史書

戻る | 進む | 小説目次

  第五章 それぞれの思い 10  

 

曙鵬を出て数日、ようやく嘉と恵の国境の街、明陽についた紅貴は、前を歩く瑠璃の後ろ姿を見ていた。
 このまま恵に入っても良かったのだが、曙鵬を出てから、ほとんど休むこともなく馬で走ってきた。桃華の提案により、今日は一日明陽で休むことになったのだ。馬を預け、路を歩いていく。嘉国に来てからは見慣れた光景だったが、路を挟むようにして並ぶ店から、声がかかっている。だが、ぼんやりと考え事をしていた紅貴の耳には、その声がほとんど入ってこない。
「なぁ桃華、最近の瑠璃、なんか元気ないと思わないか」
 紅貴の横を歩く桃華が、首を軽く傾げたあとで、左手を軽く顎にあてた。
「そうかな?」
「うん、最近ぼんやりしていることが多いし」
 曙鵬を出てからというもの、瑠璃は、何か考えこむように遠くを見ることが増えたような気がしていた。心配になった紅貴は、瑠璃にどうしたのかを尋ねたりもしたのだが、なんでもないと言われてしまった。
 けれども、李京から一緒に旅をしていて分かったことだが、瑠璃は感情が表に出やすく、何かを隠すのが苦手だ。曙鵬を出てから、口数も減り、あまり笑わなくなったような気がする。それは、翡翠がいなくなってからだといえばそうなのだが、曙鵬を出てからはそれが顕著になっていると、紅貴は思う。
「桃華が行きたい茶屋ってどこ?」
 紅貴が桃華に話しかけていると、前を歩いている瑠璃から声がかかる。
 桃華は、明陽に着いたら、行きたい茶屋があると言っていた。桃華が恵国に行くために明陽を通るときには必ず寄る店だという。翡翠がいなくなり、瑠璃も元気が無い中で緊張感が無いと思うが、そこが桃華らしいとも思う。
「そこの角を右に曲がったところ」
 桃華に言われた瑠璃は目の前の角を右に曲がった。紅貴もそれについていく。

「桃華、久しぶりね。ここに来たってことは、また嘉を出て人探し?」
店に入り、椅子に座ると、店の女が桃華に話しかけた。
「ううん、今回は別の用事。時間があったら、探すつもりだけどね」
「人探しって? 誰か探している人がいるのか?」
 紅貴がたずねると、桃華が頷く。
「うん、私の姉をずっと探してるの。もうずっと前に離れ離れになっちゃってずっと会えなくて。多分洸国にいるから、仕事で洸国の近くに行くときは、洸国に寄って、姉を探してたの」
「離れ離れか。心配だな。なんか、変なこと聞いちゃって悪いな」
 桃華は首を振る。
「わたしの姉、蘭華って言うんだけど、私と同じで剣を使えるから心配してないよ」
 多分、私の方が多分強いけどね、と桃華は軽く舌を出して笑った。
「桃華、いつもので良いかしら」
 店の女に聞かれた桃華はこくりと頷いた。
 しばらくして、桃華が頼んだものが運ばれてき。あんみつのようだが、黒蜜とは別に、桃色の蜜のようなものもかけられていた。
「桃華、桃色のこれ、なんですか?」
 白琳が不思議そうに桃華の尋ねた。
「オウカの花の蜜。とっても美味しいの」
「おうか?」
 聞いたことのない単語に、紅貴は思わず首をかしげた。洸国が一年のほとんどが雪で閉ざされており、ほとんど花が咲かないせいかもしれないが、紅貴は『おうか』という花の名を聞いたことが無かった。
「わたしの故郷で咲く花だよ。ちょっと桜に似てるの」
「桃華の故郷ってどんなところなんだ?」
「う〜ん、花がいっぱい咲いているところだよ。洸に行く途中、恵国を抜けた先で通るよ」
「恵国の先……ってあれ? 桃華って嘉国で生まれたわけじゃないのか?」
 桃華が頷く。桃華が何気なく言った言葉に、紅貴は驚く。嘉国の将軍職についているのだから、当然のように桃華は嘉国の生まれだと思っていた。桃華が嘉国以外で生まれたなど、考えてもいなかったのだ。
 そう思うと、嘉国生まれでない桃華が嘉国の武官だというのが不思議だ。
「元々どこの国にも属さないような土地の生まれだし、今は嘉の籍をもらってるから」
 紅貴が不思議に思ったのを感じ取ったかのように、桃華が言った。
「どこの国にも属さないなんて変わってますね。想像できません。どんな場所なんでしょう?」
 白琳が言った言葉に、紅貴も心の中で同意する。嘉や恵、洸、または他の小国群のどれにも属さない地の話を、紅貴は聞いたことが無かったし、想像もできなかった。
「うん、確かに変わってるかも。他の国と違って王やそれに代わる人もいないし。といっても、恵からしか行けない場所にあるから、恵の一部みたいになってるけどね」
「恵からしか行けないんですか?」
「洸に通じてるから、当然洸国からも入れるけど、そもそも私の生まれ故郷を通るのは洸に行くためだから。といっても、私の出身地と洸が行き来できるなんて洸の人たちもほとんど知らないと思うんだけど。そうでしょう?紅貴」
 紅貴は頷く。紅翔からも、どこの国にも属さない地が洸とつながっているなど聞いたことが無かった。
「瑠璃はそんな場所があるってきいたことある?」」
 紅貴は、瑠璃がずっと黙っていたことに気付き、瑠璃に話しかけてみる。
「え、えぇーと、そうね。聞いたこと無いわ」
 瑠璃ははっとした様子を見せたあとで答えた。紅貴、桃華、白琳の会話が耳に入ってなかったのだろう。そんな瑠璃をみて、 最近の瑠璃はやっぱり様子がおかしいと紅貴は思った。
「……瑠璃、最近元気ないけど大丈夫?」
「平気よ平気。 それより私、恵に行ったことないんだけど、どんなところなの? 桃華は行ったことあるんでしょ」
 やっぱり何かに悩んでいるのだろう。だが、こうして話題を変えられたということは、聞かれたくないということなのだろうか。それでも心配だと紅貴は思う。初めは、瑠璃が悩んでいるのはいなくなった翡翠のことだと思ってた。だが、それならなぜ曙鵬をでてから、さらに元気がなくなったのだろう。翡翠がいなくなったのは慶だ。そんなことを考えていると、桃華が言う。
「恵国は綺麗な国だよ。都にある碧嶺閣なんか特に。榛柳の街から、宮殿碧嶺閣を見ることができるんだけど、本当に綺麗だからびっくりすると思う」
 まるで、瑠璃の元気が無い様子に気づいていないかのようないつも通りの明るい声だった。
「碧嶺閣は本当に綺麗ですよね」
「白琳も恵に行ったことあるのか」
「私は、恵の生まれですから」
 白琳は笑った。綺麗な笑顔だか、少し儚いと思った。
「白琳ってそうなの?でも、白琳は、嘉国、壮家のお嬢様でしょう?」
 瑠璃も白琳が恵の生まれだということは知らなかったようだ。
「私は壮家の者です。でも、生まれは恵なんです」
 壮家は嘉国の医者の名家だと瑠璃から聞いていた。その壮家のはずの白琳が恵の生まれとはいったいどういうことだろう。不思議に思っていると、意外にも桃華が口を開いた。
「壮家は医者の家、それは知っているでしょう?」
 紅貴は頷く。以前瑠璃からも聞いた話だ。
「同じ血を引く壮家は恵と嘉と両方にあった。白琳は恵の壮家の生まれなんでしょう?」
「はい、桃華様の言うとおりです」
「あれ?でも、今は嘉の壮家だって……どういうことだ?」
「私の本当の両親は恵の壮家の人なんです。でも母は私を生んですぐに、父も子供の頃に亡くなりました。そのあとで嘉の壮家、私を育ててくれた両親に引き取られたんです。両親には感謝しているんですよ」
 白琳はそういってにこりと笑った。
「知らなかった」
 瑠璃は少し目を大きく開いて、驚いた様子で呟いた。そんな瑠璃に白琳は言葉を続ける。
「そういえば言ってませんでしたね。といっても、嘉に来たのは、私がうんと幼い頃ですから恵で過ごした時間より、嘉で育った年月の方が長いんですけどね」
「ねぇ白琳、白琳が小さい頃に恵にいたってことは、灑碧様が生きていた時に恵国にいたんでしょ?龍清様が言うみたいに、本当に恵の人に恐れられていたの?」
 恐る恐るといった様子で白琳に尋ねる瑠璃の声を聞きながら、紅貴は慶で龍清が言っていたことを思い出す。皇位継承の証を持っていた灑碧の周りではたくさん死んだという。そして、灑碧自身が死に、今では、恵で妖獣が現れた原因にされている。話を聞きながら、龍清が言ったことを信じられないと思っていたことをよく覚えている。
 瑠璃に尋ねられた白琳は、視線を下げ、卓に乗せられた湯呑を一口口に運んだ。そっと卓に戻し、瑠璃の目を見た後で、口を開く。
「これから話すことは、翡翠様には秘密にしてください。わたしは、少しの間だけですが碧嶺閣にいたことがあって、灑碧様にも会ったことがあります」
「灑碧様って良い人だった?」
 白琳に問う瑠璃の声が少し震えているのに紅貴は気付いた。
「……そうですね。皇位継承の証を持っている方に友人というのはおかしいかもしれませんが、私、灑碧様とはそういう関係だったんです。だから、灑碧様に対する思いは、他の恵の方とは違います。灑碧様は優しい方でしたよ」
「悪い人じゃなかったんだね」
 そう呟く瑠璃が、なぜか少し哀しそうに聞こえた。
「優しくて、強い方でした。……そうですね、灑碧様を助けるために力を得たいと思えるくらいに、かけがえのない方だったんです」
「どういうことだ?」
「私の癒しの力は、本当は嘉や恵、洸、それから他の皇位継承の証を持っている方以外には使えない力なんです。けれど、壮家に生まれて、それからたまたま素質もあった私には、癒しの力を得る方法が無かったわけでは無いんです。龍清様が言っていた、灑碧様が亡くなった原因とされている火事の前にも、灑碧様は命を落としかけていて……私は、灑碧様を助けるために癒しの力を得ました。あんなに優しくて強い灑碧様が命を落とすなんて考えられなくて……」
 白琳は、胸に当てた左手を固く握っていた。ほっそりとした白い手だったが、強い手だと紅貴は思う。
「灑碧様は、白琳にとって本当に大切な方だったんだね」
 そういう瑠璃の声は、風も吹いていない室内の空気に押しつぶされてしまいそうなほどによわよわしいものだった。心配になり、白琳から瑠璃に、さりげなく視線を変えた紅貴は、思わず声を上げそうになる。顔色が悪く、青い瞳は暗がりを映しているかのように、感情を映していなかった。
「おい!瑠璃大丈夫か?」
 平気、と無理して作ったような笑顔を作った瑠璃は、席をたつ。
「わたし……ちょっと外の風に当ってくる」
「おい、ちょっと待てよ」
 紅貴は慌てて瑠璃を追いかけて行った。


 瑠璃を追いかけ、紅貴は瑠璃の肩を掴む。瞬間、瑠璃の肩が震えたのが紅貴の手にも伝わった。振り返った瑠璃の綺麗な青い瞳が紅貴を見る。もともと大きな瞳がさらに大きく開いた後で、目が伏せられていく。そして、肩を掴んでいた紅貴の手が弱弱しく払われる。
「いったいどうしたんだよ!」
「ごめん紅貴、一人にしてもらえる?」
 放っておいてと、全身で拒絶しているようだと紅貴は思った。けれど、紅貴には放っておくことができなかった。目の前で瑠璃が辛そうにしているのに、引きさがれるような性格はしていない。それになにより、放っておいたら駄目だと、直感のようなものが紅貴に伝えてくるような気がしたのだ。
「ずっと言ってきたけど、最近の瑠璃、なんだか元気ないぞ」
「そんなことない! それをいうなら翡翠がいなくなった白琳のほうが!」
「白琳のほうがとか、誰の方が元気ないとか、そんなこと関係ないだろう!俺は瑠璃が心配なんだよ!」
 通りを歩く人がこちらをちらちらと見たが、紅貴は気にせずに言葉を続ける。
「翡翠がいなくなってから元気無いなって思ってたけど、曙鵬を出てからの瑠璃は、なんか変だ。さっき白琳が話していたことと関係あるのか?」
「それは……!」
 言葉に詰まる瑠璃に、紅貴は笑いかける。あまりこういうことは得意ではないが、できるだけ瑠璃が安心できるように、優しい笑顔を見せるように努力する。
「瑠璃はさ、分かりやすいんだよ。桃華みたいに何考えているかわからないわけでもないし、白琳みたいに笑顔で誤魔化したりしない」
「ごめん……」
 俯く瑠璃の横に紅貴は並ぶ。
「なんで謝るんだ?」
「すぐに顔に出て、心配かけちゃたなって」
「う〜ん……俺は瑠璃みたいに正直に感情がでるほうが嬉しいけどな。辛いんだなってわかれば、助けようとすることだってできるから。まぁ、欲を言うと、どうしようもなく辛くなる前に誰かに相談してもらえるともっと良いんだけどな。俺じゃなくてもいいからさ」
「……紅貴って優しいのね」
 紅貴は首を振る。実際、紅貴は自分のことを優しいとは思っていなかった。ただ、目の前で何かがおこるとを放っておくことはできない性格なのだ。時には、時間を置いたり、距離をおいたりすることも必要だと、頭では分かっていたが、そんな冷静な判断ができない。それで、逆に誰かを傷つけることがあるかもしれないと、わかっているはずなのに、実行できないでいたため、紅貴は決して自分を優しい人間だと思っていなかった。
「それで、何があったんだ」
 紅貴が問うと、瑠璃が深く息を吐いた。何かを決意しているようだと紅貴は思う。
「何があったか話したら紅貴も悲しむかも」
「瑠璃が俺の立場だったら、俺に何があったか聞くだろう? それに、一人で何かを背負いこむ姿を見るなんて、見てる側も苦しいってこと、瑠璃なら知ってるだろう」
 そう、瑠璃なら知っているはずだ。翡翠が一人でいなくなってすぐの頃、翡翠のことを大切に思っているはずの白琳が平気なふりをし、桃華は桃華でいつもと変わらない態度で、何もなかったかのように振舞っていた。そんな二人に怒っていたのは、他でもない瑠璃だ。
「そうだよね……」
 瑠璃は呟いて、一度、遠くを見るように紅貴から目線を外したあとで、もう一度紅貴の顔を見る。
「翡翠が私の本当の兄じゃないってことは知ってるでしょう?私、曙鵬で――紅貴も白琳も桃華もいなかった晩に、翡翠が嘉に来る前何をやったか聞いたの」
「何をやったんだ」
「恵の皇位継承者灑碧様、いるでしょう?灑碧様を殺したの、翡翠なんだって」
 音が耳に入ったが理解が追いつかない。紅貴が理解するより先に、瑠璃が言葉を続ける。
「最初、それを聞いたと時、翡翠がそんなことをするはずがないって思いこもうとしたの。実際、翡翠がそんなことするはず無いって思ってたし。でも、翡翠は恵に入る前にいなくなちゃってでしょう。翡翠のことだから、翡翠が一人で慶を出たのは、誰かに狙われていて、その危険に私たちを巻き込まないためだと思うの。それで、そもそももしそうだとしたら、翡翠が狙われるのはどうしてだろうって。……もしかして、灑碧様を殺したのが本当に翡翠なんじゃないかって」
 淡々と言うが、瑠璃の声は震えていた。必死に何か堪えているようにも見える。紅貴は頭で瑠璃が言った言葉を理解しようとしながら、黙って瑠璃の話を聞く。
「でも、やっぱりわたしは、翡翠がそんなことをやったなんて信じられなかったし、たとえもし翡翠が本当に灑碧様を亡きものにしたのだとしても、何かわけがあるんだって思ってた。でも、灑碧様は良い人だって……!」
 瑠璃の目から零れおちるものがあった。涙が頬に落ち、口が震えている。
「それも、白琳の友達だったなんて。白琳にとって大切な翡翠が……その、大切な翡翠が、白琳が力を得るきっかけになった大切な人を殺したんだと思ったら……私……」
 その後、瑠璃は言葉をつづけられない様子だった。流れる涙は止まらず、口を軽く手で抑えている。そんな瑠璃を見て、紅貴は心が微かに痛むのを感じた。
(辛かっただろうな)
 紅貴は瑠璃の肩に手を伸ばそうとする。肩に触れる直前で、出した手を一度引っ込めた。紅貴は空を見上げる。瞳に映る曇り空はまるで、今の紅貴の心情を映しているようだと思う。紅貴は視線を瑠璃に戻した。細い肩が震えて口を軽く押さえる手が涙で濡れていた。嬉し涙だったらよかったけれど、辛くて泣く涙は、何度見ても慣れない。
 紅貴は、少し悩んで、ためらいながらも、瑠璃の肩を優しく抱いた。
「とりあえず、翡翠に会ったら事情をきいてみよう。な?」
 こくりと頷いたのが分かり、紅貴はそっと息をはいた。そうして、瑠璃の涙が止まるまで、紅貴は瑠璃の横にいた。

「紅貴、話きいてくれてありがとう」
 ほんのりと赤くなった眼でそう言われる。
「落ち着いたか?」
 瑠璃が頷くのを見て、紅貴は言う。
「……翡翠に会ったら、今俺に話したこと、聞けそうか?」
「正直、今はちゃんと聞ける自信はない。でも、翡翠に会うまでに気持ちを整理するわ。紅貴に話聞いてもらって少し落ち着いたし……ありがとう」
 そう、はっきりと言う瑠璃を見て、久しぶりに瑠璃らしい瑠璃をみたと紅貴は思った。そして、瑠璃が翡翠のことを誰にきいたのかを聞き忘れたことに気付いたのは、瑠璃とともに店に戻ってしばらく後のことだった。

戻る | 進む | 小説目次
inserted by FC2 system