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  第五章 それぞれの思い 11  

 

 桃華は、瑠璃が出て行った出口を見る。ここ数日、瑠璃は元気なかった。何が原因でそうなったかは分からないが、おそらく翡翠のことだろう。曙鵬をでてから、いっそう元気がなくなったのは、先ほどの白琳の話となにか関係あるのかもしれない。
「瑠璃のこと追いかけないんですか?」
「行っても何もできないもん」
 桃華は少し拗ねているように聞こえるように答える。それがいつもの桃華だからだ。そう答えながら、桃華は別のことを思っていた。瑠璃の話を聞いたら、もしかしたら、瑠璃が本当に言って欲しい言葉を言えるのかもしれない。例え、それが桃華の考えと違ってもだ。けれど、それをやるのは、瑠璃に対して悪いと、桃華は思っていた。
「白琳こそ瑠璃を追いかけないの?」
「なんとなく、紅貴さんに任せた方が良い気がして」
 そう言って、白琳も瑠璃と紅貴が出て行った出口を見た。そんな白琳を見て、なんとなく白琳の気持ちがわかるような気がすると桃華は思った。
「ねぇ、さっき白琳が言ってた話って本当?」
「私が力を得たのは灑碧様の為って話ですか」
「うん、それと、白琳が灑碧様と友達だったって話」
「本当ですよ」
「……じゃあ、白琳は翡翠と灑碧様のこと知ってるんだよね?」
 桃華は、少しだけ、いつもより声を低くして尋ねた。
「なんでそうなったのか……肝心なことはわかりません。でも、本人に直接聞いたわけではありませんが、翡翠様と灑碧様のことは知ってます」
 それを聞いて、やはり、白琳の気持ちが分かるような気がすると、桃華は思った。きっと、自分と同じような気持ちだ。瑠璃を見ている限り、瑠璃が悩んでいるのは翡翠のことだ。翡翠と灑碧のことを白琳が知ってるのだとしたら、おそらく事情をしらないであろう、瑠璃にかけられる言葉は少ない。瑠璃に事情を話せるならともかく、話すことはできない。そんな状況で、瑠璃に何か言っても、気休めにしかならないと思っているのではないだろうか。少なくとも、桃華はそう思っていた。
「桃華様も、翡翠様と灑碧様のこと知っているんですよね?」
「うん、知ってる。元々、私の家は、恵国の皇族、恵家を守るための家だから。翡翠がなんであんなことをしたのか、その理由はわからないけど」
「そうですよね」
「それに、私ね、灑碧様が皇族として生きてたら、灑碧様付きの武官になるはずだったって、お母さんが言ってた」
「灑碧様の武官、ですか?」
 白琳にしては珍しく驚いている様子だった。
「恵家の皇族――皇位継承の証を持っている皇子には、皇位を継承するのと同時に私の家からだれか一人、専属で武官が就くことになってるのはきいたことある?私の家からでるその武官を、通称恵国の剣って言うんだけど」
「そういえば、そんな話があります。――灑碧様が恵国の皇位継承者として生きていたら桃華様が……」
 桃華は横に置いてあった刀の鞘の上に手を当てた。もう何年も使っている刀から慣れしたんだ冷たい感触が伝わってくる。
「わたしは、灑碧様が皇位を継承したら、いわゆる恵国の剣っていうものになるはずだった。小さい頃から磨いてきた剣だって、本当は灑碧様のためだったの」
 桃華は幼かったころのことを久しぶりに回想する。勉強も、そして、今の桃華を見たら驚かれるかもしれないが、何よりも剣の稽古が嫌いだった。それでも剣の腕を磨き、それは本当は灑碧のために使うはずの力だったと、母親から聞いた。
「その話、翡翠様にしたことは?」
「ないよ。知らない方が良いこともあるでしょう?」
「そうですね」
 翡翠に言ったところで、気まづくなるだけだ。皇位継承者の灑碧、その灑碧の為の武官、恵国の剣に本来なるはずだったなど、わざわざ知らせる必要はないと、桃華は考えていた。たまたま知ってしまったなら別だが。
「翡翠様に、翡翠様と灑碧様のことを知っているというのは話したことあるんですか?」
 桃華は首を振る。 
「なんとなく、言いにくいもん」
 そう言いながらも、桃華は少し違うことを考えていた。きっと、桃華が、翡翠と灑碧のことを知っているということに、翡翠は気付いている。けれど、それを何年もの間、お互い知らないふりをしていたのは、互いに事情があるからだ。翡翠が知らないふりをしているのは、桃華が翡翠と灑碧のことを知っているとなれば、翡翠が嘉国の武官でいられなくなるからだろうと、桃華は思っていた。そして、桃華が知らないふりをしているのは、もしも、桃華が翡翠と灑碧のことを知っているとなれば、翡翠がどんな行動をとるか想像できたからだった。正確には、今の翡翠がどんな行動をとるか、だが。
 慶で、翡翠と別れた晩、翡翠がはっきりといったわけでは無かったが、もしも、桃華が翡翠のことを知っていると認めれば、翡翠は桃華に口止めしようとしていたはずだ。桃華にとって、それは予想通りの行動だった。だがそれは桃華には現実から逃げているように思えた。そんな翡翠を桃華は許せなかった。だから翡翠と灑碧のことを知らないふりをしていた。――確かに許せないとは思っていたが、自分がその翡翠を責める資格もないと、桃華は思っていたのだ。
 『灑碧』がいなくなったとはいえ、本来仕えるべき恵国ではなく嘉国に仕えているのだから。もっとも、嘉国に仕えるという決断に迷いは無く、今も後悔はしていないが。
 翡翠がずっと隠している翡翠と灑碧のことは、そう簡単に人に話して良いことではない。それは桃華に十分分かっていた。それを周囲に話せば、翡翠が武官ではいられないであろうことも。だが、武官より、他にやるべきことがあるのではないかと桃華は思っていた。正直なところ、翡翠のそんな部分は受けられないと、桃華はずっと思っていた。けれど、本来恵に仕えるべきなのに、嘉国に仕えている自分も、本来やるべきことをやっていないという点では同じだった。翡翠が本来やるべきことから目をそむけて、嘉国の武官に就き続けていることを責めてしまったら、自分のことを棚に上げてることになってしまう。
 だが、最近になって、そうも言ってられないのではないかとも桃華は思っていた。自分の中で筋を通すのは大切なことだ。けれど、桃華にはそれ以上に優先しなきゃならないことがある。桃華は嘉国の武官だ。
「桃華様も、翡翠様にやってほしいことあるんじゃないですか?」
 白琳に躊躇いがちに聞かれ、桃華は頷く。
「うん。やってほしいというよりは、翡翠がそれから逃れることはできないと思う。って、今私もって言った?ってことは白琳も?」
 桃華がたずねると、白琳は、やわらかい笑みを浮かべた。柔らかいが、どこか儚くも感じる。桃華の言葉を肯定しているということなのだろう。
「……翡翠がやらなきゃいけないことをやるって決意したら、白琳の人生が大きく変わっちゃうかもしれないよ?それでも?」
 言ったあとで少し後悔した。白琳の回答がどのようなものであれ、桃華の考えは変わらない。それに、白琳がなんて答えるかは確かめるまでもなく、想像つく。
「ごめん、なんでもない」
「たとえ、それで私の人生が変わっても私はそれを受け入れるつもりです。私なんかじゃ、力不足かもしれませんが」
 桃華は首を振る。
「どちらかっていうと、翡翠に白琳はもったいないよ。でも、きっと、翡翠には白琳が必要だと思う」
「そうだと、良いのですが……」
 そう言って、白琳は目を伏せた。胸に軽く当てられた手はきつく握られていた。当然と言えば当然なのだが、白琳は不安なんだろうな、と桃華は思った。どこまでも優しく、翡翠に甘い白琳のことだ。翡翠が、周りに迷惑をかけないために、一人慶を出たことにおそらく気付いたであろう、白琳は、翡翠に何かできないことを歯がゆく思っているのではないだろうか。そんな白琳に対して、桃華は心がちくりと痛むのを感じた。
 慶で独り翡翠が発つのを見逃したのは桃華だ。実際、翡翠が独りで慶を発たなければ、危険がこちらにも及んでいたことは事実だ。だから桃華も翡翠のあの行動自体は間違っていたとは思わない。けれど、こうして、白琳が哀しそうな顔をしているのをみていると、翡翠を見逃したのが間違っていたのではないかと、考えが揺らぎそうになる。だが、やっぱり、白琳や紅貴、瑠璃を危険な目に遭わせるわけにはいかないのだ。翡翠が独りで発てば、こちらの被害は最小限で済む。そんな桃華にできることといえば――
「ねぇ白琳、翡翠には白琳がいなかったら、本当に駄目な男だと思うの。多分、翡翠には白琳のことが必要だよ」
「そうでしょうか」
「翡翠が、素直に白琳のことが大切だとか、必要だとか言うわけないってこと、白琳が一番わかってるでしょう?翡翠が損な性格してることも」
「そうですね」
 白琳は、きつく握っていた手を僅かに緩ませた。そんな白琳を見て、桃華は言わなければ、と思った。
「翡翠がやらなきゃいけないことをやるってことは、白琳の人生も変えちゃうことになる。でもね、私はやっぱり、翡翠がやるべきことから逃れるのは駄目だと思うの。白琳の人生も変わっちゃうって分かってても……。だから、ごめん」
 桃華がそう言い終えた時、紅貴と瑠璃が店に入ってきた。瑠璃の目は赤くなってたが、先程までの辛そうな表情がいくらか和らいでいた。
「瑠璃、大丈夫ですか」
 椅子に座ろうとする瑠璃に白琳が話しかける。
「もう、大丈夫。心配掛けてごめん」
 いつもの通りの瑠璃のはっきりとした口調だった。
「ねぇ瑠璃、あんみつ食べないなら私が食べちゃうよ」
 桃華は、そう言って瑠璃の返答の前に、瑠璃のあんみつを頬張る。そんな桃華に、瑠璃は、まったく困った子だ、というように、息をついていた。いつもの瑠璃だ。
「なぁ、瑠璃と話してたんだけど、翡翠はきっと俺たちに何かを隠してるよな。なんで一人で慶を発ったのかもわからないし。二人とも、何か知らないか?」
「はっきりとはわかりませんが、きっと翡翠様は私達に迷惑がかけたくないと思ったから一人になったのではないでしょうか」
「だとしても、理由くらい話してくれても良かったのに」
 瑠璃が、不満気に言う。確かに、瑠璃の言うとおりだと、桃華は思う。瑠璃の性格を考えればなおのことそう思うのは当然だろう。ずっと、瑠璃の友人として接していて、分かっていたが、瑠璃は、人のことをほっとけない性格だ。
 それは、白琳もそうだし、一緒に旅をしてきてわかったことだが、紅貴もだ。自分とは違い優しい性格だと、桃華は思う。おそらく翡翠もそれは分かっていた。
「ねぇ、翡翠が、一人で慶を出る理由をはなしても、瑠璃は止めたんじゃない?」
「うん……」
「桃華は、翡翠が何も言わずに慶を出て行ったことは正しいって思うのか?」
「私が翡翠の立場だったら、同じことをすると思う。例え、瑠璃や白琳、紅貴が心配するって分かっててもみんなを危険な目にあわせるわけにいかないもん。でもね、なんで翡翠が危険な目に遭ってるか。それは翡翠がいつか私たちにはなきゃいけないんじゃないかなって、最近思うの」
「もしかして桃華は、翡翠が危ない目に遭ってる理由を知ってるのか?」
「はっきりとはわかるわけじゃないし、肝心なところはわからないんだけど……だいたい想像はつく」
「一体なんで?翡翠はやっぱり、人の恨みを買うようなことやったの?」
 瑠璃が、僅かに声を荒げて言った。
「う〜ん……どうだろう。わたしも、翡翠からちゃんと話を聞いたわけじゃないからなんとも言えない。でも、そろそろきちんと話きかなきゃいけなと思う」
「じゃあ、恵に着いたら翡翠を探さなきゃな」
「それもなんだけど、まず、龍清から頼まれたことをやらなきゃ。龍清の代わりに、碧嶺閣に行って話を聞くのくのが先。翡翠のことはそのあとでも良いと思うんだけど、どう? 翡翠のことだから、そう簡単に誰かにやられたりしないだろうし」
 碧嶺閣に行くのに、今の翡翠はいない方が良いというのは黙っておく。翡翠が嘉国の武官として、龍清の代わりに碧嶺閣に行く。それはあってはならないことだと桃華は思っていた。翡翠が碧嶺閣に行くのはもっと別の形でなければならない。今の翡翠が別の形で碧嶺閣に行く覚悟があるとは、桃華は思っていなかったが、翡翠が嘉国の武官として碧嶺閣に行くことがまずいことは、翡翠にも分かっていたはずだ。たとえ、翡翠が危険な目に遭っていなかったとしても、翡翠は何か理由をつけて碧嶺閣に行くのを避けたにがいないと、桃華は思っていた。
 できることなら、翡翠にはするべき決断をしてから碧嶺閣に行って欲しいと思っていた。
「じゃあ、恵についたら、碧嶺閣に向かって、それから翡翠を探すか。問題は翡翠をどうやって探すかだな」
「色々片付いたら、翡翠もひょっこり姿見せるかもしれないから、きっと翡翠はなんとかなるよ」
「……そうだな」
 少しの間のあと、紅貴はそう言った。それから、店を出た頃には、日が沈みかけていた。
 


 宿を取った後で、紅貴は再び外に出て、明陽の街を歩いていた。なんとなく、一人になりたかったのだ。嘉と恵の国境の街というだけあって、剣を腰に差した武官が多い気がする。いや、それとも武官が多いのは恵で妖獣が現れているからからだろうか。
「紅貴」
 ぼんやりと武官の姿を見ていると、後ろから声がかかった。
「桃華か。一人で何してるんだ?」
「散歩。色々考えすぎちゃって疲れちゃったから、気分転換しようと思って。紅貴もでしょう?」
「うん、そうだな」
 答えながら、目で武官を追っていた。
「なぁ、桃華、この街、やたら武官が多くないか?やっぱり、恵に妖獣が出たせいなのかな」
「う〜ん……妖獣が出たなんて言っても、嘉国でそれをちゃんと見た人たちがそういるわけじゃないだろうし、王やそれに近い人がきちんと話したわけでもないのにそんな話が広まったら混乱が起きると思う。だから、中央が何か理由をつけて、とりあえず武官の数は増やすようにお願いしたってところだと思う」
 どちらにしても、この武官の数と、妖獣との関係が無関係ではないだろうと、言葉を続けた。
 恵国についたわけではなく、実際に妖獣に襲われた街を見たわけでもない。それでも、こうして武官が増えている所を見ると、否応なしに、恵で妖獣が出ている可能性を認識させられる。恵では妖獣が暴れまわっており、その原因は恵国の皇位継承の証をもった皇子、灑碧の呪い。さらに、その灑碧を殺したのは慶で突然姿を消した翡翠。慶を出てからの短い間に色々な話、それも、どれもこれも、常識では考えられないようなことばかりだ。
「色々考えすぎないでね」
 にっこりと笑顔を作った桃華にそう言われる。
「桃華こそな」
 一瞬、驚いたようにわずかに目を開いた桃華だったが、すぐに笑顔に戻った。
「ありがとう」
 軽く手を振って背中を見せる桃華を見ながら、紅貴は軽く息を吐いた。桃華は何を考えているか分からないと思っていたが、その見た目や行動以上に、いろいろとものを考えているのかもしれないと、先程桃華が話しているのを聞いて思った。
(でも、気のせい、かな)
 それはそうとと、紅貴は深くため息をついた。紅貴は、恵国につながってる門に目をやる。もうすぐで閉門という時間のせいか、人が流れ込むように街に入ってきていた。明日にはあの門を抜けて恵国に行くのだと思うと、なんとも言えない気持ちになる。
 恵国に着いて、翡翠に会ったら、どうするべきなのだろう。瑠璃にも言った通り、まずは翡翠に話をきくべきだろう。だが、実際に話を聞いて、瑠璃が言ったこと――灑碧を亡きものにしたのが本当に翡翠だったら、どうしたら良いかわからない。
 皇族、それも皇位継承者を亡きものにするというのは双龍国において、最もやってはいけないことの一つだ。幼い頃に、『史書』の中身を嫌というほど叩きこまれた紅貴にはそれが分かる。皇位継承の証を持った者を殺すということは、恵国を滅ぼすようなものだ。そして、恵国は、双龍国の中でもっとも古い国で、今、双龍国にある国は、『史書』を見る限り、恵国があったから生まれた。その恵国の皇位継承者を、亡き者にするとはいったいどういうことだろうか。
 許せないという思いや、なんでやったんだという気持ち以上に、恐ろしさを感じる。
(本当に翡翠がそんなことをやったのかな。もしそうならいったいなんで……)
 翡翠は、嘉国の武官だ。『史書』の内容は熟知しているはずである。いや、灑碧が死んだのは、翡翠が子供のころのことだから、その頃は『史書』の内容を理解していなかった可能性もあるが、それでも、よっぽどのことが無い限り、そんなことをするはずはない。
 灑碧を本当に亡きものにしたとして、それに理由があるというのならそれはいったいどんな理由だろう。紅貴には、どんな理由も、灑碧を亡き者にする理由にはならない気がした。
 翡翠には話をきかなければならないだろう。瑠璃にもそうするべきだと言った。けれども、紅貴は話を聞くことをどこかで恐れていた。
(でも、翡翠の妹の瑠璃はもっと辛いよな……)
 その瑠璃が翡翠に話を聞くと決意しようとしていた。それを思うと、自分が逃げるわけにはいかないだろう。
紅貴は一度目を伏せた後で、もう一度、恵国につながっている門を見る。
 ――どこまでできるかわからないけど、全部受け止めて前に進むしかない。

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