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  第四章 星の願いは 7  

 

「久しぶりじゃの、翡翠」
 口調こそ、歳を感じさせるが、それとは逆の、張りのある声に、翡翠は顔を上げた。いつもの癖で、何の用かと問おうとしたが、覇玄の言葉が続いた。
「桃華から、お前が弄国の資料を欲しがっているときいてのう。仕方ないから匠院義塾の書庫からもってきてやったぞ」
 覇玄は、そう言うと、手に持っていた桐の箱を床に置いた。どす、という音は思いのほか、重かった。
「何でも良い。取ってくれ」
「学生時代の恩師に敬語も使えないのは相変わらずじゃのう」
 そう言いながらも、覇玄は、桐の箱の蓋をあけて、書物を取り出した。 手渡されたそれは、元々は綺麗な紺色だったのだろうが、色褪せていた。翡翠は、そっと、渡された書物を開いた。慎重に扱わなければ、すぐに破れてしまいそうなほどに、年代を感じさせる物だったのだ。
「今更弄国関係について調べるなんてどうしたんじゃ?お前のことだ、弄国のことならほとんど頭に入ってるじゃろう」
「……そのつもりだが、見落としているかもしれないからな」
 そう言い、翡翠は書物に目を落とすが、溜息を着く。予想はしていたが、書物の内容が期待外れだったのだ。
「やっぱり、古語では書かれていないんだな」
「武官を育てる匠院義塾じゃあ、古語を読めるやつはほとんどいないからのう」
 もっとも匠院義塾以外でも、文官以外で古語を読めるものはいないが。そう言って、覇玄は笑った。
「だから古語が良いんだ」
 かつて、嘉国や、恵国があるこの地、双龍国では、今は古語とよばれる言語が使われていた。しかし、古語で使われていた文字は、難解で、一般に周知させるのは困難だったという。そこで新しく考えられたのが、今、双龍国で使われている現代語である。古語が使われていた時代の書物は、現代語に訳されている物もあるが、それが必ずしも正確に訳されているとは言えなかった。一般に古語が広まっていないことを良いことに、訳者にいとって都合の悪い部分の情報は訳さないこともあるという。それになにより、一文も訳されていない古語の書物も多い。そういうわけで、現代語よりも古語で書かれた書物の方が、多少正確な情報が得られるはずだと、翡翠は考えていた。
「そこまでして、いったい何を調べるつもりじゃ?」
「駿に頼んで、弄国に行ってもらうことにしたんだが、あいつは何か良くないことを企んでる気がする」
「汐家の役目に関することじゃないか?」
「……もしそうなら、あいつは真っ先に俺を殺すはずだ。……俺がやったことを知ったら、だがな」
 翡翠が、独り事のようにそう言うと、覇玄は、少し怒ったように、睨むようにして翡翠を見た。覇玄が何か言ったら、分が悪そうだと思い、翡翠は慌てては言葉を付け足す。
「龍孫様に恩があるからそう簡単にあいつに殺られるつもりは無いがな」
「武官になったのは、龍孫様の力になるため、とでもいうつもりかのう」
 いつもよりわずかに低い覇玄の声は、深いため息のようなものが混ざっている気がする。
「何が言いたい」
 翡翠は確かに、龍孫の力になるために武官になった。嘉国の王妃、清幟に、文官になることを勧められたこともあるが、体を動かす方が好きだったし、なにより、できるだけ嘉国の政(まつりごと)に関わりたくなかったため、武官になることを選んだ。武官になって、一兵士として多少なりとも役に立てれば良いと。 ――もっとも、嘉国の王、龍孫の命により、二将軍なんていうものになってしまい、政にも、関わるざる得ない状況になってしまったが。
 翡翠がそんなことを考えていると、覇玄の乾いた笑みが聞こえる。――呆れられているようだと、翡翠は思った。
「それはおまけじゃろう。お前が、武官になったのは、別の理由だと思っていたが?」
 翡翠が武官になったのは、龍孫に恩を感じ、その力になるためだった。確かにそのはずなのに、翡翠は、自分が動揺しているのを感じた。鼓動が、いつもより大きく聞こえる。まるで、知られたくないことを知られた時のようだ。
「……他に何の理由があるんだよ。まぁ、商人に向かないから、武官になったっていうのもあるが」
 動揺しているのを悟られないように注意しながら、できるだけいつも通りの口調に聞こえるようにそう言った。しかし、覇玄は声を上げて笑う。
「自分でも武官になった本当の理由を把握しておらんのか。こりゃ、傑作じゃ」
「俺は本当に、龍孫様のために……!」
 声を荒げて言うが、覇玄はいっそう大きな声で笑い、どこかからかうような口調で言う。
「わしの知ってる翡翠は、誰かの為にとか、素直に口に出して言うようなやつじゃなかったと記憶していたが、勘違いじゃったかのう」
「覇玄……!」
 いい加減にしろ、と翡翠にしては珍しく大きな声で、言おうとしたが、自分の咳に阻まれた。どうやら、少し調子に乗り過ぎたらしい。しばらくし、落ち着くが、なんとなくきまりが悪くなり、溜息をついた。
「そうなったのも、お前が今ここにいるのも、力を使い過ぎたからじゃろう。力を使わないと、妖獣を倒せないほど、お前が弱かったとはのう」
「好きで使ったわけじゃない。押さえが効かなかったんだよ」
「せいぜい、それで身を滅ぼさないことじゃな。周りが迷惑する」
それには何も言い返すことができず、翡翠は思わず押し黙る。
「もうすぐ慶誕祭じゃのう」
 先ほどより、穏やかな口調で、語りかけるように覇玄が言った。
「それがどうした」
「ああいう祭りは、男女で行きたいものじゃのう。わしは、若くて綺麗な娘を誘って、一緒にいくつもりじゃ。若い娘は、ああいう祭りに、わしのような良い男と行きたがるもんじゃろう?」
「歳を考えろ、じじい」
「お前は行かないのか?」
「……余計なお世話だ」
 いいかげん帰れと、覇玄を下がらせ、部屋は再び翡翠一人になる。
「慶誕祭か……」
翡翠は、窓をぼんやりと見ながら、つぶやいた。

「紅貴、入るぞ」
 匠院義塾の紅貴が泊まるために借りた、畳が敷き詰められた一室。そこで紅貴は昼寝をしていたが、龍清の声に起こされる。
「龍清か。起こしてくれてありがとう」
 紅貴がそういうと、龍清が不思議そうに首をかしげた。
「いや、桃華に木刀で襲われる夢を見ていたんだ」
 龍清は目を細めて、声をあげて笑う。
「桃華は強いからな〜。まぁそんなところも良いんだけど」
「龍清は本当に桃華のことが好きなんだな」
 龍清は、嬉しそうに頷いた。もう慣れた反応だが、にっこりと笑う龍清は、本当に幸せそうだ。
「桃華のどこがそんなに好きなんだ?」
 確かに、桃華は可愛らしい。見た目は。人の好みはそれぞれだと思うが、龍清の桃華にたいする気持ちは、少々異常ではないかと紅貴は思う。
「もちろん全部好きだよ。かわいい所も、剣が強いところも、意外としっかりしているところも。それに、部屋の掃除ができないところもな」
「部屋の掃除ができないところも好きなのか?」
龍清は、うん、と頷くと、少し落ち着いた声で言葉を続けた。
「それから、時々危なっかしいところもね。全部ひっくるめて桃華が好きだ。初めて会った時……」
 龍清の視線が変わったような気がした。龍清の目は、紅貴を見ているはずなのだが、視線は、その先ずっと遠く。まるでどこか遠い過去を見ているようだ。
「初めて会った時、どうしても桃華を守りたいと思ったんだ」
そう言って、龍清は再び、にこりと笑顔を作った。
「そうだ紅貴。紅貴って洸国を救うんだってな」
「うん。今の洸はひどすぎる。あの国では、生きていくのが大変だから……」
 紅貴は手をぎゅっと握る。ただでさえ、一年の大半が雪で覆われる国なのに、洸国の皇帝、紫淵は、それ以上に洸国の民を苦しめている。 ――紫淵。その名前を思い浮かべるだけで、紅貴はやり場のない怒りを感じる。そいつのせいで―― そいつがいるから洸国の民も、それに、紅貴にとってかけがえのない人も死んだ。ひたすら悲しみにくれる日々は当に過ぎ去った。ふつふつと湧き上がる怒りは、出口を失ったように心を震わせている。
「紅貴?」
「いや、悪い」
「『凛河の盟』ってあるだろう?」
「あぁ」
「俺はいつかそれを破棄したいと思っている」
「え……?」
 龍清が言った常識では考えられない言葉に、紅貴は呆然とする。
「『凛河の盟』。それは、嘉と洸の間で結ばれた盟約で、それがあるから、今は、嘉と洸は今は争っていない。ただ、変だと思わないか?こんなことを洸で生まれた紅貴に言うのもおかしいと思うんだけど、嘉と、洸が戦争していた時、洸国の方が有利だったんだ。それが、互いの国に互いの軍を入れるのを禁止して、実質、国交を一切なくすような形で戦争をやめたなんて。洸国には何の益もないよな」
「……嘉国の何かと引き換えに、洸国は戦うのをやめて、今の国境で落ち着いたって聞くけど」
「そう、それだよ紅貴。戦いに遥かに有利だった洸が、戦うことをやめるくらいの物を嘉は渡した。多分、相当大事な物だったんだ。だけど、それだけの物なら、嘉はそれを取り返さなきゃいけない。そんな気がするんだ」
紅貴は、再び声をあげそうになった。
「ごめん……やっぱり、洸で生まれた紅貴に言うことじゃないよな」
「違うんだ!」
 紅貴は、慌てて龍清が言った言葉を否定する。
「俺も同じことを考えていたんだ!」
今度は龍清が驚く番だった。もともと大きな瞳がさらに丸くなる。紅貴は、そんな龍清を見ながら、言葉を続ける。
「洸国が凛河の盟を結ぶために得たそれはぜったい嘉に、返さなきゃいけないんだ」
 ――紅貴は、嘉国の王に、奏上した時のことを思い出す。
「……龍清、俺は、理由があって洸が凛河の盟と引き換えに得たものが何かを知ってるんだ。今一緒に旅をしているみんなが洸に行くことを許されたのは、洸が救われた時には、嘉にとってかけがえのないそれを返す……それを嘉国の王、龍孫様に約束したからなんだ」
 龍清は、信じられない、というようにこちらを見ている。
「そうだな。龍清はこの国の皇子だよな。嘉国にとって大切なものを取り戻すのは龍清の願いだろう?」
「うん」
「その願いを叶えるって、約束するよ」
 紅貴は再び、洸国に思いを馳せる。紅貴がまだ幼く、何も知らなかった頃、洸国で珍しく太陽が覗き、外で遊んでいたことがある。冬も終わりかかけていたその日、咲きかけの椿の花を見つけた。少しまぶしいくらいの光を受けて、雪に映える鮮やかな赤い花を見た紅貴は、幼いながらに、綺麗だと思ったのを覚えている。――洸国では生きることに精いっぱいで、そういったことに時間を割ける人間などほとんどいない。いつか、洸国に住む誰もがそんなことを感じられるような国になれば良いと、紅貴は思った。
 そんな国になれば、きっと、龍清の願いも叶えられるだろう

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