史書

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  第四章 星の願いは 9  

 

 

匠院義塾の一室。翡翠は、筆を硯に立て掛けるように置いた。
(もうこんな時間か)
 書庫から出た翡翠は、匠院義塾の一室を借りて、書き物をしていた。始めた頃、まだ昼間だったはずだが、窓から空を見ると、茜色をしていた。こんなに長い時間書き物をするのはずいぶん久しぶりだったためか、少し、肩がこっているような気がする。翡翠はゆっくりと立ち上がり、軽く伸びをした。刀掛けに置いてあった自分の刀を腰に差し、慣れしたんだ刀の重さにそっと安堵する。
 ――こんな格好だと呆れられてしまうだろうか。
 深い緑の着流しに、刀を差し、しかもその刀の柄と鞘には布が巻かれている。見た目に気を使っているとは言えない格好に、我ながら苦笑する。
「翡翠様、入ってよろしいでしょうか」
 聞きなれた、白琳の柔らかい声に、翡翠は答えようとする。
「あぁ、かまわな――」
 振り返って、翠色の瞳が写した白琳の姿に、声が奪われ、時が止まった。

 いつもは下ろしている長い黒髪が優美な形に結いあげられていた。露わになった白い首筋に、わずかに残った黒髪が零れおち、それが余計に、白琳の肌の白さを際立たせている。窓から入ってくる茜色の夕日が、白琳の白い肌を照らしていたが、それすらも、白琳の美しさを際立てる一部でしかない。無意識なのだろうか。わずかに下げられた目線は、睫毛の長さを強調し、切れ長の瞳は、磨かれた黒珊瑚のような気品をたずさえていた。普段の白琳が着ないよな、黒い着物は、白琳の白い肌に映えていた。派手すぎず、それでいて、優美な、赤や白の花が黒い着物に咲いている。しかし、それだけ美しい着物であっても、それ以上に、白琳自身が、綺麗だった。ほんのりと紅が塗られたやわらかそうな唇が動き、耳に心地良い優しい声が言葉をつむいだ。
「やっぱり、私には似合わないでしょうか?」

 上目遣いで問われ、翡翠は、口を開く。
「――……白琳にしては似合ってるんじゃないか?」
 たったそれだけの言葉だったのだが、どこかうっとりとした表情で、優しい笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
 それは、心なしか、いつもより暖かい声に、翡翠には聞こえた。
「……祭り、行くか」
「はい」
 そう、今度はにっこりと笑う白琳の笑顔には、綺麗さのなかにも愛らしさが含まれていた。

「翡翠たち、というか翡翠今頃どうしてるかな」
「びっくりしてるでしょうね。まぁ私と桃華の手にかかればこんなもんよ」
瑠璃に、自信たっぷりに言われた紅貴は、数刻前のことを回想する。

「翡翠と一緒にお祭りに行くの?」
 瑠璃がそう言うと、白琳はおだやかな笑みを浮かべて頷いた。
「これは、本気でやるしかないわね」
「そうだね」
 紅貴は、最初、瑠璃と桃華が何をしようとしているのか分からなかった。
「白琳、とびっきり綺麗にしてあげるわ」
 そう、口の端だけで笑みを作った瑠璃に本気をみたと紅貴は思った。
それからしばらくし、瑠璃と桃華に呼ばれ、白琳を見た紅貴は言うべき言葉を失っていた。
 髪型を変え、化粧をし、着物を変えた白琳があまりにも綺麗だったのだ。
 驚いている紅貴を見た瑠璃が、嬉しそうに言った。
「紅貴がこれだけ驚いているんだもん。あの馬鹿兄も喜ぶと思うわ。自信をもって行ってきて」
「ありがとございます」
 そう、少し照れたように、でもどこか嬉しそうに言う白琳は、紅貴にその気がなくても――もし、その気があるなんて思われたら、翡翠に何をされるか分かったものじゃないが。 ……そこだけ空気が変わったような、惚れ惚れする美しさだった。

「これで、馬鹿兄が、たまには良い所を見せられれば良いんだけどね。……白琳と翡翠はもちろんだけど、桃華も龍清様に連れられていっちゃうし、なんだかみんなが少しだけ羨ましい」
 口調はいつも通り、紅貴にとってはしっかり者の瑠璃だったのだが、まっすぐに前を見る青い瞳は、少し憂いを含んでいるような気がした。
「ねえ、紅貴には好きな人ってっていないの?」
 言った声は不自然に明るい。
「う〜ん……大切な人はいるけど、好きな人っていうのはよくわからないや。瑠璃は?」
 瑠璃の瞳の憂いがいっそう濃くなったようだ。それを見ていると、すこしせつない気分にさせられる気がする。
「……一応、いる、かな? でも、最近、その人が考えていることが分からなくなちゃって」
 吐いた吐息は、重たい空気を含んでいた気がした。
 自嘲気味な笑みっていうんだろうな。僅かに笑っているはずなのに、そんな瑠璃の笑顔を見ていて、なぜだか、すこし心が痛い。
「……ねぇ紅貴、大切な人のために、どんなことだってやるってどういうことだと思う?」
 思い浮かんだのは、今はこの世にはいない、かけがえの無いあの人。憎らしくもあったが、紅翔のあの手はいつだって紅貴を守ってくれていた。
「急に、こんなこといってごめん! でも、翡翠や桃華にはなんとなく言いにくくて」
その言葉を聞いて、瑠璃が紅貴に相談したわけがわかった気がした。――翡翠も桃華もいつだって守る側の人間だから……守られる側の気持ちは想像しにくいのではないだろうか。
「分かってほしいよな。こっちも大事に思っていることを」
「……うん、本当に。愚痴ばっかり言ってごめん。少し、すっきりしたわ。紅貴って、月蛍見たことないんでしょ?私が案内してあげるから、一緒にお祭りいこう」
 そう言って、笑顔を作った瑠璃からは、憂いの表情が消えていた。

道に並ぶ露店には、月蛍と呼ばれる花が飾ってあった。夜になり、月蛍が、淡い光を発している。いたるところに月蛍が飾ってあるものだから、まるで星の中を歩いているようだと、白琳は思う。
 ちらりと、横に並ぶ翡翠を見る。月蛍に照らされ、こちら側を見ることなくまっすぐに前を見つめる翠色の瞳は本当に綺麗だ。初めて会ったとき、もうずいぶんと昔のことだが、子供ながらに、翡翠の翠色の目が好きだった。どこか強い力も含まれた瞳。ある時から、その強い光は少し弱くなってしまったけれど、今でも好きだ。……できることなら、またあの頃のような強い瞳をもう一度見たいと思っていた。
 いつもは早足の翡翠が、自然に白琳の歩幅に合わせている。その気持ちが素直に嬉しい。
 ――優しい人だわ
 そう、本当に優しい人だ。翡翠はその端整な顔立ちで、女官の少女などから人気があった。しかし、同時に、近寄り難いと思われていたことも、白琳は知っていた。ある程度親しい人からは、良いのは見た目だけだなどと言われているが、 白琳にとってはその見た目よりも、あまり気付かれない翡翠の不器用な優しさのほうがずっと、魅力的だった。その優しさと、もともと持っていた強さゆえに、大変な思いをしたこことがあることも、白琳は知っていた。
「お姉さん、簪はどうかね」
 露店から声がかかり、そちらを見ると、店の主人の手の上に簪が乗せられていた。赤い花と白い花が、艶やかに咲き、花からは小さな真珠のような珠が零れていた。けれども、決して派手すぎず、上品にまとめられていた。瑠璃がどこからか持ってきてくれた今着ている着物に合いそうだと、白琳は思った。
「綺麗ですね」
「欲しいのか?」
 他意はなく、簪の感想を口にしただけなのだが、翡翠は露店の前に行くと、店の主人に言う。
「それ、包んでくれないか?」
 翡翠がそう言うと、店の主人はにやにやと笑って言う。
「そんな綺麗な姉さんと一緒に祭りだなんて良いね〜」
「おやおや。そうだ兄さん、その簪、お兄さんが差してやったら?」
 店の主人の横にいたおばあさんが、楽しそうに言い、簪を包まずに渡した。翡翠はぎこちなく、それを受け取った。
「……白琳、良いか?」
 白琳が頷く前に、翡翠が白琳の前に立った。自然と両手を胸の前に当てるようにしていると、翡翠の端整な顔が近づいてくる。その頬は少し珠に染まっていた。
「……できた」
 顔をあげると、珠と球が当たり、涼やかな音がした。
「あの、ありがとうございます」
「いや、いい」
 そう、目を合わさずにそう言った。白琳は、急に歩きだしてしまった翡翠について行くように横に並ぶ。
「もうすぐ花火が始まるな」
「はい。翡翠様、子供の頃一緒に花火を見たのを覚えてますか?」
 たしかあれは寺子屋に通っていたころだから白琳が12歳だった時だ。李京の桜祭の最後、当時寺子屋に通っていた同年代の子供たちと一緒に花火を見た。そこに、子供だった翡翠もいて、一緒に並んで見たのだ。翡翠の返事をまっていたが、翡翠の手に、肩を寄せられる。翡翠の手が当たる肩は少しだけ痛い。目線だけ動かして翡翠の横顔を見ると、先ほどよりも険しい表情をしていた。
「白琳、来い!」
 翡翠の固い手に、無理やり引かれ、人と人の間を縫うようにして走っていく。着いたのは、人が腰掛けことができる石が並ぶ、広場だった。そこにいた、見知った人物の元へ、白琳は連れていかれた。
「あれ〜?翡翠に白琳どうしたの?」
 林檎飴を頬張りながら、聞いた桃華に、翡翠は抑揚のない声で一言だけ言う。
「桃華、白琳を頼む」
 桃華の目が、武人のそれへと変わるのと、翡翠が白琳の手を放し、背を向けて走り去るのは同時だった。首の下の方で結ばれた、翡翠の長い茶髪が踊るように揺れ、着流しの後姿は人ごみにまぎれてあっという間に消え去った。
「白琳、大丈夫か?」
 桃華と一緒にいた龍清に心配そうに声をかけられる。
「……えぇ」
 そうは言ったものの、翡翠の険しい顔が忘れられない。白琳の手を引いていた、固い手と、それが離れる時の感触がまだ残っているようだった。やがて、夜空に咲いた華やかな花火に、辺りから歓声が上がる。白琳は、その歓声をどこか他人事のように聞いていた。
 翡翠と一緒に見るはずだった花火を見ながら、その目は別のものを見ていた。綺麗な翠色の瞳が見せた、険しい色。なんだか嫌な予感がすると、白琳は思っていた。 ――あの人は優しい人だから…… どうか、何も悪いことが起きませんように。白琳は、心の内で強くそう願った。

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