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  第四章 星の願いは 10  

 

 翡翠は人がいない方へ人がいない方へと走って行く。花火が上がる音が聞こえたが、翡翠はそれを他人事のように聞いていた。
 先程まで、祭りの熱気の中にいて、それにゆだねるように歩いていたが、今となってはそれがだいぶ前のことのように感じられる。翡翠は、そんなことを思いながら、立ち止まる。溜息をついて、左手の人差し指と中指の間に挟まれた針を、布でふいた。
 あの時――白琳と一緒に歩きながら、白琳が、子供の頃の話をした時だ。殺気を感じ、とっさに白琳の細い肩を寄せた。寄せた手の指先で、掴んだのが この針だった。そのまま飛んでいたら、白琳の白い首筋に刺さっていたかもしれない。おそらく、この針には毒が塗ってあるはずだ。 どんな種類の毒かは知らないが、もしも、あの白琳の細い首に、針が刺さったら、と思うと、怖ろしい。
(……考えが甘かったな)
 翡翠は、右手を握る。白琳の手を引いていた、その手だ。祭りで、月蛍が照らす露店の間を、白琳と一緒に歩いていた時のことは、だいぶ前のことのように感じるが、白琳の手の感触はまだ残っているようだと、翡翠は思う。力を入れたら、折れてしまいそうな手。けれども、その優しく、温かい手は、翡翠の手を包みこむようだった。あの、やわらかい手を持つ白琳に何かあったらと思うと、底知れない喪失感を感じる。
 しかし、そんなことが起こるとすれば、間違えなく自分が原因だ。
 翡翠は歩を進める。進めると同時に、殺気を持った影も動く。後ろに二人、左右に二人、前に一人。自分を狙って、動いていることは明らかだ。翡翠は、再び立ち止まり、溜息をついた。
「いいかげん姿を見せたらどうだ」
 自分でも驚くような低い声が言葉を言い終えたのが先か、 影が動いたのが先か――翡翠は、振り向かずに、気配だけで人影を捉え、鳩尾に肘鉄を喰らわせ、刀を抜いた。振り向き様、そのまま、 人影を斬り伏せ、左手に持った鞘で、人体急所を突く。
 残った二人の男が、刀の柄に手を当てて、翡翠に歩み寄ろうとしていたが、翡翠は視線だけで、それを止める。
「……俺を狙う首謀者の名を言え」
 二人の男は、翡翠の言葉に、刀を抜こうとするが、それより速く、翡翠は、一人の男の元へ距離を詰める。柄を男の胸に突き、もう一人の男の首に、一瞬で刀の刃を当てた。
「……言う気になったか?」
 男は無言だった。翡翠は、首に当てる刃をさらに強く押しあてた。薄く皮が切れ、うっすらと血が出た。
「俺が当ててやってもいいが。俺を狙った首謀者は……」
「て、挺明稜様です!」
男が、震える声で、叫ぶように言った。翡翠はため息をつき、つぶやくように言う。
「……恵国の第一皇子、挺明稜か」
翡翠は、首から刀を外し、男を正面から見る。
「こいつら全員、致命傷は与えていない。しばらくしたら目が覚めるだろう」
 男は、驚いたように翡翠を見ている。
「こっちも、色々と面倒なんだ。こいつらを連れて、恵国に帰れ」
 翡翠はそれだけ言い、男に背を向けた。翡翠は、心のどこかで、ここにいる者たちはもう、襲ってこないことを感じていた。

 桃華は、翡翠が昼間、書き物をしていた匠院義塾の一室に向かった。戸を開けると、翡翠は、腰に刀を差しているところだった。夜の闇に佇む翡翠は、先程まで着流しを着ていたはずだが、今は着替えていた。黒い立襟の服に、深い緑の上着。翡翠が普段、仕事で出かける時や、旅の道中身に付けているものだ。
「独りで慶を出るつもり?」
「俺を殺そうと狙っている奴がいる。俺と一緒にいたら周りが危険だ」
 独り発とうとするのを止めるべきか……。しかし、桃華は、翡翠が独りになるのを止める言葉を持っていなかった。この場合、翡翠が独りで行動した方が、確かに安全だと、桃華にも分かっていた。もしも、桃華が翡翠と同じ立場だったら、同じ行動を取るだろうし、何より、翡翠は自分の身を守るくらいの実力は当然ある。
「白琳は?」
「覇玄の家へ預けたわ。今はそこが一番安全だから。しばらくしたら、匠院義塾に戻ってくると思うけど」
 そうか、と頷く翡翠の声からは何の感情も読み取れなかった。
「桃華」
 目線を外し、遠くを見るようにして、聞かれる。こういう時の翡翠は、決まって、答えにくいことを聞いてくる。けれども、そんなことを考えているとは悟られないように、無邪気に、何? と、桃華は言った。
「……お前は、俺のことをどこまで知ってる」
 一見、何の感情もこもっていない淡々とした声だった。だが、桃華には、翡翠が、動揺しているのを必死に隠そうとしているような気がしていた。不自然な冷静さが、何よりも翡翠の心情を表しているようだと思う。
「李仙道の入口で、お前が紅貴を助けて、俺が靖郭に他の奴らを送ったが、本来、逆の方が良かったはずだ。だが、その時紅貴を狙ってたやつら……それが恵国の奴らって言うなら説明がつく。奴らが俺のことを知ったら、俺を殺そうとするだろう。桃華はそれを防ぐために、紅貴を助ける役割を引き受けた。……おまえが俺のことを知っているとしか思えない。……お前は俺のことをどこまで――」
「巓(てん)家のこと?」
 翡翠にこれ以上喋らせたら、良くない方向に話が行くような気がし、桃華は、翡翠の言葉を遮るようにして言った。
「お前……」
「私が翡翠の質問に答えて、翡翠はどうするつもりだったの?……誰にも言うなって言うつもりだった?」
「いや……」
 翡翠の否定の言葉が、肯定を意味していると、桃華は思った。
「……誰にも言わないよ。でも、駿ほど極端な考えは持っていないにしても、わたしも、駿と同じような考えを持ってるわ」
 きっと、翡翠ならば、言葉の意味が分かるだろう。納得はしないだろが。
「翡翠、どうしてそこまで……」
「他の奴らには、俺が勝手に、一人で行動した、とでも言っておけ。俺の命を狙っている奴がいるなんて言ったら、多分、心配するだろう」
今度は翡翠が、桃華の言葉を遮り、この話はもう終わりだというように、翡翠が言った。
「文机の上に、手紙を用意した。それを渡しておけ……多分、恵国の都を過ぎたあたりで合流できるだろう。それまで、他の奴らを頼む」
 翡翠は、もう話すことは無いというように、桃華の横を通り抜けようとする。

――すまない

 桃華の横を翡翠が通り抜ける時、小さな声でそう言われる。
 それを一番言わなきゃいけないのは、白琳に対してでしょう? 桃華はそう言いたかったのだが、言葉にできなかった。
 桃華は、翡翠がいなくなった部屋を見て、珍しくため息をついた。きっと、白琳と瑠璃は心配するだろう。紅貴も、顔には出さないだろうが、翡翠のことを気にするはずだ。けれど、そんな資格は自分にはないと、桃華は思う。白琳と瑠璃と紅貴がどう思うかを知っていながら、翡翠が独りで発つことを許してしまっているのだから。
(実際、翡翠が独りで行動した方が、みんなは安全だよね……)
ならばせめて、翡翠を信用し、無事合流できることを願うしかないだろう。これではまるで、共犯者のようではないかと、桃華は思った。

「大変なの!」
 紅貴が、瑠璃と共に、匠院義塾に戻ると、慌てた様子で桃華が駆け寄って来た。
「どうしたんですか?」
 紅貴と瑠璃の後から、やって来た白琳が、桃華に問う。そんな白琳を見て、紅貴は違和感を感じる。白琳の横にいるはずのあいつがいない。
「白琳、翡翠はどうしたんだ?」
 白琳は、悲しそうに笑って言う。とても、綺麗な笑みなのだが、それ以上に、見ているこちらの心が痛くなる。
「翡翠様と一緒に歩いていたんですけど、何かあったみたいで、私を桃華に預けてどこかへ行ってしまいました」
「うん、それでね。しばらく私と一緒に花火を見てたんだけど、翡翠の様子がおかしいと思ったのね。白琳は綺麗な格好してるから、変な男に絡まれちゃいけないと思って、覇玄に預けて、龍清は、豹馬に預けて翡翠を探すことにしたの! そしたら、翡翠が書き物をしていた部屋にこれがあって!」
 桃華が、手に持っていた紙を白琳に渡した。紙を見ていた白琳の目が僅かに、悲しげに伏せられていく。
「白琳、何て書いてあったんだ?」
「やることができたから、一足先に、慶を発つと。……恵国で合流できるはずって」
 紅貴は、瑠璃と桃華に選んでもらった着物を着て、白琳が嬉しそうに微笑んでいた時のことを思い出す。これから、翡翠とお祭りに行くという白琳は、見ているこちらも嬉しくなるよな、幸せそうな笑みを浮かべていた。あの笑みはまぎれもなく、翡翠に向けられていたものだったのに、その翡翠が勝手に一人でいなくなるとはどういうことだろう。それに、翡翠は一応、病み上がりのはずだ。そんな翡翠が一人で慶を発つなんて……
 翡翠へ対しての怒りと、心配という気持ちが複雑に絡み合っていくのを、紅貴は感じた。
「ねぇ、まだ夜で、街の門も閉まってるから、翡翠はまだ街の中にいるんじゃない?」
 瑠璃がそう言うが桃華は首を振った。
「門が閉まっていようと、門兵に気づかれないように、門を飛び越えて、街を出るなんて、翡翠は簡単にできるわ。天之助もいなくなってたからもう街を出てると思う。今から私が天テンに乗って、翡翠を探すって手もあるけど、翡翠相手じゃ追いつけるかわからない……」
「……夜の門の外は危険です。ですから、私たちは明日出発しましょう。翡翠様の言う通りなら、恵国に早くつけばそれだけ早く、翡翠様と合流できるでしょう」
「白琳、それで良いのか?」
 白琳が、紅貴を安心させようとするように、やわらかい笑みを浮かべた。いつもだったら、そんな白琳の気持ちをありがたく受け取るだろうが、今は、申し訳なく思ってしまう。
「……夜、翡翠様が門の外に出たことは、正直心配ですが……」
 白琳の声が、少し震えていた。翡翠に対しての、心配な気持ちを抑えられないようだと、紅貴は思った。しかし、その言葉を良い終えると、いつもの優しい口調に戻る。
「翡翠様を信じましょう」
「まったく、あの馬鹿兄、何考えているのよ! まぁいいわ。とりあえず、今は明日に備えて休みましょう」
 瑠璃の言葉に、桃華、白琳が動き、慶に来てから宿として借りてきた部屋に戻っていく。一人残された紅貴は、声を出す。
「おい」
 もちろん、話しかける相手は、瑠璃、桃華、白琳の三人ではない。やがて、紅貴の声が届いたのか、目の前に管狐が姿を見せた。湖北村で出会った、あの管狐だ。管狐は、紅貴につぶらな瞳を向けている。
「気付かれないように、翡翠を探して追ってくれないか」
 紅貴がそう言うと、管狐は紅貴の指を手加減なしで噛んだ。
「痛い! 噛むなって!」
 この管狐の主人は紅貴のはずなのだが、紅貴は完全に管狐に振り回されていた。しかし、そうも言っていられない。
「頼む! 翡翠のことが心配なんだよ!」
 紅貴がそう言うと、管狐は紅貴の指から口を離した。しかし、今度は紅貴の目の前であくびをしだす。
「あぁー! もうっ! 俺が心配してるのもあるけど、白琳や瑠璃、桃華はもっと心配してるんだよ! お前はあの三人が 悲しむ所を見たいのか?見たくないだろう?」
 しばらくは身をくねらせるだけだったが、やがて、諦めたように紅貴をじっと見ると、姿が消えた。ようやく翡翠を追い始めたらしい。

 翌朝、紅貴と、瑠璃、桃華、そして白琳の四人は翌朝、慶を発った。いつもの神経を逆なでさせるような冷淡な声が聞こえない。見慣れた茶髪の後ろ姿が見えない。たったそれだけのことのはずなのに、見慣れない光景に不安を感じる。
(白琳はもっと翡翠のことを心配しているんだろうなぁ……)
翡翠に会ったらまっさきに殴ってやりたい。そんなことを思いながら、紅貴はため息をついた。

桜の花弁は散り、色が緑に変わりかけている。もう、春も終わろうとしていた。

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