にもさっぱり……。私の役目はこの見張り台での見張りなのです。昨晩から、朝までが私の担当でしたので、仕事をしていました。そしたら、今は気絶して
いるこの男……多分、服装からして文官だと思うのですが、血だらけでここにやってきて倒れたんです。とぎれとぎれの声でしたが、覆面の男にやられた…って
言っていて。とりあえず俺は応急処置をして、孝雅(こうが)様は、李京に知らせ鳥をだそうとしたのですが……」
孝雅と呼ばれた男。先ほど、翡翠を威圧していた、中年の兵士が静かに口を開いた。
「鳥かごを見たところ、知らせ鳥は絶命していたのです。怪我はなく、息だけしていなかったところをみると、恐らく毒のせいかと」
知らせ鳥とは、虹色の羽をもつ鳥だった。瞳の色は鳥により異なる、とても綺麗な鳥だ。その美しい鳥は、洞察力、嗅覚、視力、記憶力にすぐれ、人の言葉も理
解すると言われていた。一度行ったことがある場所であれば、迷わずにたどり着くという習性を生かし、嘉では、主に伝令に使われていた。知らせ鳥は、能力が
高いのと同時に、気位が高いという。そんな知らせ鳥を使うのは、一般人にとっては難しいことだったが、嘉の兵であればつかえて当然だというのを、紅貴は聞
いたことがあった。
「一刻も早く都に知らせなければなりませんし、応急処置しかしておりませんので、この方を医者にも見せなきゃいけません。見張
りを考雅様にお任せして、私はこの方を連れて、馬に乗ろうとしたのですが、馬が逃がされていて…。おぶって李に行こうと思い、その準備をしていたところ
に、あなた方がきたのです」
「様子をみにきてくださったというのに、先ほどはあのような無礼な態度、失礼いたしました。兵たるもの、嘉国の民のためにあらなければなりません。それなのに私は、とり乱してしまい…。」
考雅はそういうと、膝を折って頭を下げた。――その姿がある人物の姿と重なる。……兵士たるもの、洸のためにあの方をお守りしなければならなかったのに……。――紅貴が茫然としていると、瑠璃が言う。
「考雅様、顔を上げてください。もとはと言えば、突然押し掛けた私たち、というより、あの馬鹿兄が行けないんです。ちょっと、そこの馬鹿兄、話聞いてるの?謝りなさいよ」
瑠璃がそう言ったのをきいた紅貴が、翡翠のほうを見た。倒れている文官の横に翡翠は座っていた。その横には、白琳が立っている。
「こいつ、漣じゃないか」
翡翠が小声でつぶやくと、白琳もうなずく。
「漣さんですね」
「白琳、この人のこと知ってるの?」
瑠璃がそういうと、白琳はうなずいた。
「私たち三人、同じ年ですし、同じ寺子屋でしたから」
嘉国には義務教育という物があるという。9歳から12歳までの三年間、寺子屋と言われる学校に行き、学問を学ぶ。その後は、各種の専門の学校、家業を継ぐものなど、様々だという。
「あ、あの、あなたは白琳様ですか?」
応急処置をしていた男は、驚いた様子で言う。紅貴がそれを不思議に思っていると、それに気付いたのか、瑠璃が紅貴に話しかけていた。
「友達だからつい忘れちゃうんだけどね、白琳は、壮家っていう、医者の名家のお嬢様だし、その中でもとび抜けた医療技術をもっているの。だから、都で白琳を知らない人はいないっていうわけ」
紅貴は言われて気づく。考えてみれば当然のことだった。紅貴は王に、癒しの力をつかえる人物の同行をお願いしたのだ。白琳がそうだとすれば、有名なのは当然だった。しかも、あの美貌に家柄が加われば、その名を知られていないほうが不自然だった。
「なんか、みんなすごいんだね……」
翡翠や桃華は、あんな性格でも言わずと知れた、武官の最高位の二将軍であり、白琳は、李京でその名を知らない人はいないほどの名医。瑠璃は瑠璃で、綺麗な
容姿と、あの、翡翠と桃華を扱いなれているという意味で、やはり只者ではないのだろう。なんだか、すごい人たちと旅をすることになったなぁと改めて紅貴は
思う。
「白琳様、この方を救えますか」
孝雅が言うと、白琳はやさしい笑顔で笑う。
「もちろんです」
翡 翠は、白琳のた
めに場所をあけた。
白琳は、漣の手を取った。その時、急に漣の周りが柔らかい光に包まれた。紅貴を含め、その場にいた全員が、白琳と漣に釘付けになる。軽く眼を閉じ、光の中
にいる白琳はあまりにも美しかった。手を握っている様子は、何かを祈っているようにも見え、白い服をきたその姿は、天女のようだといっても差支えないので
はないかと紅貴は思う。やがて、光が消えると、白琳はにっこりと笑う。
「終わりましたよ。この程度の傷なら、これで全身の傷はなくなっているはずです」
白琳は、確認することがあるのか、漣の横にしゃがんだ。これほどまでの力とは、と紅貴は目を見開く。数十年に一度、『癒し』の力を持つ人間が生まれるとい
う。その人間はあらゆる傷をいやすことができ、あらゆる病を治せるという。話では聞いていたが、目の前でその力を見せつけられて、紅貴はおどろかずにはい
られなかった。
「……白琳、おれは納得しないぞ」
なごやかな雰囲気を壊したのは翡翠だった。突然、白琳の前に立ったかと思うと、いつもよりも低い声でそう宣言した。
「ちょっと何言ってるのよ。せっかく助かったのに」
「瑠璃、今度ばかりは私も翡翠に同意」
桃華にしては珍しく強い口調だった。
「だって……」
次の瞬間、翡翠と桃華の声が重なった。
「俺に対して治療するときは、あんな、優しいやり方じゃないだろう」
「私が怪我すると、白琳はすっごく怖いもん!」
紅貴の知っている限り、翡翠は常に同じ口調で話していた。それが、こうも感情的になるとは珍しいと、紅貴は思った。桃華にしても、あの笑顔がなく、のんびりした口調ではもない。早口だった。
「やっぱりそう思うよな」
「うん、絶対おかしい!なんであんなに優しいの!私たちに治療するときは殺されそうになるのに!」
「あぁ……あれは、一度体験すると、しばらくはうなされるな……」
「うん、すっごく恐いよね」
「あれは生き地獄だな」
先ほどの、天女のような様子を見た紅貴は、どうしても翡翠と桃華が言う様子が想像できなかった。そもそも常識で考えても、そんなに恐ろしい医者が世の中に存在するのかは疑問だった。
「……お二人とも良いんですね」
翡翠の背に隠れて、座っている白琳の表情は見えなかった。しかし、その声だけで背筋がぞくりとするのはなぜだろう。
翡翠と、桃華は黙ってしまった。
「先
程、言いましたよね?漣さん程度の怪我ならこれで事足りると。……お二人はいつも、あり得ない怪我や常識では考えられないような症状が出るでしょう?しか
も、その後のお二人の、馬鹿としか思えない行動……。そこから命を助けるのはあの方法しかない上に、当然の報いだと思います」
翡翠と桃華は何も言わない。いや、言えないのかもしれない。
「普通であったらこの場にはお二人ともいません。とっくに地獄に落ちてます。生きているのは誰のお陰かを肝に銘じておいてください。今後、そのようなことがあって、いや、普段のお二方の行動を見ている限り、確実にありますね。
……死にたいというなら話は別ですが、誰がお二人の命を握っているか忘れないように気を付けてください」
白琳はそう言って立ち上がると、瑠璃の横に並んだ。
「白琳お疲れさま」
「たいしたことはしてませんよ。普通に治療して、どこかの子供の言い分を正論で返しただけですから」
そう言って、にっこりと笑う白琳は、やっぱり恐ろしい人物なのかもしれないと、紅貴は思った。翡翠と桃華はというと、呆然とした様子で立っていた。
やがて、もそもそと動く音が聞こえたと思うと漣が上半身を起こしていた。
「翡……麒翠……!なんで、こんなところにいるんだよ!」
蓮は起きて早々そうそう叫び、傍にいた翡翠に掴みかかろうとした。
「そんな急に叫ぶと、お体に障りますよ。私が見た限り、かなり血を流していたようですから」
白琳が言ったとおり、漣は、叫んだ直後、ヘタリと倒れこんでしまった。
「……ダサイな」
「なんだと……!」
「お二人とも馬鹿な争いはやめてください。翡翠様は、漣さんに詳しい状況を聞きたいのではなかったのですか?」
翡翠はため息をついた。
「おい漣、話せ」
「なんで俺が話さなきゃいけないんだ」
「命令だ、命令。さっさと話せ」
「くそ……!普通に出勤しようとしたら、覆面の奴に襲われたんだよ。おれも持っていた刀で応戦したが、折られてこの様だ。悔しいが、相手はかなりの腕だ」
「やっぱりダサいな……まぁいい。とりあえず桃華、こいつを李京まで送ってやれ。俺達は先に靖郭で待っている。場所は桜亭で良いな?」
桃華はこっくりとうなずいた
「ちょっと待て!俺が女に送られるだと!?ふざけるな」
「ふ
ざけるなはお前だ。ここの知らせ鳥は殺されていて連絡手段がない。誰かが李にいかないといけないんだ。しかも、馬は逃がされた。桃華は天馬をもってるか
ら、乗せてもらえば良いだろう?官吏なら仕事しろ。考雅、それで良いな?こいつは、桃華に送らせる。俺たちは先に行くから、そのついでに、もし、敵を見つ
けたら倒しておく。考雅たちはこのまま見張りを続けてろ」
「はい……!」
考雅はそういうと、突然頭を下げてしまった。考雅の部下だと思われる青年もそのまま頭を下げていた。
「二将軍の麒翠様とは知らず、とんだご無礼を……」
「二人とも、こんな馬鹿兄に頭を下げる必要なんかないと思います。迷惑をかけたのはこちらなんだし」
瑠璃は、頭を下げる二人にそう言った。しかし、二人が頭を上げる様子はない。
「……別に頭を下げる必要なんかないだろう。たまたまが俺たちここを通りかかっただけなんだから」
それを聞いた二人はやっと顔を上げた。
「麒翠様のご好意、感謝いたします」
翡翠は、軽くため息をついていた。
桃華と別れた紅貴達は、見張り台を出ることになる。先に見張り台を下り、馬にまたがる翡翠を見た紅貴は先ほどから気になっていたことをこっそりと白琳に尋ねる。
「翡翠と漣ってものすごく仲悪いみたいだし、翡翠がいつもとは違くなる気がするんだけど、あの二人、なんかあったのか?」
「寺子屋時代、あの二人は犬猿の仲だったんです。口を開けばいつも喧嘩ばかりで…。元々漣さんは禁軍に入りたかったんですよ」
「でも、漣さんって文官なんじゃ……」
白琳は頷いた。
「漣
さんはあの頃は禁軍に入りたがっていました。男の子ですから、禁軍はあこがれだったのでしょう。実際、頭も良いですし、子供にしては、剣も強いようでし
た。ただ、翡翠様には剣では勝てなかったんです。漣さんは最初、翡翠様のことを馬鹿にしていて、その翡翠様に負けたのは悔しかったと思いますよ。しかも翡
翠様はあの性格ですから……」
あの翡翠の性格であれば、漣の神経を逆撫でさせるのは普通にやりそうだと、紅貴は想像した。
「漣さんも漣さんで、翡翠様の数学の出来の悪さを馬鹿にしてました。まぁどっちもどっちですね」
数学が苦手だという事実を知らなかった紅貴は、意外に思う。
「で
もその漣さん、詳しい事情はわかりませんが、夢が変わったんです。結局、科挙にも三元を取って受かりました。あの年はすごかったです。武科挙主席で通った
のは駿さんですし、普通の科挙での三元は数十年ぶりだったそうですから。でも、そうなっても昔からの癖なのでしょうか。あの二人が会うといつもあんな風に
喧嘩するんです。まったく困った方たちです。」
「漣さんってそんなすごい人だったんだ。なんか、そう見えないな」
「この国の上位の官なんてみんなそんな感じですよ。漣さんは謎が多い方なんですけど、有能だという噂です。」
言われてみればそうだと、紅貴は感じた。紅貴がこれまでに会った嘉の上位の官は変わった人物が多い。でも洸国の官よりもずっと優秀なのではないかと紅貴は
感じた。世の中が荒れている中で、これだけ平和な嘉を作っている嘉の官吏は優秀なのに違いないと。それを登用する王もまた、只者ではないのかもしれない。