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  第五章 それぞれの思い 4  

 

 香南が貸してくれた部屋は中庭に面していた。紅貴は、目をこすりながら、借りた部屋から中庭に出た。中庭に植えられた木々を、雲の間から除く朝日が照らしている。まだ日が出てからそう時間がたっていないせいか、紅貴以外に、人が起きている気配はしなかった。
 紅貴は軽く伸びをして深呼吸をした。吸った空気は雨上がりの湿気を含んでいた。
「梓穏(しおん)」
 紅貴は、翡翠の後を追わせていた妖獣の名前呼んだ。やがて、紅貴の呼び声に答えるようにして、妖獣が現れた。妖獣は、黄色い毛をふわふわとゆらして、体をくねらせいる。こちらを見る黒い目は丸く可愛らしいが、この妖獣、管狐の梓穏が見た目通りの性格ではないことを紅貴は知っていた。
「翡翠が今どこにいるかわかったか?」
 紅貴が問うと、梓穏は紅貴の指を噛んだ。
「だからお前、それやめろって!」
 紅貴は手を振り回して、無理やり梓穏を引き剥がした。
「翡翠はどこにいるんだ?」
 紅貴は、梓穏にそう問うが、梓穏はぽん、と音を立てて消えてしまった。翡翠の跡をつけることに失敗したのだろうか。紅貴は、溜息をついた。管狐はそれほど力が強い妖獣ではない。だが、いくら弱いと言っても、人の跡を辿ることぐらいはできるものではないだろうか。紅貴が信用されずに、最初から跡をつけなかったのだろうか。それとも、この管狐の力は、本当に、それほどまでに弱いのだろうか。
 「……聖焔(せいえん)」
 紅貴は、少し躊躇しながら、妖獣の名を呼んだ。久しぶりに呼ぶ名前は、思いのほか滑らかに発音された。ずっと、呼びたいと思ってた名だからかもしれない。
 能力的には、確実に人の後をつけることができるであろう妖獣だが、紅貴の呼び声に、応じる気配はない。
「聖焔!」
 今度は少し強い口調で妖獣の名を呼ぶ。だが、呼んだ声に答える者は現れない。
(やっぱりか)
 予想はしていたが、自分に仕えていてくれているはずの竜が紅貴の声に答える気配は無い。

――なぁ、『せいえん』なんて本当にいるのかよ。
 赤い髪を持つ子供が拗ねたように言う。
「聖焔はいつだってあなたを守っているわ。だから、信じてあげて」

 あの頃は、優しく諭すように言った女の言葉が信じられなかった。自分が妖獣使いだということも、『聖焔』という強い竜の主だということも信じていなった。
(でも、いるんだよな)
 決して紅貴の声には答えない竜、聖焔。 けれども、そんな紅貴の前に何度か姿を見せたこともあった。初めて会ったのは、紅貴がずっと幼い頃、ひどく落ち込んでいた時だった。紅貴をじっとみる黄金の瞳がどこかやさしく感じられたのを、紅貴はよく覚えていた。あの時、聖焔は何も言わなかったけど、もしかしたら励まそうとして出てきてくれたのかもしれないと紅貴は思う。
 だが、そうして時折姿を見せることはあっても、紅貴の声に答えて姿を見せたことは一度もない。
 それから時がたち、あることをきかっけに、他の妖獣の名も、聖焔の名も呼ぶこともなくなった。紅貴が、聖焔の名を呼ぶのは本当に久しぶりのことだった。
「今の俺じゃ力不足なのかな」
「その通りだ」
聖焔の声、ではなかった。聞いたことがない女の声だ。声がした方を見て、紅貴は言葉を漏らす。
「幽霊……?」
 髪は、夜の闇を映したような黒だった。、蒼い瞳は、吸い込まれそうな深い色をしていた。自然と、女の美貌に引き込まれる。だが、白い着物を着た女は、半透明で、自分の肉体を持たないかのように、ふわりと宙に浮いていた。紅貴が、一言つぶやいて驚いていると、女が、ほんの少しだけ笑みを作った。
「幽霊か、まぁ似たようなものだな。人より長い間この世界にとどまっている」
紅貴は、女が言った言葉の意味がわからず、首をかしげる。
「まぁ、深いことは気にするな。名乗るのが遅れた。私は香蘭という」
「香蘭さん?」
「あぁ。お前は紅貴だろう」
「名前知ってるんですか?」
「あぁ。ずっとお前たちの様子を見ていたからな。紅貴は妖獣がうまく扱えないようだな」
紅貴はこくりとうなずく。見た目は、翡翠や白琳と同じ歳くらいに見えるが、なぜだか、受ける印象はそれよりずっと年上に感じられる。
「本来、妖獣使いが、その力を発揮すれば、その力に応じて妖獣を従わせることができる。だが、妖獣は、意思が弱い人間には従わない」
「俺の意思が弱いってことですか?」
「どうもお前は妖獣使いの力を使うことを怖れているような気がする」
「うん………」
 香蘭の言う通りだった。あの時以来妖獣の力を使うことが怖くてたまらなかった。もう、二度と使うものかとも思っていた。だが、洸国で、必死に生きようとしている人々の思いに改めて触れるうちに、力を、洸国の人々を救うために使いたいと思った。嘉国来て、妖獣に襲われている村があると聞いて、紅貴は自分が妖獣使いであることを明かした。
 それは、深く考えて出た言葉というよりは、思わず言ってしまった言葉だった。けれど、言葉をついて出てしまったのは、妖獣使いの力を誰かを守るために使いたいとずっと思っていたからだろう。
 それでも、妖獣使いの力を使う時は、どこかでその力を使うことを迷っている。それを香蘭に指摘されて、改めて実感した。怖れては駄目だとは思う。誰かを守りたいと思っても、実力が伴ってなければ守れない。紅貴にとってはその手段が桃華に教えてもらっている剣であり、そして、妖獣使いの力なのだから。
「お前を見ていると、昔のあいつを思い出す」
「あいつ?」
「昔、大切なものを守るための力を望んだ餓鬼がいたんだ」
「その人と俺、似てるんですか?」
「あいつの方が紅貴よりも生意気だったがな。それはそうと、管狐に翡翠を追わせたみたいだが、管狐では、翡翠の跡をつけるのは無理だと思うぞ」
「管狐にはそんな能力ないということですか?」
 香蘭は首を振る。
「紅貴の力が足りないのと、なによりも、翡翠のせいだ。翡翠は、弱い妖獣の力なら惑わすことができる。紅貴の管狐も翡翠に惑わされたのだろう。あいつの跡をつけようと思うなら、よっぽど実力がないと無理だ」
「……翡翠って何者なんですか?」
嘉国の最高位の武官二将軍。それが翡翠だ。だが、なんとなく、それだけではないと、紅貴は感じていた。
「翡翠が何者か知りたいか?」
 紅貴は頷く。誰にだって隠しておきたいことはあるだろう。実際、紅貴だって隠していることはある。隠しておきたいことを、無理に暴くのは、良くないと、紅貴は思う。だが、翡翠のそれは、今回、一人で慶を出て行ってしまったことに、大きく関係するような気がしたし、今後の旅にも大きな影響を与えるような気がする。
 何より、白琳と瑠璃が悲ししむ顔は見たくなかった。
 白琳も瑠璃も、翡翠との付き合いは長いはずだ。ましてや、瑠璃は翡翠の妹だ。付き合いが長ければ、それだけ翡翠のことをよく知っているはずだと紅貴は思う。だが、そうして深く付き合っているからこそ、深みにはまって見えにくい部分もあるのではないかと、紅貴は思う。そして、紅貴は、翡翠との付き合いが短いからこそ、冷静に判断できることもあるのではないかと思う。
「あいつは、自分から自身のことを話すことはまずない。翡翠が何者か知りたければ、お前が努力しろ」
 紅貴は頷きながら唐突に思う。香蘭が言っていた大切なものを守るための力を望んだ子供というのは、翡翠のことではないかと。だとしたら、翡翠は一体何を守ろうとしたのだろうか。


 翡翠は、嘉と恵の国境の街、明陽にいた。日の出と同時に、寝床にしていた洞窟を出た。開門と同時に明陽に入り、今はこうして路地裏を歩いている。昼近くになったはずなのだが路地裏を歩いているせいか、人はまばらだった。やがて、翡翠は目的地に着いた。窓がない石でできた建物。翡翠は、同じく石でできた戸を押し開けて中に入った。
「おう、兄ちゃん。兄ちゃんが欲し欲しがってたものは、約束通り、今渡すことができそうだ」
 男が差しだした袋を受け取り、その中に入った小瓶を取り出す。翡翠は、うなずいて、自分の財布から、金を取り出し、男の手に載せた。
「おう、ちょうどぴったりだな。兄ちゃん、髪を染めたんだな」
 翡翠は、苦笑しながら自分の髪の先をつまむ。いつもは首の下で結んでいる、長い髪は、下ろしていた。おかげでうっとおしくてしょうがないが、見た目を変えるためだと我慢していた。掴んだ髪の色は茶色ではなく、黒。水で濡れてしまえば、もとの茶髪に戻ってしまうが、恵にいる間の分の染め粉は十分にある。
 翡翠は、今男から受け取ったばかりの小瓶を軽く振った。中に入った紺色の液体が揺れる。それを瞳に垂らした。
「……もったいねぇな」
瞳に液体をたらした直後、男が心底残念そうに言う。
「せっかく珍しい翠色の目だったのに」
「どうせ、数時間で元の色に戻るだろう。その時はまたこの目薬を使うが」
 男から受け取ったのは、一時的に瞳の色を変える目薬だ。今、翡翠の瞳は黒い色をしているはずだ。
 ただでさえ、翠色の目に茶髪は目立つ。だが、それ以上にまずいことがあった。ほんの一握りだが、恵国には、茶髪に翠色の目というのがどういう意味を持つか知っている者がいる。いや、恵国だから意味を持つというべきか。翠色の目を持つ男が生きて恵国に来たと知られるわけにはいかなかった。
「世話になった」
 翡翠は、戸を押して、建物の外に出た。

 翡翠は国境の門に向かった。恵国に向かう人よりも、恵国から出てくる人の方が多いのは、龍清が言ってた灑碧の呪いのせいかもしれない。翡翠はそんなことを思いながら、文官に身分証明書を見せる。見せる証明書には、もちろん本名は記されていない。『江 翠嵐(こう すいらん)』そう、記された身分証明書だったが、翡翠は簡単に国境の門を通される。
 門を通って、踏みしめた地は、もう嘉国のものではない。恵国のものだ。灰色の石畳が並んでいた嘉とは違い、白い石が並んでいた。それを見て、本当に恵国に来てしまったと、翡翠は実感した。
 (もう二度と来ることはないと思っていたんだがな)
 自分の運命を変えたあの日。『灑碧』が死んだあの日以来、もう二度と、恵国に来ることはないと思っていた。二将軍の地位に就いた後も、恵国に関わる仕事はすべて鳳軍に任せていた。紅貴たちと共に、洸国にいくことになって、同時に恵国を通ることになると頭では分かっていたが、こうして、恵国の光景を見て、来てしまったという事実に呆然とする。
(だが長居はしない)
 そう、ただの通り道だ。洸国に向かうための。
 ――しかし、灑碧の呪い。それが気がかりだった。

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