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  第一章 北の青い空 5  

 宮中での翡翠の一室からは湖が見渡せた。日がすっかり沈んだ今、湖は夜空を映し、澄み切った黒へと変化している。今宵は満月。黒に浮かぶ白銀の満月はため息が出るほど美しかったが、この部屋の主がついたため息は別の意味を含んでいた。
  黒無地の着流しを、少々だらしなく着た翡翠は、座卓の前で胡坐をかいたまま駿に押し付けられた仕事を終わらせようとしていた。しかし、夕焼けの頃からやっ ているのにもかかわらず、積み重なった紙の山はほとんど減っていなかった。いつのまにか、日はすっかり沈み、代わりに月が姿を現している。紙の山と、月を 交互に見た翡翠は思わずため息をつく。
(こんなのいつになったら終わるんだよ……)
 翡翠は再び紙の山をみると、気分転換をしようと立ち上がった。寝台の方へ向かい、その横で、膝をつく。そうして、寝台の下に手を伸ばすと、そこから、酒瓶を取り出した。 瓶には『恵明月』とある。嘉国の隣の恵国で醸造される高級純米酒である。翡翠は、改めて座りなおし、胡坐をかいた。慣れた手つきで瓶の口を開けると、『恵明月』の芳醇な酒の香りが漂った。
(これが桃華にみつかったら確実に奪われるな)
 見かけによらず酒好きの同僚を思い出し、ふぅっと息をはくと、 香りに誘われるようにして、酒瓶に口をつけようとした。しかしちょうどその時、戸が開き、一人の女が入って きた。女――白琳は、微笑みを浮かべて翡翠を見た。ちょうど、月明かりに白琳の白い顔が照らされた。つややかな黒い髪がさらりと零れ落ちる。一瞬、言葉をなくした翡翠であったが、 何をしにきたんだと、尋ねることにした。しかし、それより先に、白琳が柔らかい声で言う
「仮にも二将軍の翡翠様が、宮中でそんな服装で、しかも胡坐をかいて、自室でお酒を煽っている姿をみたら、みなさんきっと怒りますよ」
「知るか。着流しの何が悪い」
 いつもどおり、軽口をいうと翡翠はプイっと窓の方を向いた。
  文官であれ、武官であれ、宮中で官職についている以上、役職に応じた 官服というものは存在する。仕事が終わった後まで、官服を身につけていなければならないという決まりはないものの、いつ招集されるかわからないのが煌李宮 である。宮中で過ごすほとんどの官は寝るとき以外は官服を着ていた。しかし、翡翠と言えば、官服を着たとしても、どこかだらしなく、官服をきちんと着るの は何かの宮中行事の時ぐらいだった。そして、普段はと言えば、専ら着流しという有り様だった。
 白琳はクスクスと笑うと言葉を続けた。
「翡翠様らしくて私は好きですけど。とてもよくお似合いですし」
 翡翠はわずかに頬が朱色になるのを感じたが幸い白琳の方からは見えない方に顔を向けていた。
「でも、これが二将軍だと知ったら嘉の民は悲しむでしょうね」
そう言った白琳の声はどこか可笑しそうだった。翡翠は、白琳の方を向いて言う。
「……ここに何の用だ?」
「実は、翡翠様にお願いがありまして、煌李宮に侵入してきちゃいました。」
「お願い?」
「えぇ。…… でも、見たところ、お酒飲んで現実逃避している割にはお仕事たまっているようですし、お仕事が終わってからお願いすることにします。翡翠様は、やろうと思 えば事務処理もできる方ですし、そんな翡翠様がこれだけ処理できないお仕事です。きっと、相当大変なお仕事なんですね」
 翡翠は机に乗った紙の山を見るとため息をついた。翡翠とて、事務処理が苦手なわけではない。むしろ得意なほうである。しかし、例外はある。 それが今回のような仕事だった。駿が翡翠に押し付けた仕事にはすべて計算が含まれていたのだ。翡翠は、いわゆる数学というものが大の苦手だった。実際、翡 翠は武科挙と言われる国家試験には史上最年少で通ったものの、三元というものを取り逃がしていた。三元とは、科挙の三つの段階である、郷試、会試、殿試の 全ての試験において首席だった者のことだったが、翡翠は、数学が含まれる郷試で首席を取り損ねていた。数字をみるのも嫌なほどに嫌いだったため、これまで そういう仕事が入った時にはすべて部下に押し付けてきたのだ。
「あら」
 机上の紙を一枚手に取った白琳は小さく声を上げた。
「どうした?」
「これ、仕事じゃありませんわ」
「……仕事じゃない?いったいどういうことだ」
「これ、仕事でもなんでもないただの数学の問題集です」
「なんだと……!?」
 駿はたしかに仕事だといって紙の山を翡翠に渡した。しかも明日までの期限付きだ。
「あいつ、いったい何考えてるんだ!!」
「暇つぶしではないでしょうか」
「どいうことだ!」
 翡翠が声を荒げて言ったちょうどその時、部屋の戸が開いた。翡翠とは対照的に、きちんと官服を着ている駿だった。
「翡翠、王が呼んでるよ」
駿は部屋に入ると、いつもの頬笑みを浮かべて言った。
「駿!そんなことより、これはどういうことだ!」
「そんなこと?王のことよりも大切なことがあるの?相当大変な問題があるんだろうねぇ」
「これ」
 翡翠は紙の山を指差す。
「これ、仕事じゃなくてただの数学の問題集だっていうじゃないか!これのどこが仕事なんだ!」
駿は、クスっと笑うと、何でもないことのように淡々と言う。
「別に間違ってはいないだろう?数学が常識では考えられないほど苦手なひ〜君にとっては数学は仕事だろう?学生の仕事が勉強っていうのと同じだと思うよ」
「同じなわけあるか!第一、俺は、もう、学生じゃない!この期に及んで数学をやる必要がどこにある!」
「う〜 ん……そんなこと言われてもなぁ……。これ、覇玄さまがわざわざ文付きで送ってくれたものだし……。なんだったかなぁ。あぁ、いくら武道だけできて、数学 で合格点とってないって周りに知れたら足元巣食われるかもしれない。だから、これを翡翠にやらせてくれとか書いてあった気がする。 二将軍になった後も心配してくれるなんて覇玄さまは良い方だね」
「あの、覇玄様って、もしかして元二将軍の?」
翡翠と駿の会話を聞いていた白琳が不思議そうに尋ねた。
「うん。元二将軍で、俺たちの恩師の……「恩師じゃない」」
駿が白琳に答えていると、翡翠が割って入った。翡翠はそのまま言葉を続ける。
「あんなじじい、恩師でも何でもない。タダのくそじじいで十分だ」
「そんなこと言ったら、覇玄さま悲しむよ」
「あいつはくそじじいだ。それ以上でもそれ以下でもないだろう」
「まったく、恩ある年長者を尊ぶことができないようなこんな奴が二将軍につくなんて世も末だね。…… 『ただの』数学の問題集って言うくらいだから、すぐ解き終わるだろうけど、さすがに王に呼ばれて時間がないのに明日までが期限っていうのは可哀そうだ。一日延ばしてやるよ。だからすぐ王のところに行くんだね。いつものところだってさ」
「俺は何があっても数学はやらない。無駄口叩いてないでさっさとここから出ろ。……お前、俺が帰ってきたら覚えてろよ」
「何だかんだ言って痛い目にあったことはないけど、一応、忠告通り気を付けさせてもらうよ。そうだ、ちょうど良かった。王は白琳も呼んでたよ」
「私もですか?」
「白琳もっていったいどういうことだ?」
「おれも詳しくは知らないけど、桃華ちゃんと、翡翠、それから白琳を呼ぶように頼まれたんだ」
 翡翠と桃華が王に呼ばれるのはわかるが、白琳は有能な医者ではあるものの、官ではない。王に呼ばれるなど、普通では考えられなかった。もっと も、白琳の父親の圭貴は、宮中に務める医者であるため、あり得ないことではないが、白琳はまだ宮中で務める気はないことを翡翠は知っていた。その白琳が王 に呼ばれるということに、翡翠は本能的に嫌な予感を感じていた。

李京の北、北区と呼ばれる場所に一軒の酒場があった。その酒場に入るには少々コツが必要だった。石畳でできた路地、その石畳の一つを決まった手順で叩くと、がこんと音が響く。塀の一つを指で押すと石畳が外れ、代わりに鍵穴が現れるのだ。その鍵穴を開けた先に酒場はある。
「白琳に翡翠、待ってたよ〜。王様が、好きなお酒つくってくれるって」
 翡翠と白琳が酒場に入ると、お猪口を片手に桃華が嬉しそうににっこりと笑っていた。その横ではどこか呆れた風な康莉が椅子に座っている。部屋の奥ではこの国の王、龍孫が酒場の店主よろしく、酒瓶を手に、柔らかい笑みを浮かべていた。
「翡翠、白琳なにが良い?古今東西のお酒を揃えてあるから、希望に答えられると思うよ」
 翡翠がちらりと横にいる白琳の方を向くと、白琳はわずかに驚いた様子でいた。
「龍孫様、白琳殿が困っておられますよ。私たちは慣れてるので良いですけど、王が自ら酒を注ぐなど常識では考えられないことです」
 翡翠と白琳の心中を察したのか、康莉が言う。白琳のほうに向き直り、康莉は言葉を続けた。
「驚かしてしまって申し訳ございません。王と言えど、普段は人の良いおじさんだと思って、お好きなお飲物を言ってください。龍孫様も喜ばれると思います」
「え、えぇ」
「俺は輝石水」
「麒翠、いくらなんでも遠慮がなさすぎだろう。輝石水って言ったら、恵国の最高級の酒じゃないか」
「康莉、構わないよ。翡翠、今、出すから待ってくれ」
 龍孫はそう言うと、棚の下の方に手を伸ばし、輝石水と呼ばれる酒を取り出した。
「白琳はなにが良い?」
 お猪口に透明の輝石水を注ぎながら龍孫は、優しい声で言った。
「えっと……私は、お酒弱いので緑茶で結構です」
「わかった。飲みたくなったらいつでも言うんだよ」
 龍孫の言葉を聞いた翡翠は、桃華と康莉がいる円卓についた。それに倣い、白琳も少し戸惑った様子を見せながらも席に着いた。
「輝石水と、緑茶だよ」
  龍孫はそういうと、コトリと音を立てて、それぞれ翡翠と白琳の前に置いた。翡翠は、視線を落とし、輝石水の透明な液を見る。濁りが一切ない輝石水にはわず かに、金粉が漂っていた。一般人には――例え、将軍職についている翡翠ですら輝石水はなかなか手に入らない。翡翠はお猪口に手を伸ばす。酒の冷たさが、翡 翠の右手にわずかに伝わった。口をつけると、翡翠好みの辛口が口の中に広がる
「……美味いな」
 思わず感想が口から洩れた。
「ねぇ翡翠、白琳、私、見せたいものがあるの」
 桃華はにっこりと笑うと、腰から鞘ごと脇差を抜きとり翡翠に渡した。刀がどうした、と言おうとしたが鍔につけられたものを見て顔をしかめる。そこには小さな龍の縫いぐるみが括りつけてあったのだ。水色の柔らかい生地で作られた龍はつぶらな瞳を翡翠に向けている。
「お前、基本的に刀じゃなく脇差で戦うんだろう?こんなの鍔につけたら邪魔じゃないか?」
「大丈夫だよ〜。それよりね、龍孫様と康莉にも名前教えたから、翡翠と白琳にも教えてあげようと思って」
 桃華は満面の笑みを浮かべると、明るい声で言う。
「龍乃助(りゅうのすけ)って言うの。可愛いでしょう?」
 翡翠は自分の黒天馬を思い出し、溜息をつく。
「お前のその名前の感覚なんとかならないのか?」
 翡翠が呆れて言うと、桃華は頬を膨らませた。白琳はクスクスと笑うと、子を諭すように言う。
「私はとてもかわいらしいお名前だと思います。それを否定する翡翠様のほうがよっぽどどうかしていると思いますわ」
「それ、もらったのか」
「うん!買ってもらったの。この子のお友達で、梅っちもいるんだよ」
 誰に、と聞かなくても察しのついていた翡翠はこれ以上何も聞かないことにし、話題を変える。
「話は変わるが、輝石水なんて高級な酒、どうやって手に入れたんですか?」
「前に、恵王の使者が嘉にいらした時にもらったものだよ」
「恵王……翡稜か。そんな高級な酒を快く注いでくださるなんて、もしかして、何かとんでもない命令でもするつもりですか?」
「……やっぱり翡翠は鋭いな。まず、勝手に呼んでおいて申し訳ないがこれが終わったら、白琳には席をはずしてもらいたい。そして、君たちにとんでもない命を下そうとしている私を許してほしい」
 王はそう言うと翡翠たちが座る円卓の前にやってきた。そういえば、と翡翠は思った。いつも、着流しの王が今は紫の正装を着ている。
「康莉」
 王が真剣な様子でそういうと、康莉は静かに立ち上がった。いつのまにか康莉の手には三つの巻物が握られている。
「白琳」
 王が静かに声をあげると、白琳は緊張した様子で立ち上がる。
「まず、ここでのこと、これから下す命については、父親と、君の親友の瑠璃、 嘉の二将軍以外の誰にも口外しないでほしい。約束できるか?」
急に空気が変わった。慣れた者どうしが集まった時独特の温かい空気から、この国の王が支配する圧倒的なそれへと。白琳は静かに口を開く。
「はい。約束します」
「壮 白琳に勅命を下す」
  龍孫はそう言うと、康莉から巻物を受け取り、白琳に手渡した。白琳は一礼してそれを受け取り、巻物を開いた。開いたそこには流れるような龍孫の達筆。さら に文末には御名御璽が押されていた。翡翠と桃華も同じように巻物を受け取り、巻物を開く。やがて、中身を確認した翡翠は眉間に皺を寄せる。
「龍孫様、俺と桃華がこの命を受けるのはわかります。ですが……白琳までというのは危険ではないでしょうか」
これに答えたのは王ではなく、白琳だった。
「翡翠様、私なら大丈夫です。私にしかできないこともあるので一緒に行かせてください」
「でも……」
「大丈夫です。桃華様、それに、翡翠様がいるなんて心強いですわ」
「翡翠、良いじゃん。白琳いた方がきっと楽しいよ」
仏頂面の翡翠に桃華は笑顔で言った。
「それとも、翡翠には白琳を守りきれる自信無いの?」
「そういうわけじゃ……」
「ふ〜ん……?まぁ、翡翠が無理ならいざとなったら私が白琳を全力で守るから良いもん」
「あのな、桃華そうじゃなくて……」
 王に下された命令はあまりにも危険すぎる。できたら白琳を巻き込みたくない、というのが翡翠の本音だった。
「だって、私や翡翠じゃ無理で、白琳にしかできないことがあるんでしょう?そしたら仕方ないじゃん」
 桃華はなんでもないことのように言った。
「翡翠様、これ、勅命ですよ。拒否できるものではありませんわ。翡翠様がとやかく言っても仕方ないと思いますわ」
 意気投合している白琳と桃華を見た翡翠はため息をつく。なぜか笑いあう二人をみて、疲労のようなものを感じてしまったのだ。
「龍孫様、この命―洸国の民と共に洸に入り、洸国を救うという命、謹んでお受けいたします」
翡翠の心境を知ってか知らずか、白琳は美しい声でそう宣言した。一切の揺らぎがないように翡翠には感じられた。これ以上は何も言うまい。そう決め、翡翠はため息をつく。
「ですが、受ける代わりにひとつお願いがあります。瑠璃も一緒に同行してもらっては駄目でしょうか?」
「瑠璃……芳 瑠璃か」
 王は鬚をなでるような仕草をし、白琳を見つめた。
「よかろう。瑠璃も同行すると良いだろう。それは瑠璃の宿命のようなものだからな。白琳と桃華、翡翠に瑠璃、それから洸の民、紅貴と共に、洸へ向かうのだ」
 王はそう言ってこの場にいる翡翠、桃華、白琳の目を一人ずつ見つめた。

「では私は失礼いたします」
 白琳が退席すると、王は静かに言った。
「翡翠、桃華、そなたたちにはもう一つ頼みたいことがある」
そう言って王は、臣であるはずの翡翠と桃華に頭を下げてしまった。
 王のどこか悲しげな低い声は、いつまでも翡翠と桃華の耳から離れなかった。
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