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  第五章 それぞれの思い 2  

 

 翡翠が、一人慶を発った翌日の晩、紅貴は宿の一室で窓から外を眺めていた。
 紅貴らは、慶の街の門の開門と同時に、慶を発った。嘉国の都李京から、国境の街、明陽までを通る、道、李仙道を、今日はひたすら前に進んでいた。周りを城壁のようなもので囲まれた李仙道の内側は、兵士が見回りをしていている。兵士を見かけるたびに、瑠璃が声をかけ、翡翠のことを尋ねていたのだが、長い茶髪に、翠色の目を持つ青年の姿を見た者はいなかった。
 桃華が、翡翠は李仙道は使っていないはずだと言っていたから、返ってくる答えは予想通りだったのだが、それでも、瑠璃は翡翠のことを尋ねることを止めなかった。結局、今日は翡翠に関する情報は得ることができず、こうして夜になってしまった。
 紅貴は、外から視線を外し、部屋を見回した。白琳と瑠璃と桃華の部屋と、それから紅貴と翡翠の部屋。いつもは男女に別れて、二部屋借りていた。そうしてしまうと、今日は一人になってしまうからと、今夜は四人で一部屋の借りる?と、瑠璃に聞かれたのだが、紅貴はそれを断った。どうも、瑠璃に子供っぽく見られている気がするが、紅貴も一応15の男だ。年頃の女性三人と同室というのは気が引けた。結局、部屋を一人で借りることになったのだった。
 いつもは二つ置かれている寝台が、今晩は一つしかない。翡翠は口数が少なく、翡翠から話しかけられることもなく、紅貴から話しかけても、そっけない答えか、紅貴を苛立たせる言葉が返ってくるばかりだった。それでも、なんとなく寂しいと、紅貴は思った。
 大切な人――紅翔が死んでから、紅貴に嫌味をいったり、軽い口喧嘩をする相手がいなかった。今思えば、翡翠はそんな相手だったのかもしれない、と紅貴は思う。
 翡翠の妹の瑠璃と、そして、白琳は、翡翠のことをもっと心配しているだろうなと、紅貴は思う。紅貴は、昼間の白琳のことを思い出す。白琳はいつも通りの、優しく、柔らかい笑みを浮かべていた。そんないつも通りの態度を思うと、なぜだか胸をきゅっと掴まれたような痛みを感じ、翡翠のことを大切に思っているであろう、白琳の気持ちを考えると、焦燥感に駆られる。
(なんで、白琳に寂しい思いさせるんだよ! 翡翠!)
 翡翠に対しての怒りをどこにもぶつけられずにいると、部屋の外から少女の声がかかる。
「紅貴、部屋入って良い〜?」
 桃華は、紅貴が返事をする前に部屋に入って来た。桃華を見て、紅貴は思う。そういえば、桃華は翡翠のことをあまり心配しているようには見えないと。紅貴が翡翠は大丈夫だろうかとたずねるたび、桃華は先を急げば必ず会えるはずだと、言うのだ。いつも通りの軽い口調で。あまり動揺していないのは、翡翠の同僚の武官だからだろうか。
「翡翠のことで、忘れてたんだけど、龍孫様から手紙が届いていてね、紅貴にも一通届いていたから渡しに来たの」
 紅貴は、桃華から手紙を受け取り、そっと開いた。独特の太い字は力強く、読みやすかった。書かれていたのは、龍清から、恵国で妖獣が暴れまわっているという報告をきいたということ。桃華から、湖北村での報告は受けているということ。そして、妖獣使いである紅貴に解決に向けて協力して欲しいということだった。そう、龍孫は、紅貴が妖獣使いであることを知っていた。そして、龍孫は、桃華と白琳と瑠璃、それに翡翠にも言っていないことも知っている。
「なぁ桃華、龍孫様にどうやって返事書けば良いんだ?ぜひ協力したいって伝えたいんだけど、王相手にへたな文かけないよな」
桃華は、小さな声をたてて笑った後で言う。
「龍孫様はきさくな方だから、そんな深く考えなくて良いよ」
にこやかに笑う桃華見て、紅貴は唐突に、桃華は二将軍なんだと思った。ここまで王との距離が近いのは、王自身の人柄もあるのだろうが、桃華が二将軍だからというのも関係しているだろう。
 そして同時に、紅貴は、桃華が武官だというのを今更ながら不思議に思った。桃華の剣の腕が確かなのは知っているのだが、桃華の人なっつこい性格で武官というのは違和感を感じる。
「なぁ、桃華はなんで武官になろうと思ったんだ?」
「剣が得意だからだよ。私は、瑠璃みたいにお裁縫とか料理とかできないし」
「あぁ、うん。そうだよな」
「――正確には、一番役に立てるのが剣だったからかな」
「桃華?」
 桃華の声が落ち着いたものに変わった。いつもの無邪気な高い声とあまりにも違っていた。紅貴は驚き、思わず聞き返した。そんな紅貴に桃華は口の端を少しだけあげて、笑みを浮かべた。どこか好戦的に感じられる笑みは、桃華の強い意志を表しているようにも思える。
「私はね、嘉国の王家にとってもお世話になったから、そのためならどんな役にも立ちたいの。私の場合、一番役に立てる手段が、剣だった。ただそれだけ」
「そっか、その、ごめん」
 桃華が武官であることに違和感を感じたことを、紅貴は申し訳なくなった。桃華は、そんな紅貴の態度を不思議に思ったのか、首をかしげて紅貴を見る。
「翡翠もそうなのかな」
紅貴は少し話題を変えるつもりで、そう、切り出す。
「嘉国の王家の役に立ちたいってこと?翡翠は多分、違うと思う」
「……そうなのか?」
「こんなこと言ったら翡翠には怒られるかもしれないけど、翡翠は違うと思う。翡翠は、龍孫様に恩があるはずだから、もちろんその役に立つために武官になたっていうのはあると思う。でも、それ以上に別の理由があるわ。なんか、紅貴相手だと話しやすいね。……わたしね、時々そんな翡翠が許せない時があるの」
桃華は困ったように笑っていた。
「武官としての実力はあるし、わたしなんかよりずっと武官に向いてるのかもしれないけど、それで良いのかって、怒りたくなる時がある」
「翡翠にそれ、言ったことがあるのか?」
桃華は首を振る。
「矛盾しているみたいだけど、私が思っているってことを話したら、今の翡翠との関係が崩れちゃいそうで。
でもね……」
 武官の眼だと、紅貴は思った。紅貴が知っているある武官と同じ、鋭い瞳。守るべき者に対しては優しく、それでいて鋭い輝き。
「話さなきゃいけない時が来たら話すわ。翡翠自身のためと、何より、嘉国の王家、嘉燎家のために」
「そうか」
「こんな話聞いてくれてありがとう。意外と、紅貴って優しいんだね」
 今話したことは翡翠には内緒ね、そう言って桃華は部屋を出た。桃華が部屋をさってから、翡翠がこの場にいないことへの歯がゆさがますます強くなった。桃華が翡翠に対してどんな想いで、怒りたい時があるのかはわからなかったが、今すぐ翡翠に会って話したいと、そう、思った。会ったところで、紅貴は何も言えないと分かっていたが、何か一言言わないと気が済まない、そんな心境だ。紅貴は再び外に目を向ける。
(翡翠、なんで一人で勝手に行動するんだよ……)
 紅貴の目には暗い夜の空が映るばかりだ。同じ空の下にいるであろう翡翠は、今頃どうしているのだろうか。


 白琳は寝台に腰かけ、桃華から借りた書物を読んでいた。桃華が慶で買ったという書物は、巷で流行っているという、嘉国の歴史を創作した物語だった。気分転換にと、読んでいたのだが、内容が全く頭に入らなかった。
「白琳がため息なんて珍しいね」
 無意識の内に溜息をついていたらしい。瑠璃に指摘され、白琳は書物を置き、視線を瑠璃に向ける。
「ため息が好きなのは翡翠様ですのに困りましたね」
「白琳がこんなに心配してるのに、馬鹿兄、何考えてるのかしら!」
そう、きつい口調で瑠璃は言うが自分を励まそうとしているようだと、白琳は思った。
「わたしも一応心配してるのに……」
 そう言うと、瑠璃はうつむいてしまった。きっと、それが瑠璃の本心なのだろう。口では怒っているように見せて、本当は心配でしょうがないのではないかと、白琳は思う。なんといっても瑠璃は、翡翠の妹だ。
「翡翠様なら大丈夫ですよ。強いですし」
 そう、大丈夫なはずだ。瑠璃に笑顔を作ってそう言ったが、ほとんど自分に言い聞かせた言葉だった。
――もう二度と会えないと思っていたけど、会えたではないか。だから、今回も大丈夫。
「白琳無理してない?」
 白琳は首を振る。
「心配はしてますけど、翡翠様を信じていたいんです」
「そうだけど……」
 言い淀む瑠璃は、腑に起きない様子だった。
 翡翠を信じていたいというのは本当のことだ。翡翠がどんな道を歩むにしても、翡翠自身にまったく危険がない道など無いことを白琳は分かっていた。それを受け入れるしかないのだ。だからせめて、翡翠の力を信じていたいと白琳は思う。だが、そうは思っていても、心の奥底はそう簡単にうまくいかない。
 白琳はもう一度言葉にだした。瑠璃に言うためというよりは、自分の心に言い聞かせるためだ。
「……私は、翡翠様のすべてを受け入れられるようになりたいんです。こうして、一人で出て行ってしまうことも含めて」
「そんなの私は、納得できない! こんなこと、わたしが言うのおかしいかもしれないけど、もし、駿が何もいわずに勝手にどかいっちゃったら、きっとすごく心配だし、もしかしたら駿に対して、怒るかもしれない。白琳は違うの? 心配してること分かって欲しいと思わないの?」
 瑠璃らしい言葉だと思った。そんな素直なところが瑠璃の良いところで、瑠璃のまっすぐな心が好きだが、今、瑠璃の言葉を聞いていると、決心が鈍ってしまいそうだと、白琳は思った。――本当は、心の奥底では白琳も瑠璃と同じ気持ちなのだ。
「心配は心配です。でも、受け入れるしかないんです。ただ……いえ、なんでもありません」
思わず口をすべらせそうになった言葉を慌てて止める。それを不審に思ったのだろう。瑠璃が心配そうにこちらを見た。白琳は、こちらの考えを悟られないように言葉を言いなおす。
「いえ、ただ、翡翠様の身体は心配です」
 本当は嘘だった。もちろん、翡翠の身体は心配だが、先ほど止めた言葉の先にあるのは別の言葉だった。
 翡翠のことだ。何も言わずに急に一人で慶を発ったら周りが心配するのはわかっているはずだ。そんな、翡翠がそれでも一人になるとすれば、理由はただ一つ。翡翠が誰かといると、その誰かが傷つく場合だ。この場合、その誰かは、戦う力を持たない瑠璃、そして白琳自身だ。
――ただ、翡翠様の力になれないのが悲しい。
 白琳は、そう言いたかったのだ。
 
 これから翡翠が選ぶべき道を考えると、翡翠のどんなことでも受け入れられるようにならなきゃいけない。そうでなければ、翡翠の横にいる資格はない。白琳はそんな風に考えていた。

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