史書

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  第一章 北の青い空 4  

洸嘉十三小国戦国期。圧倒的な力を持っていた洸は当時の嘉の真ん中に 位置する凛河まで兵を進めていた。洸は、大陸征服まであと、一歩だったのである。当時の嘉王は、洸の思想に危機を感じていた。これ以上洸の領土を広められ るわけにいかなかったのだった。だが、洸は秘密の戦闘力をもっていた。その力は絶大だった。戦国期、最強の武人、嘉の『二勇士』でさえ、その戦力に抵抗す ることは出来なかった。嘉王は、苦渋の決断の末、あることを交わす。『凛河の盟』。これにより、凛河を互いの国境とし、お互いそれ以上領土を推し進めない ことが決定した。同時に、戦国期の終わりを告げた。
『史書』天の巻より


 煌李宮、玉座の間につれてこられた紅貴は、無人の玉座を見つめた。 塵一つ見当たらない黒い石でできた階段の先に,、それはある。白を基調としたその椅子には銀がちりばめられていた。しかし、眩しすぎず、それが美しい華を 描いていた。今は、そこに座るべき人物の姿はまだ見えない。誰もいない玉座の間は 当然、静かだった。自分の存在はこの場ではあまりにも異質だと、紅貴は感じた。目のやり場に困った紅貴は自分が立つ床を見る。まっ平らな黒い石でできた床 は、上部から差し込む日の光を受け、わずかに反射していた。床の上に、銀で描かれた絵は、その特徴から、この世界を作り出したと言われる妖龍と神龍だろう と、紅貴は推測した。
(そういえば、翡翠はなんで、俺が国王に会いたいってことがわかったんだろう)
 紅貴は煌李宮に行きたいとは言ったが、 王に会いたいと思っているとは翡翠に話してはいなかった。でもたしかに……紅貴はふと、ここまで案内した少女を思い浮かべる。翡翠に頼まれたというその少 女は、確かに「紅貴が王様に会えるように、翡翠が説得したんだよ。あそこの玉座の間にいれば王様来るからちょっと待ってて」そう言ったのだ。やがて、かつ かつという音が玉座の間に響いた。足音は紅貴がいる正面からだった。ゆっくりと顔をあげると、暗い紫の衣をまとった中年の男が玉座に腰かけるところだっ た。優しげな茶色の瞳が、紅貴をまっすぐに見た。その視線とぶつかり、紅貴は、自分の心臓が、緊張のためにどきどきと高鳴るのを感じる。震えそうになる自 分をなんとか抑え、膝をついて頭を下げた。そして、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「私(わたくし)は、紅貴。いや、――です。これが証拠です」
 紅貴は懐から、赤い巻物を取り出した。金糸を解くと、巻物は金色の光を発した。
「洸より、嘉王様にお願いをしたく、参りました」
「話を聞く。顔を上げよ」
 王に促され、紅貴はゆっくりと顔を上げた。巻物もしまい、再び元のほのかな日の光が照らすのみの玉座になった。紅貴は、再び王の顔を見る。 優しそうに見える国王は、やはり、それだけでなく、王としての威厳を漂わせている。――やっぱり王なんだ。逆らうことができない何かをまとっているように、 紅貴には感じられた。しかし、紅貴は言葉を続ける。
「現、洸国皇帝、紫淵(しえん)は、行きすぎる悪政を敷いています。……まだ表立った活動はしていませんが、民の中には悪政しか行わない皇族を誅し、洸国の民を救おうと考えている者がいます」
「そなたはどうするつもりだ」
「私は民の味方をします」
「ほう」
 王は、髭を撫でながらおもしろそうに笑う。
「……洸国皇帝の軍と、一介の民の軍。その戦力にはだいぶ開きがあります。とてもではありませんが、今のままでは戦うことなどできません。そこで、お願いがあります」
紅貴は手から汗が流れおちるのを感じていた。――これを言うために嘉へやってきたのだ。
「嘉の援助をいただきたい」
「凛河の盟は知っているか?」
「……存じております。表立った支援は要求いたしません。ですが、内密に、ある人材を貸していただきたいのです」
「人材?」
「個人の単位で戦える人間はいても、それを指揮できる人間がいません」
いや、正確にはいるのだ。いるのだが……彼には他の役目をやってもらう必要がある上に、その前に片づけなければならない問題がある。
「戦略を練り、それを指揮できる人間……それを貸していただきたい。それから、嘉には『癒し』の力を使える方がいると聞いております。その方に救っていただきたい人がいます」
「そなたのいう要求を聞いて、嘉に良いことはあるのかな」
王は、変わらず笑みを浮かべている。それに対して、紅貴も笑みを作った。知将と呼ばれた、今は亡きかけがえのない人物の表情を心に描いて。
「もちろんです。私は、お願いだけでなく、提案しに参ったのですから。洸の皇帝を倒したら、嘉に多大なる利益が与えられることを知らぬ私ではありません」

 李京の南は港になっている。白い石でできた波打ち際に、それほど強くない波が打ち寄せ、繋がれた何艘もの船が波に揺れていた。 その上を通り抜ける風が――夕暮れの かすかに冷たい風が、港の縁で、海に向かって足を投げ出して座っている女性に向かって吹きつけた。
「さすがに夕暮れの海は寒いわね」
 そう言って、十代後半の女は、蒼い瞳を水平線の西にむけた。日はすでに半分ほど沈み、蒼い海を金色(こんじき)に変えている。美しいのと同時にどこか切なげな情景だと、女は思っていた。
「考え事ですか?瑠璃」
 紺色の着物を、片手で撫でつけていると、背後から聞きなれた女性の声が聞こえた。振り返ると、20代前半の女性が、優しい笑みを浮かべている。 夕日に照らされたその顔はひどく美しい。
「白琳こんなところでどうしたの?」
 白琳は瑠璃にほほ笑むと、柔らかい声で言う。
「考え事する時、瑠璃はいつもここに居ますから。何かあったんですか?」
「ちょっとね」
 少しの間、二人は何も言わない。波の音だけがそこにあった。やがて、白琳が静かに口を開く。
「……やっぱり洸に行くおつもりですか?」
「さすが白琳ね。考えていることはお見通しってわけね」
「何回か相談受けていましたし、それに、私は瑠璃の親友でしょう?」
 ほほ笑む白琳の笑顔は、不思議と瑠璃を安心させた。白琳自体がそういう人柄だというのもあったが、白琳とは長い付き合いだったのだ。 幼い頃は、兄、翡翠の友人だった。やがて何度も会い、時が経つうちに、いつしか親友と呼べる関係になったのだ。
「洸にはいつか絶対行かなきゃいけないわ。それが今のような気がするんだけど……でも」
 瑠璃は噂でしか知らない洸の様子を思い浮かべる。双龍国の北にあるその国は、荒廃が酷いという。皇帝の圧政が続き、治安は最悪。双龍国の各地で起こっている戦争の背景には洸があるという噂もあった。
「わたしみたいな一般人が行って、無事で済む国だとは思わないわ……傭兵を雇うっていう手もあるけど、いくら傭兵でも、洸には行きたがらないと思うし、嘉国公認の武官……郷兵や禁軍兵、二将軍の兵士が、洸に行くのは『凛河の盟』で禁じられているでしょう?」
  凛河の盟とは『史書』天の巻に記された嘉と洸の盟約だった。嘉の子供であれば、その重要な部分は塾で習う決まりになっている。また、凛河の盟が記されてい る『史書』天の巻、この世界の創世が書かれた『史書』創世の巻は、文官、武官問わずに、この国の役人であれば暗記しているのが当然だった。それほどまでに 重要なきまりなのだ。それを破れば嘉と洸は戦争になる、というのを瑠璃は聞いたことがあった。
「こうなるんだったら桃華に剣の使い方を教えてもらっていればよかった」
 瑠璃は友人の名前を出してため息をついた。いや――妹ともいうかしら?友人というより、妹のようだと瑠璃は思っていた。 昔から言動が幼く、一人でできることは少ない。部屋の片づけもまともにできず、髪を結ぶのも苦手な桃華の世話をするのは いつも瑠璃だ。しかし、そんな瑠璃でも、桃華に敵わないものは武道だった。どんなに言動が幼くとも、 彼女は、二将軍であり、それ相応の実力があるのだ。
「ねぇ瑠璃、洸行く時にき桃華様も連れて行ったらどうでしょう」
 瑠璃は目を瞬いた。桃華、いや、二将軍が洸の国境門を超えることは禁じられている。『凛河の盟』を破ることは、世間一般の常識ではありえない。しかし、白琳がそう言った時の声色は、冗談が混ざっているようには思えなかった。
「白琳、それ、本気で言ってるの?」
「はい」
 白琳は即答した。
「洸国に干渉することは禁止されているし、兵士が洸に行くことなんてできるはずないと思うんだけど……」
白琳はクスクスと笑っている。
「桃華様なら、洸国に乗り込むくらいなんでもないと思いますし、用心棒にもってこいです。瑠璃の友人でもあるし、叶うならこれ以上の適役はいないでしょう?それに、私は聞いたことがあります」
「え?」
「桃華様、嘉と洸の国境門を通る以外にも、洸に向かう方法を知っているようですよ」
 瑠璃は驚ろき、白琳をみつめた。白琳は、なぜか楽しげに微笑んでいる。
「どうやら、実際に、洸に行ったことがあるようですよ」
  瑠璃は、塾や書院にいけばいつでも見ることができる、双龍国の地図を思い浮かべた。双龍国の中央、凛河と呼ばれる大河が東西にはしっているが、その河は流 れがはやく、船でも渡ることができない。凛河のところどころに橋が架けられており、その先は洸の領土になるが、橋の入り口と出口には、国境門と呼ばれる門 が据えられ、その門を武官が越えることは『凛河の盟』で禁じられている。嘉の南から船で洸に行ったところで、港は監視されている。洸国に行くことは不可能 なことに思えた。しかし、こういう表情の時の白琳は嘘をついていない、と瑠璃は知っていた。
「でも、仮に桃華が洸に行けたとしても、桃華はあれでも二将軍だし……。どれくらい時間がかかるかわからないような旅に桃華をつれていったら、桃華の周りの人に迷惑かけちゃうでしょう?」
「大丈夫です。桃華様の仕事は私が責任を持って翡翠様にやらせますから。それに、鳳軍、麒軍の方たちは将軍たちがやり残した仕事を処理するなんて日常茶飯事だと思いますわ。ですから、瑠璃と、桃華様、それから私で洸に参りましょう」
「え、白琳も行くの!?」
 瑠璃は驚き、思はず目を見開いた。
「医者がいた方が心強いとは思いませんか」
「それはそうだけど……」
「お願いします。私も洸に連れて行ってください。女三人洸国旅行しましょう」
 白琳はそう言ってにっこり笑う。白琳は瑠璃に対してはめったに無理な頼みはしない。しかし、こうしてまれに突拍子もない頼みを瑠璃にするのだ。そして、 一度そうと決めた白琳は瑠璃が頷くまで、諦めないだろう、というのを瑠璃はそれまでの経験から知っていた。首を微かに傾けて美しい笑顔でほほ笑む白琳 を見た瑠璃は軽くため息をついた。
 日はすっかり沈んでしまった。代わりに現れた白銀の月が、呆れながらもどこかほっとした風な瑠璃と、それを見て微笑む白琳を柔らかく照らす。澄み切った夜の海は、今宵の満月を映していた。
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