史書

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  第四章 星の願いは 2  

 

 怪我はないかとか、疲れてないかとか、誰にも襲われなかったかなどということを顔を赤らめて桃華に聞く龍清を、微笑ましいのを通り越して、少し暑苦しいと、紅貴は思っていた。二人ともどこか幼い容姿で、綺麗や、カッコいいという言葉より、も可愛らしいというところが似合うところや、大きな丸い瞳を持っているところなどが似ており、仲の良い双子のようだと最初は思っていたのだが、目の前で繰り広げられているそれは、どう考えても違う。
「あの、失礼ですが、龍清様と、桃華ってどのような関係なんですか」
「龍清とは仲が良いお友達だよ」
 そう、桃華は、花が咲いたようににっこりと笑ったが、龍清は、両掌を、床につき、うなだれた。
(龍清様ってわかりやすい方なんだな)
「桃華、本当に友達なの?そうは見えないんだけど」
 瑠璃の問いに、桃華は、大きく頷く。
「うん、だって龍清は皇子様だけど、仲良しだもん。お友達だよね?」
 桃華が言ったことに対し、清風は、曖昧に頷くしかない様子だった。こんなにわかりやすい愛情表現をしているのにもかかわらず、まったくそれに気付いていない桃華に驚くと同時に、紅貴は、龍清に同情した。
(恋愛感情に疎いどころじゃないな。龍清様も可哀想に)
 そんなことを外野が考えていることを、知ってかしらずか、桃華は嬉しそうに話す。
「一目ぼれした龍乃助を買ってくれたのも龍清だし、大好きっ」
 そう言って、無邪気な子供なような笑顔で、脇差の唾の部分に括りつけられた小さな縫いぐるみを見せる桃華に、紅貴はなん言って良いか分からなかった。もちろん、龍清に同情してだ。しかし、意外にも龍清の嬉しそうな言葉が聞こえてきた。
「桃華が喜んでくれて俺も嬉しいよ。梅っちも喜んでるよ。うん!」
 そういった龍清の手のひらには、いつの間にか桃華の龍乃助とは色違いの桃色の龍が乗っている。どうやら、お揃いで買ったものらしかった。
(楽しそうだから、まぁいいか)
 顔の筋肉が完全に緩み、でれでれとした笑みを浮かべる龍清に対して、紅貴はそんなことを思った。仮にも皇太子がそれでも良いのだろうかとも思うが、龍清の、心から嬉しそうな笑顔を見ると、呆れるという意味で、何も言うまいという気にさせられた。
「そういえば、なんで龍清様は慶にいらっしゃるんですか?煌李宮にいなくて良いんですか?」
 瑠璃が、普通であれば当たり前に感じる疑問を、龍清に尋ねた。もちろん紅貴も、仮にも皇太子が、都を出て、自由に動き回るという話は聞いたことがない。
「俺は、できるだけ自分の目で他の国、この国の街、それから、色々な人を見るようにしてるんだ。話に聞くだけじゃ、分からないことが多いしな。王に即位したらこんなこと自由にできなくなるし、今のうちにできるだけ色々な場所を見て回ることにしてるんだ。まぁ、ついでに役に立ちそうな情報集めもしてるから、まったく遊びってわけでもないけどな」
 そう、まるで柔らかな春風のような笑みを浮かべた龍清からは、さきほどまでのだらしのない様子は消えていた。女の子が喜びそうな憧れの皇子そのものもに見えないこともない。もしかしたら、龍清がああなるのは、桃華が絡んだ時だけなのかもしれない。
「俺は、今まで隣の国、恵に行ってたんだ。桃華たちが洸に行く前に、恵を通過するだろう? 恵の様子を知った方が良いんじゃなかなって思ったんだけど、 二人足りないね」
「私も詳しくは知らないんですけど馬鹿兄翡翠は体を壊して、清院養生所に行ってます。白琳はその付き添い、というより、どちらかというと白琳が翡翠を養成所に連れて行きました」
瑠璃の言葉に、龍清の顔が一瞬、僅かに歪んだ。一瞬歪んで、すぐに無表情になったので、気づく者はあまりいないだろう。
「翡翠、力を使いすぎたみたいなの。白琳がいるから大丈夫だと思うけど。とりあえず、私たちはここに荷物を置きにきたの。翡翠の所にはこ荷物を置いてから行くつもり」
「そうか。それに俺もついていくよ。恵のことを翡翠と白琳も知るべきだっていうのもあるけど、翡翠が心配だ」
「あんな馬鹿兄のことを皇太子様が心配してくださってありがとうございます」
瑠璃がそういうと、龍清は軽く首を振った。
「ところで、赤い髪の君、紅貴君だったかな?あとでゆっくりお話したいんだけど良いかな?」
 はい、という声を出す前に、自然と紅貴の首はこくりと頷いていた。

 茶色の髪と翠色の瞳を持つ幼い少年は、前にいる女を見据え机の前に座っていた。目の前にいる女は、特別美人というわけでもなかったが、後ろで綺麗にまとめられた黒髪のお団子や、赤い着物の間から僅かに覗く鎖骨が、色っぽいと、少年は幼いながらに思っていた。女をじっと見据えていると、紅が塗られた女の唇が僅かに動く。
「史書、創世の巻の、秩序の世界の始まりの部分を暗誦しなさい」
 声は、女の割には低く、強い響きが含まれている。しかし、それに臆して何も答えられないなんてことが起これば、何されるかわかったものではない。
「人々は、この世界の秩序を作り出した。秩序の世界と混沌の世界の線引きをしたのは妖術使いだった。神龍の体より生まれし世界に人間の秩序の世界と、混沌の世界の境界を作った」
 普通であれば、5歳の少年が理解できる内容ではないのだろうが、少年は、それをすらすらと答えた。
「それで良い。今日はこれでおしまいよ」
 少年は驚いて、顔をあげる。午前中いっぱいは勉学の時間だ。終わるにはまだはやい。驚いているうちに、母親と同じ歳くらいの背が高い女は、少年を抱きかかえてしまった。同じ年頃の少年より、自分が背が低いことを知っていた少年は顔をゆがませる。
「何のつもりだ」
「さっき、力を使ったでしょう?」
「……っ!わざとじゃない!あんな力、使いたくて使うわけないだろう!」
「幼い身体にその力は大きすぎるわ」
 女が、少し強い口調でそう言うと、同時に、急に襲ってきた胸の違和感に少年は小さな手で胸を押さえる。ぜいぜいと嫌な呼吸がこぼれ、そんな情けない自分に、少年は、空いている左手で、身に付けている深い緑色の、絹で出来た着物を握った。しばらくしてたどり着いた自室には、布団が敷かれていた。起きてすぐには、畳まれていたはずなのだが、再び敷かれているということは、こうなることを、少年を抱きかかえる女が見越していたのかもしれない。布団の上に降ろされた少年の目の前に、女の顔が迫った。女の黒い瞳と目が合う。
 ――優しい瞳だ
 少年のことをこんな風に温かい目で見るのは目の前にいる 女――萩と、数人だけだった。こうして、力を使いすぎ、それに耐えきれないということを度々起こしていた少年は、周囲の自分に対する評価を、幼いながらも正確に把握していた。
 多くの人が少年にかける声は、身を案じるものや、心配を表す言葉を使っていたが、その目はいつも少年を見下し、侮っているように感じられた。しかし、それをそのまま受け入れる気はなかった。単純に、悔しいというのもあったが、それ以上に、自分の側に就く人物に辛い思いはさせたくはなかったし、そうでなくても、もともと、侮られて、それを甘んじて受け入れるなんてことができる立場だとも思わない。力を抑える術を持たず、思うように行かない身体が歯がゆく、本当に悔しかったが、かといって何もしなくて良いとはおもっていなかった。――まだ、他にできることがあるのだから。
「萩、俺はやっぱり、誰にも負けない知恵と知識を得るつもりだ。だから、これからも頼む」
 胸が苦しみを感じながらも、最後まで言い切ると、萩は柔らかく笑んだ。目を細めて、こちらを見る萩はどこまでも温かく、そして、萩自身がどこか満足気だと、少年は思った。やがて、額に当てられた、萩の柔らかい手に誘われるようにして、少年は眠りについた。

 翡翠は、急に眼を覚まし、勢いよく体を起き上がらせた。背中に冷たい汗が伝っているのを感じる。幸い、部屋に人の気配はない。動揺している自分を、白琳にだけは見られたくないと思っていたが、白琳がいないことに、翡翠は、ほぉっと息をついた。右腕に違和感を感じ、ちらりとそちらを見ると、点滴につながれていた。
(仕事の成果か)
 そう、一見、場違いなことを翡翠は思う。嘉国にある、医療品、点滴や、注射などといったものは軽玉と呼ばれる、特殊な玉で作られており、それは、主に弄国で取れる。嘉では、そのあらゆる硬さ、形に加工できるその玉を、嘉国の兵と交換で手に入れており、その交渉と、兵の手配は、翡翠が武官になってからは翡翠の仕事だった。
 ――誰にも負けない知恵と知識を得るつもりだ
 急に、声変わり前の自分の幼く、しかも弱々しい声が翡翠の頭に響いた。翡翠はそれを振り払うように、軽く頭を振る。そして、自分に言い聞かせるつもりで、声に出す。
「馬鹿らしい……! 結局、餓鬼の頃のあれは悪あがきだったじゃないか。あの頃は、自分の立場を勘違いしていたんだ…」
 声に出すことで、無理矢理現実に戻る。しばらくし、落ち着いた翡翠は、慶に着いてからのことを考える。白琳に連れられて、清院養生所に向かったことまでは覚えていたが、清院養生所に着いてからの記憶がない。無理やり意識を失わされたか、そうでなければ、勝手に意識を失ったのだろう。どちらにしても、最悪だ。翡翠は、急に自分が情けなくなり、息を吐いた。
(……本当に、今も昔も、何もできないな)
 翡翠は、そんなことを思いながら、再び横になり、目を閉じた。

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