史書

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  第五章 それぞれの思い 3  

 

慶を発ってから数日、紅貴たちは、嘉国の北、ほぼ真ん中に位置する都市詠笙(えいしょう)に着いた。紅貴は空を見上げた。厚い雲に覆われた、夕暮れの暗い空は、今にも雨が降りそうだった。
 翡翠がいなくなって数日、瑠璃と、それに、白琳もあまり翡翠のことは口に出さなくなった。口に出しても、誰も翡翠が何を考えているかわからず、口に出すたび心が痛む。だからかもしれないと紅貴は思った。白琳も瑠璃も翡翠のことが気になっているはずなのに、不自然に話題に出さない。だが、翡翠のことを話そうとして、不自然に話題を変えられるたび、数日前までは、たしかに翡翠も一緒に旅をしていたということを、思い知らされるような気がした。
 翡翠のことを話と気分が重くなる。だが、話さなくても、白琳と瑠璃が悲しく思うことは変わらないのではないかと、紅貴は思った。
(でも、俺はやっぱりどっちかっていうと腹が立つんだよな、翡翠に対して。それから……)
 紅貴は、ひとつ不思議に思うことがある。桃華のことだ。紅貴は、空を見上げるのをやめ、前を歩く桃華の後ろ姿を見る。桃華は横にいる白琳と話していた。今も他愛もないおしゃべりをしているという様子の桃華は、翡翠がいなくなる前と、様子が変わることはなかった。翡翠が一人でいなくなった翌日、紅貴は桃華と翡翠のことについて話した。桃華が翡翠をどう思っているか。その一部を聞いたはずなのだが、聞いた後も、白琳と瑠璃にたいしても、そして、話を聞いた紅貴に対しても桃華は普段と変わらない態度だった。話を聞く限り、桃華も心の奥底で、翡翠に言いたいことがあるようだった。
 それは、きっと翡翠がいなくなる前から思っていたことだったのだろう。翡翠に言いたいことがあるのに、その翡翠がいなくなった。だというのに、桃華の態度は、普段と変わらない。そんな桃華の態度が不思議だった。白琳や瑠璃と違い、心配しているのを隠しているという様子もない。
「紅貴、どうしたの?難しい顔しちゃって」
「いや、なんでもないんだ」
 横を歩いていた瑠璃に話しかけられ、紅貴は慌てて答える。その直後だった。紅貴にはなじみのない女の声がした。
「瑠璃?久しぶりね」
 ちょうど、紅貴たちの前から歩いてきた女が瑠璃に声をかけた。肩より短い黒髪が、まっすぐに切りそろえられていた。赤い花の簪が差され、それに合わせたかのような赤い着物を着ていた。うっすらと紅が塗られた唇が笑顔を作っていた。綺麗な女だ。歳は、瑠璃と同じくらいだろうか。
「香南?そういえば、香南の家ここだったわね」
瑠璃が話すのを聞いて、前を歩いていた白琳と桃華も足をとめ、瑠璃と香南の周りに集まって来た。
「瑠璃が詠笙にくるなんて珍しい。どうしたの?」
「今、旅をしているところなの。横にいるのが紅貴」
「あ、はい。紅貴です。よろしくお願いします」
紅貴のあとに、続き、白琳と桃華も名を名乗った。
「香南はね、李京の学校に通っていた時は、うちによく着物を買いにきてくれていたの。その時に意気投合して、友達になって。卒業して、今はここに住んでるんだよね」
「うん。私は地方、出身地の文官にずっとなりたかったんだけど、無事それが叶ったってわけ。ところで瑠璃、旅をしているって言ってたけど、今日の宿は決まってるの?決まっていないなら、家に泊まって行かない?」
「いいの?」
 瑠璃が言うと、香南はにっこりと笑って頷いた。

 案内された香南の家は、民家としてはかなり広い家のようだった。門を開け、庭を歩いていると、何か冷たいものが、ポツリと、頬に当たった。雨が降ってきたようだ。
「ぎりぎりだけど間に合った良かった。みんな入って入って」
紅貴、瑠璃、白琳、桃華の四人は香南に促されるようにして、家に入った。
「香南、おかえりなさい。その方たちは?」
紅貴は、声のしたほうを見る。髪をお団子にした、香南よりも年上に見える女性は、香南によく似ていた。いや、正確には香南が、その女性に似ているというべきか。おそらく、女性は香南の母親だろう。
「前に、李京で勉強していた時にお世話になった呉服屋さんのお友達、瑠璃がいるって言ったでしょう?綺麗な青い目の子がその瑠璃よ。他の方は、瑠璃のお友達で、紅貴君に、白琳さんに、桃華ちゃん。今、旅をしているところみたいなんだけど、今日は家に泊めようと思うの。良いでしょう?」
「えぇ、もちろんよ。でも、今日はお客さんが良く来るのね」
「お客さん?わたしが買い物している間に誰か来たの?」
「詳しくはあとで話すけど、麒麟の印が押された紙をもった女の子が家に来たの。今日、その子も家に泊めるわ」
「麒麟!?」
「麒麟ってまさか……!」
紅貴と香南の声が重なった。麒麟の印を持っているのは、麒軍の将軍、つまり翡翠だ。互いに目が会った後、香南が言葉を続ける。
「麒麟の印ってまさか、二将軍の一人、麒軍の将軍の?それって、麒翠様のお客様ってこと?どうして家に?」
「わたしもよくわからないんだけど、この街の門にその女の子が来たらしいの。その子が、麒麟の印が押された紙と、麒翠様からの手紙を持っていて」
「手紙、ですか?」
紅貴が呆然と言うと、香南の母が頷く。
「多分、麒麟の印を持った女の子を保護して欲しいというものよ。とりあえず、家は私と香南の二人しか住んでなくて広いから、今日のところは家に泊めることになったの」
「あの!その女の子に会わせてもらって良いですか?」
「それは構わないけど……」
 紅貴が会うことを願い出ると、どうして会いたいのだろうと言うように、不思議そうに見られる。まさか、自分たちが二将軍と旅をしてていて、その途中、その二将軍の一人、翡翠が勝手に一人で行動してしまい、どこに行ったかわからなくなってしまったと言うわけにもいかなかった。紅貴が、何て言って良いかわからず、黙っていると、瑠璃が言う。
「えっと、言ってなかったんですけど、私、二将軍、翡翠の妹なんです。翡翠は仕事の話はめったにしないから、今どんな仕事をしているかも知らないんですけど、今、翡翠がどこでどんな仕事をしているのか、少しでも良いから知りたいって思っていて」
 瑠璃が、そう言うと、香南が、はじかれたように瑠璃を見た。
「瑠璃のお兄さんって麒翠様なの?」
心底驚いた様子の香南に、瑠璃は、どこか困ったように、曖昧な笑顔を浮かべて言う。
「香南が李京にいたころは、翡翠はもう武官で、煌李宮で暮らしてたから、家に帰ってくることはほとんどなかった。だから、香南は私の兄にあったことがほとんどないと思うんだけど、私の兄は二将軍なの。そういうわけなので」
瑠璃が言葉を切り、香南の母親方を向いて言う。
「女の子に会わせてもらえますか?」
 香南の母は驚いた様子ながらも、静かに頷いた。

 紅貴は、香南に出されたお茶を前に、ぼんやりと考え事をしていた。翡翠は、どうして、一人になったのだろうか。それは、ここ数日間ずっと考えていたことだったが、翡翠の手がかりをつかめるかもしれないという現実を目の前にして、ますます気になった。きっと、誰もが同じ思いなのだろう。瑠璃も白琳も、お茶には手をつけず、ずっとだまったままだった。ただ一人、桃華を除いて。桃華だけは、出されたお茶をのみ、茶菓子にも手を付けていた。相変わらず、桃華だけは、翡翠がいなくなる前と、態度が変わらない。
「連れて来たわ」
 香南の母親の後ろから、少し怯えた様子で女の子が現れる。歳は10歳くらいだろうか。
「どうぞ座って」
 香南に椅子をすすめられ、少女は椅子に座る。紅貴は、円卓の開いている席に座った少女と、丁度向かい合うような形になった。香南も少女の横の席に座る。
「そんなに恐がらなくても大丈夫ですよ。多分、麒翠様に助けてもらったんですよね? 大丈夫ですよ。私の横にいるお姉さんは、その麒翠様の妹ですから」
白琳が優しい声で言う。白琳の温かい声に安心したのか、少女は頷いた。
「まず、お名前は?」
「玉英(ぎょくえい)」
玉英は拙い口調で、そう答える。
「玉英ちゃんはどこから来たの?」
安心させるようにだろうか。瑠璃が優しい笑顔をうかべて尋ねた。
「わたし、恵から来たの。わたしの村が、妖獣に襲われちゃったの」
玉英は、俯いてそう言った。
「お母さんが、妖獣が恵国を襲うのは灑碧様のせいだって言ってたの」
 龍清が言ってた、灑碧の呪いのことだろうか。
「お母さんが若い頃、ずっと前もね、妖獣が出たことがあるんだって。でも、灑碧様が死んでから、妖獣は現れなくなったって。だから、前に妖獣がでたのも灑碧様のせいで、最近また妖獣が出たのだって灑碧様のせいに違いないって、村の人も、お母さんも言ってた」
 数年前も、恵国に妖獣が現れたこと。それは、紅貴にとっては初耳だった。紅貴は妖獣使いだ。だから、数年前に妖獣が現れたということも、とても、他人事だとは思えず、聞いてみたいことが、心の内から湧いてくるのを感じた。けれども、まだ幼いこの少女に聞くのは酷なことのように思われ、紅貴は何も聞かなかった。ただじっと、玉英の言葉に耳を傾ける。
「この前、妖獣が出た時、お母さん、殺されちゃったの」
 少女の口ぶりから、なんとなく想像はついていたことだが、実際にそれを聞くと、実感を伴って心がずっしりと重くなったような感じを受ける。玉英に何か声をかけたかったが、どんな言葉も、安っぽい言葉にしかならないような気がし、紅貴は何も言うことができない。
「お母さんね、巓(てん)家とか煌桜(こうおう)家だったら、妖獣を倒せるはずだって言ってた」
――異形の獣と、下位の妖獣を倒せる人間が現れた。人はその一族を巓を制する妖拳士『巓一族』と呼んだ。また、倒した妖獣の牙を媒体とする者が現れた。しかし、その牙には妖獣の恨みがこもっていた。人はその暴走する刀を妖刀と呼んだ。その際たるものが、妖龍の牙で作られた桜玉だ。桜玉の暴走を止める為に作られたのが神龍の牙で作られた、聖刀煌玉だった。そのどちらの刀も並みの人間では扱うことが出来なかった。二つの刀を使う一族、妖刀使い、人は『煌桜家』と呼んだ。
 妖拳士巓家に、妖獣の牙で作られた刀、妖刀を使う煌桜家。妖獣使い同様に、『史書』に登場する一族だ。確かに、その一族であれば妖獣を倒せるだろう。
「煌桜家が、前は恵家に仕えていて、いざっいう時には、煌桜家が助けてくれるはずだったってお母さんが言ってた」
 紅貴もその話は知っていた。有名な話だ。妖獣使いは今はいないとされ、巓家は自由に諸国を回り、煌桜家は恵国に仕えている。だが、それは真実が書かれているといわれている、『史書』に書かれているものではないため、どこまでが真実かわからない。実際、妖獣使いの紅貴はここにいる。
「でも、昔も今も煌桜家は助けてくれなかった。村の人も、お母さんも、恵国に煌桜家はいないんじゃないかって言ってた。いるのは呪われた皇子、灑碧様。そんな国、恵に未来はないっていうのが村の人とお母さんの口癖だった。恵国にいても未来がないから、嘉国に逃げようって言ってたの。
お母さんも村の人も死んじゃって、一緒に嘉国には来れなかったけど、嘉国に行けばなんとかなるんじゃないかって思ってたの。だからわたしは、嘉国行きの荷に混ざって、国境をこえて、嘉国に来た」
「嘉国に来て、どうだった?」
 ずっと黙っていた桃華がそう、たずねると、玉英が静かに言う。
「嘉国にはついたけど、どうやって生活すれば良いかわからなかった。嘉に着いたばかりのちょうどその時、4日くらい前に、嘉と恵の間の国境の街の外で翠色の目のお兄ちゃんに会ったの」
 玉英が、瑠璃を見た。
「お兄ちゃんに、恵でどんな目に遭ったか、灑碧様のせいで妖獣におそわれたこととか、お母さんが殺されたこととか、嘉国に来た理由とかを話したの。お兄ちゃんは、話を聞いてくれた後で、街の外にいるのは危険だって言って、紙に印を押して私にくれたの。それから、ちょっと待ってろって言って、お兄ちゃんが紙に文字を書きだして……」
玉英は胸に当てた右手をきゅっと握った。
「それを私にくれて、印が押してある紙と、手紙を渡せば、嘉国の文官さんが保護してくれるはずだって言ってくれたの。お兄ちゃんは紙を渡して、お金も少しくれたあと、すぐにどこかにいなくなっちゃったの」
「その紙見せてもらえる?」
 桃華の言葉に、こくりとうなずき、玉英は左手で大事そうにもっていた紙を、円卓の上に置いた。玉英の保護を頼むという内容が、淀みない綺麗な字で書かれていた。これが翡翠の字だというのはなんとなく意外だと、紅貴は思った。桃華が、麒麟の印が押された紙に手を伸ばした。
「桃華、どう?」
 瑠璃が聞くと、桃華が頷く。
「この印は間違えなく、麒軍の将軍が持つ麒麟の印、本物」
「筆跡も翡翠様の物のようですしね」
「玉英ちゃん、お話きかせてくれてありがとう」
 玉英は首を振る。
「お姉ちゃんはお兄ちゃんの妹なんだよね?お兄ちゃんに会ったら、もう一度お礼を言ってほしいの。ちゃんとお礼を言えなかったから、お願いします」
 瑠璃は、一瞬驚いたように、目を見開いた後、笑顔を浮かべる。優しい笑顔だ。
「わかったわ。伝えておく」
「ありがとう」
 玉英は笑った。この円卓についてから初めての笑顔だった。すこし頬を赤らめて嬉しそうな笑顔を見せる玉英に、紅貴は安心した。だが、同時に、赤の他人である少女にこんな表情をさせることができる翡翠が、なぜ白琳を悲しませるようなことをするのだろうと、紅貴は思った。


 嘉国と恵国の国境の街、明陽。その街の外、秩序の外を一人の男が馬に乗って走っていた。ざあざあと雨が降り、雨が黒い髪をべったりと濡らす。
(早い所、目的地について、休むか)
 男は馬をさらに早く走らせ、男の目的地に向かった。やがて、男が着いたのは、洞窟の前だった。男は、馬から降りて、洞窟に入ってすぐに生えている木に、馬をつなごうとするが、そこはにはすでに別の生き物がつながれていた。男は、短剣を抜き、袋に詰めてあった石をたたき割った。たたき割った直後、石から、光が放たれる。光石と言われる石だ。光石は、割ると、一定時間光を放つ。そのため、男のように、街を渡らずに旅をする者には必需品だ。光に照らされた生き物の正体をみて、男は思わず感嘆の声を漏らす。
「黒い天馬とは珍しい。先客さんはいったいどんな奴なんだろうな」
 男は自分の馬も、近くにあったもう一本の木に繋ぎ、洞窟の奥を進む。
 街の門の外。つまり、秩序の外は、夜になると、妖力と言われる力が働き、妖獣や、異形の獣たちの世界になるという。普通の人にとって、夜の門の外は危険だ。だが、門の外にも、ところどころ、妖術使いによる境界が引かれ、秩序の内側となっている場所がある。この洞窟もその一つだった。
 人一人がやっと通ることのできる場所を抜け、やっと開けた場所に出た。そこに、座っていた青年を見て、男は驚く。こういう洞窟にいるような人間には見えなかったのだ。夜にわざわざ街の門の外を歩くよな人間は、所謂一般人でないことは多い。わざわざ危険を冒してまで、夜に門の外にいるのは、街に入れない事情があるのだ。それは、犯罪者であったり、暗殺家業をやっている、などだ。だが、先客、おそらく天馬の持ち主の青年は、そういった人種には見えなかった。
 光石によって照らされた青年は端整な顔立ちをしていた。鼻筋はすっと通り、切れ長の瞳は珍しい緑色をしていた。立襟の服に、首の下の方で結ばれた長い茶髪がかかり、深い緑色の上着を着た青年は、女にはさぞかしもてるだろうと、男は思った。だが、痩せているとは言わないが、もしも青年が武人であったなら、恵まれた体格とは言いがたく、貴族の青年と言っても通用しそうな青年は、こんな場所にいるような人間には見えなかった。
「おい、あんた、なんでこんな場所にいるんだ」
 こういう洞窟にくるような人間に、自分のことを話すことも、そういったことを聞くことも駄目だと言うのは、暗黙の了解だったが、好奇心が勝ち、男は青年に尋ねる。青年はちらりと、男を見たあとで溜息をつく。
「こういう場所に来る人間にそういうことを聞くのはどうかと思うが」
「あぁ悪い。そうだなぁ、俺は修国から来たんだ」
 修国という名を出した時、青年が、一瞬、わずかに眉をひそめたのが分かった。それはそうだろう。修国には王や、それに代わる統治者もおらず、法もない。いわば、無法地帯だった。人身売買や、その他の国では違法と言われている物も取引も普通に行われている国だ。
 そんな国だが、その国――もはや、国とよべるのかも分からないが、修で生き残って来た年数はそのまま、裏社会での地位になる。
「俺は、修で生まれて育ったんだ。どうだ、驚いたか」
「まぁな。……俺も、餓鬼の頃修にいたことがある。だから驚いた」
「へぇ……あんたがねえ」
 この青年が、修でどのように過ごしていたのか興味があったが、これ以上の詮索はやめた方が良いと、本能が告げる。なんとなく、青年の過去には踏み込まない方が良い気がしたのだ。修で生き残って来た年数がそのまま裏社会の地位になるとはいえ、もともと修で生まれたのでなければ、修に来る理由は、ろくでもないことが多いのだ。それは人身売買で売られたという理由だったり、修以外の国で犯罪を犯し、修に逃げてきたりというものだ。
 「俺は寝るから、これ以上話かけるな」
青年はそういうと、腕を組んで、俯いたまま目を閉じた。しかし、その気配から、こちらを警戒しているのは明らかだった。
(まぁ、それもそうだよな)
青年がどうしてこんな場所にいるのかは興味があったが、これ以上の詮索は無駄だろうと感じ、男は、青年から離れて座った。

その後、男が青年の正体を知るのは、ずっと先のことだった。

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