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  第五章 それぞれの思い 1  

 

 双龍国の南西、恵国の都、榛柳(しんりゅう)。その東に位置する宮殿、碧嶺閣(へきれいかく)で、女官が声をあげた。
「明汐様、大変です!」
 女官が、膝をつき、頭を下げたまま言うと、現在の皇后、明汐に、静かな声で言われる。
「顔をあげなさい。どうしたというのです」
 顔をあげて、明汐の姿が視界に入る。皇后という地位にもかかわらず、華美なところが一切ない。黒い髪は、明汐の性格を表しているように、きっちりと結いあげられていた。衣の色は濃紺。花や蝶などの柄は入っていなかったが、明汐の白い肌にはよく似合っている。切れ長の茶の瞳は、全てを見通すかのように鋭い光を携えていた。
 もう、ずいぶん前のことだが、この国の皇族、恵家に嫁ぐ前は、誰よりも、聡明な女性だと言われており、もしも、文官になっていたなら、有能な官吏になるであろうとも言われていた。この国の貴族や、碧嶺閣の後宮に仕えるどの女とも違う、凛とした美しさを、明汐は持っていた。
 だが、今では、明汐につきまとう噂は悪いものばかりだ。皇族である恵家に嫁いで以来、恵家を牛耳っているのは明汐だというものや、さらには、証を持った第一皇子、灑碧と、その母であり、かつての皇后であった祥玲を亡き者にしたのは、明汐ではないかと、噂されている。強い瞳と、常にきつい印象に感じられる明汐の表情を見ているせいか、女官は、心のどこかで、噂をただの噂ではなく、事実ではないだろうか、と感じていた。こうして、明汐の前で膝をついている時は、いつも、怖れに似た感情を抱いている。
「どうしました」
「はい!申し訳ございません。あの、宵汐(しょうせき)様が碧嶺閣のどこにもいらしゃらなくて……」
 この国の唯一の皇女で、明汐の娘、宵汐。髪の色は、父である帝から譲り受けた茶色だが、他は、今目の前にいる皇后、明汐によく似た、母親似の皇女だ。雰囲気も、女性らしいやわらかさはあまりなく、凛とした雰囲気が、明汐に似ている。その皇女が、碧嶺閣から姿を消した。碧嶺閣の女官や兵士で皇女宵汐を探してるのだが、見つからない。
 陰で氷の皇后と言われる明汐に、皇女がいなくなったことを言うのは、気が引けたが、言わないわけにもいかなかった。何を言われるだろかと、どきどきしながら待っていた女官だったが、皇后の言葉は意外なものだった。
「宵汐なら大丈夫でしょう」
「え……」
「宵汐と……殿下は子供の頃は、碧嶺閣を抜け出して遊びに行っていたことがありましたからね、いまさら驚くことではない」
 そう言った皇后の声はいつもと変わらず、抑揚がなかったが、心なしかいつもよりも少しだけ声が高い気がする。表情も動かず、無表情だったが、なぜだか、皇后が笑っているような気がすると、女官は思った。しかし、その目は、少し哀しそうだとも思う。
 それにしても、殿下とはいったい誰のことだろうか。実の息子である、挺明稜に対しては「殿下」とは言わないだろう。だとしたら、「殿下」とは第三皇子、現在は実質第二皇子の檜悠のことだろうか。だが、それも違和感を感じる。
「陛下には私が話しておきましょう。あなたはいつもの仕事に戻りなさい」
 これ以上の詮索は無用だと言われたような気がし、女官はもう一度頭を下げ、部屋を出た。


 恵国の南の村――森に囲まれたその地に立つ宵汐の茶の瞳は、この国で起こったことを、ありありと映していた。破壊された家、そこにうっすらと残る血の跡。並べられた石は墓石、だろうか。墓の前に飾られた花は新しかった。
 宵汐は、墓の前に、膝をつく。宵汐は、当然、この墓に眠る人物のことを知っているわけではない。だが、誰の墓かは容易に想像できた。最近、この村を襲った妖獣にやられた者たちのものだろう。
 宵汐は、悔しさと、歯がゆさを感じ、胸の前に当てた手を硬く握った。
――助けられなくてごめんなさい。
「お姉さんはこの村の人?」
 男の声に、宵汐は振り返った。宵汐と同じくらいの年だろうか。20代前半の男がいた。
「いいえ、私は旅の途中だったんです。あなたは?」
「俺もこの村のもんじゃないよ。……友人がこの村に住んでいたんだ。この村の人たちが避難することになった街へ行ったら、妖獣にやられたって言われてね」
 男は、そう言うと、手に持っていた花を、宵汐の前の墓の前に置いた。
「俺の幼馴染の女と、ここに眠る俺の友人は籍を入れたばっかりだったんだ。……決して豊ではないけどけど、そんな静かな生活を毎日楽しんでるって、手紙が来ていて」
 親しみやすい印象の男だと思っていたが、言葉を切った男の雰囲気が変わる。
「なのに!……何にも悪いことをしてないあいつが、なんで死ななきゃいけないんだ!」
怒りが目に見えるようだと、宵汐は思った。男の震える拳は、いき場を失ったように、きつく握られていた。
「……これも、全部、あの死んだ皇子と、そいつを殺した皇后のせいなんだよな」
 男が、不自然なくらいに淡々と言った。死んだ皇子とは、もちろん、皇位継承の証を持っていた灑碧のことだろう。半分しか血はつながっていないが、大切な弟だった灑碧。その灑碧を実の母親が殺したなどと言われ、しかも、恵国の各地で妖獣が現れる原因が、死んだ灑碧の呪せいだと言われれば、悲しくないはずはなかった。碧嶺閣を出て、街に降りてから、何度もきいた話だったが、この話に、一向に慣れることはない。話を聞くたびに、心が痛くなる。解けた氷の雫が、心に落ちてしまったような感覚だ。そして、そんな悲しみ以上に宵汐は悔しかった。

――ねぇ灑碧、周りの大人に、変な噂されて悔しくない? 私が黙らせようか?
 宵汐がそう聞くと、いつも喧嘩ばかりの宵汐が珍しいと言って、腕を組んだままこちらを見た。
「私は灑碧と違って、利発な皇女だって言われてるから、代わりに見返してあげてもいいわよ?」
「……周りに色々言われるのは、俺が、証を持ってるだからだろう?証を持ってる以上、仕方ない」
「またそんなこと言って! そういうところが可愛くないのよ。子供なんだから、もっと、可愛いこと言えないの?」
「だって本当のことだろう」
 宵汐は、やれやれと、溜息を着く。宵汐もだが、灑碧はまだ10にも満たない子供だ。だが、子供らしい無邪気な様子があまり感じられなかった。歳は若いはずなのだが、灑碧は自らの置かれた状況を、理解し、それを受け入れていた。
 まだ、子供なのに、と、宵汐が思っていると、灑碧が言う。
「……ずっと前は、なんで俺ばかりこんなに嫌な思いをしなきゃいけないんだろうって思ってた。俺なんかが証を持ってるのもおかしいてっ感じてた」
「灑碧?」
 灑碧が自分のことを話すのは珍しい。もともと口数が少ない灑碧は宵汐と口喧嘩をすることはあったが、こうして灑碧が自分のことを宵汐に話すのはもしかしたら、初めてかもしれない。
「……母上が死んだ時、励ましてくれる人がいた。励ましてくれた人がいたから、俺は立ち直れたんだと思う」
「そう…」
「その人を、本当は、他の人みたいに、剣とかで守りたい。でも、こんな身体の俺じゃ、剣は扱えない。そんな力が欲しいけど、俺には、無理だ」
 宵汐は何も答えることができなかった。灑碧が言ったことが事実だったからだ。灑碧は身体が丈夫とは言えず、同じ年頃の子供より細かった。生死をさまよったこともある。そんな灑碧が剣を扱うのは厳しいだろう。
「けど、皇位を継承して、この地と契約すれば、俺にも、守る力ができる。それに……母上が死んだ時気づいたんだ」
「気づいた?」
「生きている時は気づかなかったけど、母上は、俺に色々なことをしてくれてたんだ。……それと同じで、俺が気付いていないだけで、多分、俺は周りに助けられている。俺が証をもってるから、嫌なことを言われるっていうなら、その逆もあるはずだ」
「逆って?」
「俺が証をもった皇位継承者だから、周りが助けてくれる」
 灑碧の瞳がこちらに向く。瞳に差す、灑碧の意志を表したような強い光。それに、宵汐は引き込まれる。
「うまく言えないけど、俺は証をもったことで、嫌なことをされたり、期待されたりされてる。それを全部受け止めなきゃいけないって思ってる。多分、俺は皇位を継承するために生まれたから、逃げてばかりはいられない」

 灑碧のその言葉を聞いた時、宵汐は、将来の帝、灑碧を支えていこうと思った。いまだに、あの時の灑碧の強い瞳が忘れられない。姉弟喧嘩をしている時でも、不機嫌そうに、口をきゅっと結んでいる姿でもない。灑碧のことを思い出すときはいつも、あの、強い瞳をもつ灑碧の姿が浮かぶ。
 恵国の民は、幼い灑碧がそんな決意をしていたことを知らず、妖獣が暴れまわるのはその灑碧の呪いのせいだという。それが、本当に悔しい。
「――急に取り乱して悪かった」
 宵汐がずっと黙っていたのは、男が取り乱したことに対して、宵汐が動揺したためだと思ったらしい。
「いえ、気にしないでください」
 なんとかそう言って、宵汐は取り繕った。目の前の男を含め、誰もが、灑碧を、恐れたり、憎んだりしていると思うと、急に胸が苦しくなるような感覚を感じる。けれども、灑碧の決意を知らない民は、まぎれもなく灑碧が守ろうとしていた者で、今は、宵汐が守るべき者だ。さまざまな思いが混ざり合って、宵汐はうまく言葉が出せなかった。
「あの、元気、出してくださいね」
 それしか言うことができず、男は、そんな宵汐にどんなことを思っただろうか。男はどこか、困ったように笑うと、ありがとうとだけ言って、去ってしまった。
 宵汐は、空を見上げた。大きな木々の隙間から、澄み切った青い空が覗いている。それだけ見ていれば、ここがが妖獣に襲われた場所だとは思えない。だが、視線を下げて見れば目に映るのは、妖獣の犠牲になった人々が眠る墓。
 急がなければ、と宵汐は思った。
(早くあの方とお会いして、それから、嘉国に行かなきゃ……)


「お話って何ですか、兄上」
 碧嶺閣の、庭園。恵国第三皇子檜悠は、青々とした木々を映す池の前に立つ兄、挺明稜に、声をかけた。長い茶髪は高い位置で結ばれている。背は檜悠よりも高く、少し見下ろすようにこちらを見る、いつもは大きな黒い目は細められていた。
 挺明稜を見るたび、檜悠は苛立ちを感じる。顔が帝である父親によく似ているのだ。あまり、表情を表に出すことのない帝と違い、優しそうな笑みを浮かべていることが多い挺明稜だが、大きな黒い目といい、少し焼けた肌といい、帝に良く似ていた。今は、いつもの優しそうな笑みも消え、ますます帝と良く似ている。あの、皇位継承の証を持っていた灑碧よりも、帝に似ているとも言われてるのだ。
 自分が帝である父ではなく、母親に似てしまったこと。それが、皇位継承権がないことの証明のように檜悠は感じていた。母親似と言えば、灑碧もそうだったというが、灑碧には『証』があった。唯一、自分にだけ何もない。
(俺の方が素質はあるのに……!)
「灑碧兄上を殺したのが誰だか分かった」
「誰ですか?」
「翠色の目を持つ男」
いつもとは違う、やわらかさのない、張りつめた声で言われ、檜悠は目を見開く。
――挺明稜はそれをいったいどういう意味でいったのだろう。そして、どこまで真実を知っているのだろうか。

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