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  第三章 妖獣 6  

 

馬に揺られながら、少年はぼんやりと考えごとをしていた。旅を始めてどれくらいの月日が経っただろうか。最初は絶望的だと思っていた、知らなかったの現実にも慣れてきていた。悲しい、ひどいと思うことには変わらなかったが、どこか冷淡な自分がいる。毎日のように非情な現実を見た。洸の民が食うに困り、幾人もの人が死んでいくのを見た。それも、ただこの国が貧しくて民が困っているのではない。
 少年、この時紅貴と名乗っていた少年は、同時に、この国の貴族は食うに困るどころか、一般的な洸の民では名前も知らないような高級食材を食べていることを知っていた。いったい誰がこんな国にしたのだろうか。それを思うと、紅貴は誰にもぶつけられない怒りと苦しみで気が狂いそうになった。そんな時、見守っていてくれたのは暁貴という男だった。大柄で、一見すると、その体格だけで圧倒されそうだが、人懐っこそうな柔らかい笑みは、紅貴の心の支えだった。
「寒くはありませんか」
 暁貴が優しい声で聞いてきて、紅貴は頷く。
「うん、大丈夫」
 本当は嘘だった。手をぎゅっと握って、寒さに耐えるのが精いっぱいだったのだ。だが、紅貴が今着ている服だって、洸国に住む他の人に比べればましだった。温かい厚手の上着を着ているなど、洸国では考えられないことだ。薄っぺらい布を服の上に巻きつけて、それで寒さをしのぐのが精一杯。それすらもない人もいるのだ。それなのに、わがままを言うことはできない。
「着きましたよ」
 スラリと背の高い男、紅翔が紅貴にそう言った。暁貴に馬から降ろされ、紅貴は紅翔を見上げた。元々、背の割には細身で肌が白かったが、旅を始めてからは病的なまでに更に青白くなっているのではないかと紅貴は思っていた。心なしか、以前よりも痩せたような気がする。
「どうしました?お菓子が欲しいと言ってもここにはありませんよ」
「そんなこと言ってないだろう!お前は暁貴の性格を見習ったらどうだ!」
「お言葉ですが、その言葉はあなたにふさわしいかと」
 そうにっこり笑った紅翔を見て、先ほどまで、この男を心配していたことを紅貴は後悔した。
「紅翔の馬鹿野郎」
「その馬鹿野郎に、以前泣きついたのは誰でしたっけ」
「二人ともおやめください。こんなくだらないことで喧嘩など恥ずかしい。紅翔様、目的地はここで良いんですか?」
暁貴はそう言って、目の前の家、というよりは木片と石を重ねてできただけのような小屋を見た。
「あぁ。ここに私の息子がいるんだ」
「本当か?紅翔、良かったな!」
 紅貴がはしゃいでそう言うと、紅翔は静かに笑っただけだった。実際、紅翔が息子の顔を見たのはこれが最後だった。

(夢?)
 紅貴はぼんやりと目を開けた。はっきりと内容を覚えていたわけではないが、なつかしい夢を見ていた気がする。懐かしい夢なのに、なんとなく気分が悪いのは、きっと、あの頃の夢だったからだろう。紅貴は体を起こそうとしたが、なぜか力が入らなかった。
「お目覚めですね」
「白琳」
「無理に起き上がらなくて結構ですよ。必要なものがあれば持ってきますから」
「うん、ありがとう。俺いったいどうしてこんなことになったんだ?」
 管狐を捕まえようとしたところまでは覚えている。名を与えようとして、……果たして名をあたえられたかどうかは覚えていなかった。ただ、いますぐ意識を手放してしまいたいような、頼りない感覚だけははっきりと覚えていた。いったい何がおこったんだろう。しかし、それを考えようとすると頭が痛くなった。 まるで全身で、何かをやろうとすること、たとえそれが、ただ何かを考えるというだけでも拒否しているようだった。ただ眠ってしまいたい……。どうしようもなくダルい、そんな感覚だった。まるで幼いころに熱に浮かされた時のようだと、紅貴は思った。
「翡翠様がここまで運んだんですよ」
「翡翠が?」
「えぇ。翡翠様は妖獣使いの力を使いすぎたんだろうって言ってました。私の医者としての見解もその通りです。まだ疲れているようですし、ゆっくり眠ってください。まだ瑠璃は帰ってきていませんが、私は隣の部屋にいるので何かあったら呼んでくださいね。ではおやすみなさい」
「うん。おやすみ」
 紅貴が再び目を閉じると、あっという間に眠りに落ちた。

 日が沈み、夜になった。予想はしていたが、昂揚感にも似た力の高ぶりを翡翠は感じた。それを無理やり抑えようと歯を食いしばるが、ほとんど無意味だった。
 バキッ
 突然のことだった。翡翠の後ろに立っていた気がまっぷたつに割れた。翡翠は思わず舌打ちをした。少し離れた所に立つ桃華を見ると桃華は右手で、いつもより強く刀を握っている。
(あいつも多分余裕無いな)
 現に、桃華を中心に風が渦巻いていた。花びらも一緒に舞い、一見するときれいな光景だが、翡翠にも桃華にも『必要な物』がない今、喜べる要素はまったくない。
 その時だった、翡翠は何かを感じた。気を抜くと凍らされてしまいそうな、禍々しい何か。人でないものの気配。
「来る」「来るわ」
 翡翠と桃華の声が重なり、二人は同時に空を見た。暗い夜の闇に、白い煙が現れた。その中心から出てきたのは……

「竜?」
 桃華はそう言って、妖艶な、と言ってさしつかない笑みを浮かべた。すでに、天真爛漫という言葉が似合う16歳の少女の姿はない。夜の闇に混ざりそうな黒く堅そうな皮膚を持つ竜を見る桃華の姿は、普段の桃華とは似ても似つかない。顔の造形は変わっていないはずなのだが、表情には、普段の桃華のカケラすら残っていないように見える。普段の桃華はあんな笑みは浮かべはしないし、いつもの桃華には妖艶などという言葉は当てはまらない
(面白い)
 翡翠は力の高ぶりに身を任せ、竜を睨みつけた。刺すような冷たい妖気を感じたが、それがなぜか心地良い。
「面白そうだな」
「フフ……そうね。」
 桃華はクスリと、不気味な笑みを浮かべると、脇差ではない刀を勢いよく引き抜いた。刀を縛っていた赤い紐が解け、はらりと地に落ちた。と同時に、桃華が持つ刀からは、まるで炎の揺らめきの様な紫色の光が発せられた。その光に共鳴するかのように、村にわずかに残っていた民家が、音をたててガラガラと崩れ落ちた。
「桃華、修理費は割り勘ってこと忘れるなよ」
「フフ……分かってるわ」
 翡翠は舌舐めずりをし、拳をならした。バキバキと音をたてて、木が倒れる音がしたが、どうでも良かった。理性では、このまま行くと大変なことになると分かっていたが、翡翠の中で湧き出る感情を抑えるには至らなかった。
(この先どうなろうとしるか。あいつを殺れればそれでいい)
 翡翠はにやりと笑い、竜に向って駆け出した。

 トントン
 扉をたたく音が聞こえた。こんな夜に来る人物は限られている。きっと、あの店の主人か娘だろう、と思っていると、女の声が聞こえた。
「月が輝く夜に取引を」
 決められた日に、戸を2回叩き、決められた言葉を言う。これは、取引相手が来たことを示していた。この若い娘の声は芳家の娘だろう。男は煙管を置いて、戸をあけた。
「入れ」
「失礼します」
 予想通りだった。大きな青い瞳の快活そうな綺麗な女は、芳家の長女、芳 瑠璃だった。
「取引か?」
「はい。草を買いに来ました」
 草とは、この店で取り扱っている、羅雪(らせつ)という名の花の別称だった。羅雪は麻薬の原料になり、嘉国では、それを育てることも、販売することも禁止されている。ただし、羅雪は薬の材料にもなるのだ。扱いを間違えればただの麻薬だが、非常に高度だが、ただしく扱えば、薬になる。男は羅雪を麻薬として扱うような者に売る気はなかった。きちんと薬として扱ってくれる人物に渡す商人にしか売る気はない。つまり、よっぽど信頼できる商人にしか売るつもりはないのだ。男と芳家は長い付き合いだ。何代にも渡る付き合いがあるが、芳家は店を継ぐ者にしかこの店の存在を知らせていない。そういった決まりを守り、しかも代々守らなければいけない倫理観も一緒に伝えられるからこそ、男は芳家を信頼することができる。
「いくつ欲しいんだ?」
「袋3つ分お願いします」
 明瞭な声でそう返ってきた。男は羅雪を袋に詰めながら、もう一度瑠璃を見た。芳家の長女、瑠璃は、商人にしては純粋な娘だと男は思っている。街の噂を聞く限りでは、子供のころから両親の手伝いをし、利発な子だと言われていた。今では、綺麗に成長し、嫁に欲しいという声が多数あるという。ただし、実際は瑠璃が店を継ぐため、瑠璃が嫁ぐのではなく婿に来てもらうということになるだろう。
(銀も、瑠璃がこんなに綺麗な娘に成長して喜んでいるだろうな)
 最近は会っていない、現芳家の店主、銀のことを思って笑っていると、男は瑠璃に不思議そうな顔で見られた。
「おっと、すまないね。女だてらに家業を継いで偉いと思ってたんだ」
「これは私が望んだことですから。本当は長男が継ぐのが普通だと思いますが、家の馬鹿兄は子供のころから家を継がないって言ってたので、私しかいないと思ってたんです」
 そう、にっこりと笑う瑠璃を見て、この娘は本当に良い子だと、男は思った。確かに、瑠璃には一人の兄がいる。普通は長男が家を継ぐものだが、おそらくその兄は、好きなことをやって過ごしているのだろう。その兄の代わりに家を継ぐとは、本当によくできた娘だ。
「支払いはいつもの方法でいいですか?」
「あぁ。気をつけて宿にもどるんだよ。今日はこの街の宿に泊まるんだろう?」
「はい。もう門は閉まっていると思いますので」
 おじさんも体に気をつけて元気でいてくださいね、と言い軽やかに笑うと、瑠璃は店を出て行った。

 店を出た瑠璃は羅雪を大きな袋に詰めた。もうすっかり夜だ。気持ちの良い夜風が吹いているが、瑠璃はなぜか不安な思いにかられた。
(何か嫌な予感がするのよね)
 といっても、この街の門は閉まっており、今からでは紅貴たちがいる神社に戻ることはできない。
(仕方ないわ。開門したらすぐこの街を出ようっと)

 白琳は何となく夜風に当たりたくなり、外に出た。外では夕食を食べたばかりの冬梅と清風が剣の打ち合いをしている。本当に剣が好きなのだろう。いや、好きというよりはそれだけ真剣だというべきか。白琳がまだ寺子屋に通っていたころ、同級生の男の子は、休み時間になると剣の打ち合いをしていたが、それとは比べられない技量だと、剣をやらない白琳にもはっきりとわかった。
「思わず見とれてしまいますね」
 白琳の横で座って見ていた亮がそう言う。
「はい。なんだか綺麗です。きっと素敵な武官になりますね」
 そんなことを思っていると、上空からバサバサという翼の音が聞こえた。見上げると、見慣れた黒い天馬がいた。翡翠の天馬、天の助だ。天の助が下に降りてくるにつれて、そこに乗る翡翠と桃華の姿がはっきりと見えた。いや、正確には乗っているのは翡翠で、桃華は片手で翡翠に抱えられていた。白琳は、思わず手を口に当てた。見ただけでわかる。――まずい……!
天の助は白琳の前に着地すると、膝を折った。わずかな振動だったが、翡翠に抱えられた桃華は意識がないのか、人形のように揺れた。
「怪我はないようですけどあれは……」
 翡翠は桃華を抱えながらゆっくりと天の助から降りたが、その直後、翡翠は膝をついた。
「翡翠様……!」
「俺は……途……中で…気付いたが……桃華はだめだった。止められなくて……済まない」
 翡翠は自分の刀で体を支えてそう言った。翡翠も桃華も怪我はしてない。それなのに、あの、翡翠が息も絶え絶えになり、桃華が意識を失う状況。何が原因か、大体想像つく。いままでそれに気付かなかった自分が憎い。助けられる自信はあるが、もっと早く気づいていれば……。
「翡翠様、無理して喋らないでください!桃華様は必ず助けますから!それと、翡翠様もおとなしく休んでください!」
 しかし、そんな白琳を無視し、翡翠は桃華を白琳に預けると再び天の助に乗ろうとした。しかし、刀を支えになんとか立っている今の状態の翡翠では落馬するだろう。それに、それ以前にに今の翡翠と桃華の状況はまずい。だいたい、こうして会話できる状況も奇跡だと、白琳は思った。
「無意味な傷を増やす気ですか!?おとなしくしてください!神社に戻りますよ!言うこときかないなら、どんな手段を使ってでも言うことを言いてもらいますよ!」
「駄目だ!……刀が……桃華のか…たなが、村に置き去りになって……うっ」
 突然、翡翠が倒れたかと思うと、気絶した翡翠が横にいた亮に抱えられていた。白琳自身も良くやることだが、翡翠を無理やり気絶させたのだろう。
「ご無礼をお許しください、麒翠様。麒翠様の扱い方は覇玄様から聞きましたので責めるならそちらをどうぞ」
 亮はどこか困った笑みでそう言った。剣の打ち合いをしていた冬梅と清風も異変に気づいたのか、やってきた。
「このお兄ちゃん、あの、麒翠様なの?俺、どうしよう……」
 清風の気持ちを察したのか、亮が優しい声で言う。
「麒翠様に頼んだのが清風でも、麒翠様がこうなったのは清風のせいじゃない。それに、こうなった原因は正確には妖獣のせいでもないよ。君の知っている通り、二将軍は妖獣にやられたりしない。それよりも、尊敬する二将軍様を助けたいなら、白琳の言うことをよく聞いて、手伝ってあげなさい」
 亮はそう言って翡翠を、冬梅に預けた。
「冬梅、麒翠様を連れて白琳殿を、聖刀がある部屋にご案内しろ。状況が状況だから、覚信も部屋を勝手に使っても許してくれるはずだ」
「亮さん、ありがとうございます」
 白琳はお礼を言った。
「鳳華様の刀は、覇玄に私から連絡して何とかしてもらいましょう」
 白琳が頷こうとしたその時だった。突然、白琳が聞いたことのない声が聞こえた。低く、貫禄のある声は、不思議とよく通る。
《心配はいらない。そなたの背に背負うその娘が覚めるまで、刀は私が預かっていよう。主人が世話になっている礼だ》
 声のした方を見た白琳は、言葉を失った。そこにいたのは、黄金の目をもつ、深紅の竜だった。

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