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  第三章 妖獣 5  

妖獣使いは自分の力で妖獣を秩序の世界に縛り、その間にこちらの世界での名を与える。そうして初めて妖獣は妖獣使いのものになるのだ。
  ――名前って大切な意味を持ってるのよ。かつて紅貴にそう言った女性の声は真剣だった。透き通るような声で、淀みなくはっきりとした口調は今でもはっきり と覚えている。例えば、人。名を与え、その名を呼ぶことは、その人を支配することだという。どの国であれ、高貴な身分の人物に字が与えられるのは、元をた どれば、本名を呼ばれ、誰かに支配されるのを防ぐためという考えに基づいてのことだ。字を持つ者を字で呼ぶのが礼儀とされているのはその為である。ただ し、人と妖獣ではわけがちがう。もともと秩序の外に住む者を力で縛るのは相手が小物であっても簡単なことではない。こちらの世界での名さえ与えられれば妖 獣を使役できるようになるが、果たして今の紅貴にそれができるだろうか。
紅貴は翡翠と桃華の前に出て、管狐と対峙した。つぶらな瞳でこちらを見ているが、纏う気配は妖獣だ。日も沈みかけ、秩序の世界が、秩序の外の世界に浸食されかかっている。秩序の外の世界に住む管狐に有利だ――。

 紅貴はその場から動くことができなかった。目の前で、洸国にとって大切な人が倒れている。最後に会った時よりも、更に顔色が悪くなっている。その人の死期が近いことを悟り、紅貴は必死に名を呼んだ。
 死なないでくれ!
倒れたまま大切な人の口が動く。もはや声は出ていなかったが 、何を言おうとしているか、紅貴には痛いほど伝わった。そう、それはきっと、紅貴の死を望む言葉だ。だが、この人が生きていなければ、その望みを叶えるこ とはできない。この人に生きていて貰わなければ望みを叶えることはできない……。洸国の想いを背負える人がいなくなったらこの先……
「紅貴、しっかりしろ!」
 聞いたことがある声。そう、これは翡翠の声だ。紅貴は翡翠の鋭い声を聞いて、自分が膝をついたまま動けなくなっていることに気づいた。気づいた瞬間、洸国にとってかけがえのない人の痛々しい姿が消えた。
(あれは幻覚か)
 管狐は妖獣の中では下位に位置する。そんな管狐に喰われそうになっていた……。そして、今もこうして紅貴が何かを考えるだけで管狐が持つ妖気にのまれそうになる。
管狐をこちらの世界に縛ることに集中しなきゃ……!
 紅貴は一瞬、軽く眼を閉じると、カッと目を見開いた。

「わぁ!すごい!紅貴がきれい……!」
  桃華は、紅貴の姿に感心してそう言った。さっきまでは確かに紅貴は力に圧倒されていた。管狐と対峙してすぐに膝をつき、その場から動かず、桃華がいくら声 をかけても、その声が紅貴に届くことはなかった。まるで、桃華の声など聞こえていないかのように、いくら桃華が紅貴を呼んでも何の反応も示さなかったの だ。それが、翡翠がたったひとこと言葉を発しただけで、紅貴は立ち上がった。桃華は、横で腕を組んで立つ翡翠を見た。あの、翡翠の翠色の瞳には桃華と同じ ように紅貴の姿が映っているはずだ。比喩などではなく、黄金の光が狐に伸びている様子が。日が傾きかけた今、まるで月の光を纏っているようにも見える。紅 貴の赤い髪と相まって、いつもの紅貴からは考えられないほど紅貴は綺麗だ。そして、その紅貴を引き出したのは翡翠の声だと思うと、桃華は考えるのを止めら れなかった。
(やっぱり、翡翠は『血筋』には逆らえないんだよね。本人は否定するだろうけど)
 そのことを知ったのは偶然だった。おそらく翡翠は桃華が知っているということをしらないだろう。そのことをこれからも言うつもりはないが、桃華は翡翠が置かれた境遇を現実的に思い知らされた気分だった。

 自分の力で無理やり管狐を縛ってはいるが、限界が近かった。まるで、細い糸が今にも千切れそうになるような頼りない感覚に、意識を手放したくなる。
 ――名を与えなきゃ
  だが、秩序の世界での名を与えようとすると、管狐は抵抗してくる。しかし、そのまま管狐にされるがままにされるわけにはいかなかった。管狐の一匹も捕まら れないとあっては、妖獣使い失格だと感じていた。たとえ、『あの時』以来力を使っていないとしても。管狐を捕まえる動機を桃華の強引さのせいにしても、本 当のところ、管狐に対峙した動機は紅貴の妖獣使いとしての矜持だった。
(汝に名を与える『――』)
 名を与えられたかはわからない。紅貴の意識はそこで途切れた。

「紅貴!」
 紅貴が倒れ、桃華が心配そうな声をあげた。そんな桃華をみて、翡翠はふぅっと息を吐くと口笛を吹く。すると、いつものように黒天馬が翡翠の横にやってきた。なんとなくだが、不機嫌そうな顔をしていると翡翠は思った。
(やれやれ)
 翡翠は天馬の首の辺りを撫でた。桃華のテンテンもそうだが、天馬は首を撫でられるのを喜ぶのだ。案の定、首を撫でられた黒天馬は、キューと気持ちよさそうな声を出した。翡翠は黒天馬の期限が直ったことを確認すると、倒れている紅貴の横にしゃがみ、紅貴を抱えた。
「こいつ、以外と重いな」
「そんなこと言ったら紅貴が可哀想だよ〜」
「んなこと知るか。運んでやってるだけ感謝して欲しいくらいだ」
「それもそうだけど……」
「俺はこいつを白琳のところに連れていくから桃華はここで待ってろ」
 翡翠は紅貴を前に抱えて天馬に乗ると、桃華にそう言った。
「もうじき日が沈む。気をつけろよ」
「うん、翡翠もね。念のため確認するけどこの村を襲ったのはさっきのかわいい狐さんじゃないよね?」
「あぁ多分な。あの狐の力では村を破壊できない」
「今日、来るかな?村を襲った怖い妖獣さん」
「どうだろうな。でも、あれだけ騒いだんだ。もし紅貴以外の妖獣使いが呼んだ妖獣が村を襲ったなら、来るんじゃないか?もしそうなら、あっちにしてみれば邪魔者はさっさと排除したいだろう」
「……いざとなったら修理費は半分ずつだよ?」
桃 華がわずかに首をかしげてそういうのを聞き、翡翠は思わず軽く笑った。 ここに他の者がいたところで、桃華が言った言葉の意味はわからなかっただろうが、 翡翠にはわかりすぎるほどわかってしまったのだ。もっとも、実際に『修理費』を半分ずつ出さなければならない状況になれば、金銭的な問題を抜きにしても、 こんな風に笑ってはいられないだろうが。
「じゃあ行ってくる」
「うん、紅貴を落とさないように気をつけてね」
 天馬が飛ぶとあっという間に桃華の姿が小さくなった。ここにもう一度戻る頃には完全に日が沈んでいるだろう。それまでに瑠璃が戻らなければ覚悟しなければならない。
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