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  第三章 妖獣 4  

瑠璃は神社の台所を借りて食事を作っていた。先ほど昼食を作ったばかりだったが、村人全員分の食事となれば、作るのに時間がかかる。瑠璃は早めに夕飯作りに取り掛かっていたのだ。台所中にだしの香りが漂い、我ながら上出来だと、瑠璃はほほ笑んだ。
「白琳に味見してもらおうっと」
 そうつぶやくと、丁度白琳が台所に入ってきた。
「白琳どうしたの?」
「少し困ったことがありまして」
 瑠璃がわずかに首をかしげると、白琳が言葉を続けた。
「村人のみなさんの様子もおちついて、時間ができたことですし、これからの旅に役に立ちそうな薬の調合をしようと思ったんですが、材料を切らしてしまいまして」
「ここにはないの?」
 嘉国で神社といえば、何かを祀っているだけではなく、そこに住む人々の生活に役立つ物を置いてあることが多い。書物や薬が置いてあることも珍しくないのだ。ましてやここの神主は医学の心得がある。薬房はないのだろうか。
「この神社の薬房にはないと思います。というより、普通の薬房には絶対に置きません」
「普通の薬房にはない……?それってまさか!」
「はい。いつもは芳家、つまり瑠璃と瑠璃のお父様に発注を頼んでるあれです。さすがに今すぐには手に入れられませんよね」
「あら、大丈夫よ。むしろちょうど良かったわ。でも、今すぐにここを出ないと取引に間に合わないから、ここをすぐ出発するわ。」
「ありがとうございます」
「ご飯できてるから、夕飯の時間になったら温めてみんなで食べてね」
白琳がうなずくのを見て、瑠璃は台所を出た。

「俺はいったん神社に戻る」
「何でだよ!せっかくここまで来たのに!妖獣はどうするんだよ!」
 紅貴が翡翠を見上げてそういうと、翡翠はいつものように腕を組んだまま言う。
「さっ きも言ったが、ここには秩序の外と、内との境界がないといっただろう。境界がないということは、夜、妖獣が自然発生する可能性がある。 あとは、紅貴以外 の妖獣使いが、妖獣の力が一番強くなる夜に呼ぶ可能性……妖獣使いだったら、夜じゃなくても妖獣を呼び出すことはできるだろうが、もしこの村を破壊したの が自然発生の妖獣じゃなく、妖獣使いが呼んだ妖獣だとしても、夜が一番妖獣の力が強くなる夜に妖獣を呼ぶのが普通だろう。だが、さっきも言ったように、夜 になればこっちは不利になる」
「確かに」
 紅貴は翡翠の話を理解し頷いたが、その話と、翡翠が神社に戻ることは話がつながっていないと思った。翡翠が神社に戻ってどうするのだろう。
「でも翡翠、昼間に俺以外の妖獣使いが来て、妖獣呼んだらどうするんだ?夜の妖獣よりは弱いといっても、妖獣は妖獣だぞ!俺と桃華だけじゃ……」
 紅貴は早口でそう言い、同意を求めようと、横に立つ桃華を見た。しかし、桃華はわずかに首をかしげただけだった。やがて、のんびりと、まるで今晩のおかずでも話すかのように言う。
「大丈夫だよ〜。よっぽど強い妖獣さんならともかく、普通の妖獣さん……う〜ん、並の竜さんとかなら私一人でも大丈夫だよ。夜になったら別だけど」
 紅貴はそう言ってにっこりと笑う桃華の言葉が信じられなかった。いくら桃華が二将軍で強いとはいっても桃華は人間の女の子だ。普通の人間が一人で妖獣に対抗する話など聞いたことがない。しかし、紅貴のそんな気持ちなど気づいていないかのように翡翠が言う。
「昼間に妖獣がやってきても桃華にまかせておけば大丈夫だろう。問題はやっぱり夜だ。まぁ、一応境界を何とかできそうな奴を一人知ってるから、神社に戻る」
「――夜、境界が壊されたままだと大惨事になるもんね」
 翡翠に続いてぽつりとつぶやいた桃華の声が少し低く、わずかに震えていることに紅貴は気づいた。同時に、夜の妖獣がどれだけ恐ろしいかを分かっているのにもかかわらず、昼間の妖獣なら平気だという桃華の態度が不思議だった。
「桃華一人だとそんなに不安か?」
「そんなことはないけど……」
「安心しろ。桃華なら、お前よりは確実に妖獣を仕留められるだろう」
 翡翠はそういうと、ほとんど笑みとは分からない程度に、わずかにニヤリとわらった。とはいっても、紅貴が気付いたということは 、確信的な笑みだろう。
「じゃあ翡翠、ここは私と紅貴に任せて行ってきて」
「あぁ行ってくる、夜までには戻るが、俺が戻ってくる前に妖獣が来たら頼む」
 そう言って翡翠は紅貴と桃華に背を向けて歩きだしてしまった。
「ちょっと待ってよ!翡翠が戻ってくる前に本当に妖獣がやって来たらどうするんだよ!」
 紅貴がそういうと、桃華がこちらを見て言う。
「だから大丈夫だって」
 結託のない可愛らしい桃華の笑顔には、不思議と紅貴は逆らうことができない。まだ数日の付き合いだが、桃華の最大の武器は笑顔なんじゃないかと思いはじめていた。
(こうして笑っていると、可愛らしい女の子だよなぁ……。まったく敵わない)
 紅貴はそんなことを思っている自分がなんとなく情けなくなり、そっと溜息をついた。

 白琳は瑠璃があらかじめ淹れていったお茶を湯呑に注ぎ、台所の椅子に腰かけた。ほっと息をつき、お茶を飲むとほのかな茶葉の香りが口に広がった。
「村人を助けてくれたのはお前さんかい?」
「あなたは?」
「亮の妻の朔姫だよ」
 それを聞いた白琳は、瑠璃が朔姫のことを話していたのを思い出した。村を助けようと必死だったあの清風の母親代わりの人物だ。目の前にいる朔姫はいかにも面倒見がよさそうだ。どことなく、白琳の母親代わりだった人にも似ており、白琳の口からは自然と笑みが零れた。
「お体はもう大丈夫ですか?」
「あぁ、もう大丈夫。あんたのおかげさ。でもまさか、あのたくさんの村人を助けたのがこんなに綺麗な娘さんだとはねぇ。若いのにすごいねぇ」
「私はこれでも医者ですから助けるのは当然です。助けられるのに助けないのは職務怠慢です」
「あんた、綺麗な顔してその辺の男よりよっぽどかっこいいね」
「ありがとうございます」
 白琳がそう言うと朔姫は棚から湯呑を出して、瑠璃が予め淹れておいたお茶を湯呑に注いだ。
「あ、すみません。気がきかなくて」
「気にすることはないさ。今まで仕事をやってたんだ。のんびりしな」
 朔姫はお茶を一口含むと朗らかに笑った。
「このお茶はお前さんが淹れたのかい?」
「いえ、私は、その……お茶を淹れられないことはないんですが、瑠璃みたいにうまく淹れられなくて」
 白琳は恥ずかしくなり、思わずうつむいたが朔姫は豪快に笑っただけだった。
「気にすることはないさ」
「私、料理だけはどうしてもできなくて」
「まだ若いんだ。気にすることはないさ。でも、今のうちに料理の練習をするに越したことはないよ。将来の旦那だって、妻のおいしい手料理を食べたいだろうし。なぁあんただってそう思うだろう」
そうですね、と答えようとして白琳はやめた。朔姫の顔が白琳ではなく、台所の入口に向けられていたのだ。
「何がだ?」
 答えたのは、急いで戻ってきたのか、髪をわずかに乱した翡翠だった。
「あんたもこの娘さんが作ったご飯を食べてみたいだろう?」
「いや……悪いが白琳の飯だけは無理だ」
翡翠はいつものように淡々とそう言った。
「あんたそういうこと言うと女の子に嫌われるよ。顔だけじゃ男はだめってことわかってるのかい?」
「翡翠様、そんなに私が作った料理は食べられませんか?」
  白琳の声を聞いた瞬間、翡翠は明らかに動揺しだした。一見、いつもと変わらないように見えるが、白琳と翡翠の付き合いは長い。たとえわずかな変化でも白琳 が気付かないなど、あり得ないことだった。白琳は動揺する翡翠をちらりと上目遣いで見ると、翡翠にだけわかるようにくすりと笑った。――付き合いが長い、 というより何度も過ちを犯してきた翡翠が白琳の微笑みの意味を理解できないはずがない。実際、白琳が笑った瞬間、翡翠の指がぴくりと動いた。
「えっと、白琳、その……」
「別にかまいませんよ」
 今度はきちんとした笑顔を作っていった。
「ところで急に戻ってきてどうしたんですか?妖獣はもう倒したんですか?」
「いや、まだだ。少しまずいことになってな、瑠璃はいるか?」
「瑠璃なら私が頼んだ買い物に行きましたよ。瑠璃にしか頼めないもので、どこで買うのかはわからないので正確な瑠璃の居場所はわかりません」
 白琳がそう言うと、翡翠はわずかに顔をしかめた。朔姫は白琳と翡翠の間に流れる空気が気まずいと思ったのか、台所を出て行ってしまった。
「瑠璃は裏の取引に行ったんだろう?」
「えぇ。翡翠様は裏の取引をどこでやってるか知らないんですか?」
「商 人の中には表の商売――芳家の場合は呉服屋だが、知っての通り、それとは別に裏取引をやっているやるもいる。一応裏取引だから人に知られちゃまずいだろ う?取引方法や、その物、場所を知ってるのはどこの家でもだいたい店主とその後継ぎぐらいだ。芳家も例外じゃない。俺は芳家を継げないから、継ぐのは瑠璃 だ。つまり、取引の詳細を知っているのは瑠璃と銀だけだな」
「そうですか。それは困りましたね。瑠璃がいないとまずいですか?」
「あぁ。まぁ瑠璃が戻るまでは俺達で何とかするが、瑠璃が戻ってきたら村に来るように言ってくれ」
「気を付けてくださいね。くれぐれも無茶はしないでくださいね?」
 翡翠は白琳に背を向けると左手を軽く振って返事をした。

「早かったな」
 日が傾きかけ、もうじき夜になるという頃だった。ばさばさという大きな羽音が聞こえ、上を見上げると、天の助に乗った翡翠がいた。翡翠は、天の助が着地する前に地面に飛び降りると、桃華に言った。
「しばらくはこの状態でなんとかする必要がありそうだ」
「そっか、仕方ないね」
「あぁ……?」
 翡翠が返事をした直後だった。翡翠と桃華の視線が一斉に紅貴の背後に集まった。
「おい、どうしたんだ?」
「妖獣の気配よ!小物だとは思うけど、急いで行くわよ!」
 桃華は脇差を抜いて走りさってしまった。
「紅貴、ぼんやりするな!俺たちも行くぞ!」
「うん!」
 しばらくすると桃華が立ち止った。桃華の細い肩が細かく震えているのが紅貴にはわかった。
「桃華!大丈夫か?」
 紅貴が声をかけると桃華が振り返った。その桃華の表情を見て、紅貴は言葉を失った。紅貴の予想に反し、桃華は、お気に入りの玩具を与えられた子供のような満面の笑顔だったのだ。
「見てみて!あのこ!かわい〜!」
 本当に嬉しそうに桃華が言った。桃華が指をさした方向を見ると、そこにいたのは、確かに桃華が好きそうな生き物だった。
「あれは狐か?」
 紅貴は翡翠のつぶやきを聞きながら狐のような生き物を見た。秩序の外では日が暮れ始めると妖獣が現れると言われている が、日が完全に沈む前に現れる妖獣は、下位の妖獣だという。日が暮れ始めたとはいえ、完全には暮れていない世界では夜ほど妖力が働いていないのだ。実際、 今、目の前にいる妖獣のような生き物は、竜や朱雀といった上位の妖獣からはかけ離れた可愛らしい姿だ。
「ねぇねぇ、あの子欲しい!捕まえてよ!」
 大きさは小型の犬くらいだろうか。フサフサの黄金の毛をもつそれは手足はなく、長い胴があるだけだった。ただし、顔は狐そっくりで、とても可愛い。
「管狐(くだきつね)か」
「妖獣を倒さずに捕まえられるのは紅貴だけだが、あんな弱そうなやつ捕まえる意味あるのか?」
「あるよ!だって可愛いもん!ねぇお願い、あの子捕まえて」
紅貴はもう一度管狐を見た。妖獣の中では 小物だが、はたして今の紅貴に捕まえられるだろうか。
(まぁ、あれぐらい楽につかまえられないと、妖獣使いとしてまずいっちゃまずいんだけどな)
だが、『あの時』以来、妖獣使いの力を使っていない。
「紅貴なにしてるの?早くしてよ〜」
「……はい。」
 紅貴は桃華に逆らわずに、返事をした。
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