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  第六章 噂 10  

 

 「――さま、……さま!」
 少女の声に少年はゆっくりと振り返る。花が咲き誇り、池が澄んだ空を映し出している。風は穏やかに流れ、静かな風が、辺りに花の香りを運んでいた。良く整えられた庭園にあっても、少年の名を呼んだ同じ年ごろの少女は、とても綺麗に見えた。
 少年の名前を呼ぶ口元は笑顔を象っている。自分の名をこんなにも嬉しそうに呼ぶ存在は、少年には貴重だった。少しはしゃいだ様子でこちらに近づいてきたからだろう。少女が、身に付けていた裾が長い着物に足をとられそうになった。
「あっ!」
 小さく声をあげて躓きそうになったところで、少年は少女の手を取る。
「ありがとうございます」
 躓かぬよう、少女の手をとったものの、なんと言っていいかわからず押し黙っていると、少女がひょこりとお辞儀をしてそう言った。少年は少女の手からそっと手を離し、俯く。
「――さま、あの花の名前はなんですか?」
 少女が指差した先には、濃い紫色の花が咲いていた。あの花は確か――
「すみれ」
「あの花はなんですか?」
 少女が向けた視線の先を見ると、壺のような形をした薄紅色の花が咲いている。
「あしび」
 少年が花の名前を言う度に、少女は口元を綻ばせる。正直、少年は花には興味がなかった。けれど、こうして少女に花の名前を教えると、少女は嬉しそうに笑むものだから、あらかじめ花の名前を勉強していたのだ。少年は少女の笑顔が好きだったのだ。
――この笑顔を守れる力が欲しい
 よくありがちな、願いが叶うならば何を叶える?といった問いがあったならば、間違いなくそう答えるだろうと少年は思っていた。
「――さまは好きな花、ありますか?」
 少女が小首をかしげてそう言うと、肩よりも少し長い黒い髪がさらりと揺れた。正直、花に深い関心があるわけではなかったから、すぐには花の名前が思い浮かばなかった。そうしてしばらくして浮かんだのは池に咲く白い花だった。
「睡蓮……?」
 ぽつりとそう呟き、やがて、その花が目の前の少女と雰囲気が似ていることに気づいた。
「私もすきです。――さまはどうしてすきなんですか?はなことば、なんでしたっけ?」
「甘美、優しさ、信頼……」
 まさか花で目の前の少女を連想したと言うわけにはいかず、仕方なく、おぼろげな記憶を手繰り寄せ、睡蓮の花言葉を言うと、自身の頬が微かに熱くなるのを感じた。
「……お前はなにがすきなんだ?」
「私は、ロウバイがすきです」
「蝋梅?」
 少年が聞き返すと、少女は嬉しそうに頷く。
「――さまに似ていますから」
「俺が?」
  蝋梅はたしか、ちょうど一月ほど前に咲いていた花の名前のはずだ。濃い黄色をしていて、甘くて芳しい香りを一面に漂わせる。少年は、自身が華やかな存在とは程遠いという自覚があった。あのような明るい花と、自分が結びつかず、少年は腕を組み、首を傾げる。そんな少年の心境を知ってか知らずか少女は笑顔のまま口を開く。
「花ことばは『やさしい心』。――さまのことですよね?」
 少女が言った言葉をうまく飲み込めず、少年は目をぱちぱちと瞬かせていてが少女の方は、ずっと嬉しそうに笑みを浮かべ続けていた。



 びくりと身体を震わせ、翡翠は身体を起き上がらせた。
 ひどく懐かしい夢を見た気がすると翡翠は思った。だが、その内容は思い出せなかった。だが、見た夢が本当に遠い過去のものだというのならば、思い出す必要はない。今の自分には関係のない話だ。ぼんやりと洞窟の入口に目を向けると靄がかかった光が差し込んでいた。まだ、夜が明けて間もない時刻なのだろう。翡翠は立ち上がり、洞窟の入口に向かう。洞窟の外に出ると、早朝の冷たい空気が喉に入りこんで来る。
 冷たい空気を感じながら、翡翠は、荷から天馬の餌を取り出し、洞窟の入口に繋げていた天馬に餌をやった。手の上に餌を乗せ、それを食べる天馬を見ながら考えていたのはこれからのことだった。
 つい最近まで、自分は命を狙われていた。いや、正確に言うと今でも狙われているのだろうが、少なくとも表だっては狙われなくなった。翡翠は、自分の命が狙われることで、周囲の人間に迷惑をかけることになるから、白琳らと別行動を取った。だが、榛柳に行って以来、表だって翡翠が狙われることはなくなった。もう、白琳らと別行動をする理由がない。
 今頃、白琳たちは榛柳に着いているころだろうか。榛柳にある碧嶺閣に向かっているのだろうか。脳裏に浮かんだ碧嶺閣という名前に、翡翠の胃が鈍く痛みを感じる。翡翠はため息をつく。
 例え、自分の命が狙われていなかったとしても、翡翠は碧嶺閣に行くつもりはなかった。自分が碧嶺閣に足を踏み入れる。それだけはあってはならないことだった。どちらにしても、榛柳に着く前に、理由をつけて白琳たちと離れるつもりだったのだ。
 ならば今やるべきことは、できるだけ妖獣を倒しながら、港がある紗水(さすい)に向かい、そこで合流すれば良い、はずだ。だが、おそらくは桃華が意図的に流したであろう噂が気がかりだった。
(あいつ、なんでわざわざ……)
 いや、桃華の狙いなら分かっている。だが、桃華の意図したとおりに動くわけにはいかない。それだけはできない。けれど、同時に分かっている。桃華が意図したとおりに動けないのならば自分がやるべきことは――
 翡翠は『あの日』以来何度もやったように、発作的に、懐から短刀を取り出した。それを首に当て、喉を裂こうとして――できなかった。地に転がった短刀を、翡翠は睨みつける。背に冷たい汗が落ち、地に付いた手が震えた。
――まただ
 また、白琳の顔が浮かんだ。かつては純粋な恐怖から、自らの命を絶つことができなかった。嘉にやってきて成長しててからは、なぜだか白琳の顔が浮かび、手が止まる。死、そのものよりも白琳と会えなくなることが恐ろしい。そんなものを望む資格などないと分かっているのに、白琳のことを考えると、どうしても自ら命を絶つことが出来ない。
 手の震えを止めようと、大地に指を突き立てていると、天馬が顔を翡翠の肩に押し付けてきた。翡翠はゆっくりと首を振ったあとで立ち上がる。
 今の自分は嘉国の武官だ。嘉国の武官として、嘉の王の命を達成する。それが、今自分がやるべきことだ。その後のことは、洸を救ってから考えれば良い。
――もしかしたら、時間が自分の心境を変えてくれるかもしれない
 今はとにかく紅貴らと合流し、妖獣の発生の原因を突き止めること、洸に向かうことだけを考えよう。そう、言い聞かせようとした時だった。周囲の風がざわつくのを翡翠は感じた。けっして良い気配ではない。風そのものが恐怖に震えているような、そんな気配だ。
 間違いない。また、この国に妖獣が現れた。それも、今翡翠がいる位置のすぐ近くだ。翡翠は、天馬に飛び乗り、妖獣の気配がした方へと向かった。

 妖獣が発生した場所にはすぐに辿りついた。榛柳からは近い。徒歩や、馬では多少時間かかるかもしれないが、天馬であればすぐに辿りつく場所に妖獣はいた。榛柳の南には枇惑ノ森が広がっている。その森の一角を妖獣が火を放っていた。鬱蒼とした木々を、空を埋め尽くした鳥が焼き払い、地を這う巨大な蛇が、毒のようなものを周囲にまき散らしている。枇惑ノ森に入りたがる人間はいない。だが、妖獣が向かおうとしているのはおそらく榛柳だ。
 榛柳には皇がいるからそう簡単には荒らされないだろうが、万が一ということもあるかもしれない。翡翠は剣に力を込め、空を舞う、鳥のような妖獣の首を落とした。
(少し、きついな)
 幾度も妖獣をお倒し、翡翠は見慣れた妖獣であれば、一撃で仕留められるようになっていたが、今回は数が多い。できるだけ早く全ての妖獣を倒したいが果たして。――力を使うしかないのかもしれない。そう思った時だった。妖獣のものとは違う、軽い羽音が聞こえた。そちらを見ると、茶の毛並みを持つ天馬がいた。鳥のような妖獣が吐く炎を避け、降下していく。その背にのる人物を見て、翡翠は内心驚く。背には駿が乗っていたのだ。
 なんで恵にいるのか。そう、疑問に思ったが、今は妖獣を倒すのが先だ。地を這う妖獣を駿に任せ、翡翠は片っ端から空の妖獣を殺めていった。



 紅貴は身を強張らせながら、案内の者の後に着いて行っていた。
 辿りついた碧嶺閣はやはりとても大きく、返ってそれが落ち着かなかった。回廊の横幅が、普通の部屋の横幅に相当するほどの広く、紅貴らが歩を進める度に、碧嶺閣の女官たちは、深々と礼をした。その広さも、女官たちの態度も、全てが落ち着かない。おそらく、宵汐の客という扱いを受けているためにこんなことになってしまっているのだろう。
 揃いの紺の着物を着た女官たちが、深々と礼をする度に、紅貴は顔を強張らせていた。横を歩く瑠璃も落ち着かないのか、顔が引きつっている。やがて、辿りついてのは、部屋ではなく屋敷だった。綺麗に整えられた庭園があり、いくつもの部屋がある。案内されるがままに屋敷に入ると、香が焚かれているのか、かすかに花の香りが漂っている。
「紅貴様はこちらへ」
 当然といえば当然なのだが、男である紅貴は、瑠璃、桃華、白琳とは別の部屋に案内されてしまった。紅貴にはそれが不安なことに思えた。この、落ち着かない場所で一人というのは、息が詰まる。案内された部屋は人一人分で使うには広すぎる部屋だった。よく磨かれた卓が中央に据えられ、陶の花器には、紅貴が良く知らない花が行けられている。部屋からそのまま中庭に降りられるようになっているが、白砂は優美な渦を描き、草花も、自然の姿を生かすというよりは、この庭に飾るための配置に納められているといった風だった。自分が中庭に降りてしまったら、この景色を壊すことになってしまいそうだと、紅貴は思う。
 この時ばかりは、これまでとは別の意味で翡翠がいれば良かったのに、と紅貴は思った。翡翠の嫌味でも聞いていた方が、少なくとも緊張はほぐれそうだ。
「何かご用がありましたら、お申し付けください」
「え、あ……はい。あの、瑠璃たちの部屋へ行っても良いかな?」
 女官に案内され、紅貴は瑠璃らの部屋に辿りついた。瑠璃たちの部屋は、紅貴の部屋よりもさらに広かった。部屋の様子が落ち着かないのか、瑠璃は、顔を強張らせたまま、座布団の上に正座している。白琳はと言えば、妙にこの光景に馴染んでいる。桃華は特に緊張していないのか、日向でごろりと横になっていた。
「あれ? 紅貴、どうしたの?」
 横になっていた桃華が顔をあげて言った。
「一人じゃ落ち着かなくてさ」
「あぁ、やっぱり紅貴もそう? こう、広いとなんだかね……」
 瑠璃が部屋を見まわし、ため息をついた。
「そう? 広いの楽しいじゃん」
 桃華がにこりと笑んで言った。そんな様子を見て、白琳がクスクスと笑う。これからのことはまだ分からないが、もしかしたら数日はここに滞在することになるかもしれない。そう思うと気が重かった。
 やがて、部屋の外から女官の声がかかる。
「明汐様がお呼びです」
 

 女官に案内された広間で、紅貴は前にいる桃華に習い、膝をつき、頭を下げた。紅貴は嘉でも似たようなことをやったはずなのだが、不思議とその時とは違う緊張感を感じる。あの時は、自分の想いが伝わるかが不安だったが、今はこの場の空気に息が詰まった。こういった堅苦しい場所というのはどうも苦手だ。
「面をあげよ」
 凛とした女の声が聞こえ、紅貴は恐る恐る顔をあげた。目の前にいた人物は紅貴の想像とは随分と違った。皇后というからには、もっと華美な着物を着ているものだと思っていた。だが、明汐が身に付けているのは、柄が入っていない濃紺の着ものだった。顔立ちは宵汐の顔にそっくりだ。
 けれど、さすがは現在の皇后というべきか。明汐が発する凛とした雰囲気に、紅貴はごくりと息をのんだ。早くこの時間が過ぎて欲しい。そう、思いかけて紅貴はそんなことを考えては駄目だと自分に言い聞かせる。
 これから、恵に事情を聞かなければならないのだ。恵を旅してだいたい事情を知っているが、恵で何が起きているのか。恵の現状をなぜ嘉に知らせなかったのか。それを聞く必要がある。今やろうとしていることは、きっと恵を救うために必要なことなのだ。
「明汐様に申し上げたいことがあります」
 発せられた桃華の言葉に紅貴は違和感を感じた。尋ねるのではなく、言いたいこと?
「恵の第一皇子にして、証を持った皇位継承者、灑碧様は生きておられます」
 何を言っているのだ。それは桃華とともに、紅貴自身も広めた噂であったけど、なぜ恵の本物の皇族にそれを言うのか。
「桃華!」
 紅貴が桃華の名前を呼ぶ。灑碧が生きているという言葉に、あからさまに顔の色を失っている者もある。かと思えば、喜びとも驚きともつかない表情で目を丸くしているものもある。今の恵の縮図がそこにあった。だが、当の桃華は、そんな様子など気にしていない様子で、明汐を見ている。明汐の方も、表情を変えないまま桃華を見ている。
「そなたは灑碧に会ったことがあると?」
「はい。お目にかかったことがあります。……灑碧様は、今、恵におられます」
 何を言っているのだ。そう言おうとした。だが、紅貴はそれを桃華に言えなかった。桃華の言葉が嘘を言っているとは思えなかったのだ。
(本当に生きているのか? いったい何がどうなって……)
 考えようとして、紅貴は閃いた。
(まさか……)


 空の妖獣は翡翠が倒し、地の妖獣は駿が倒した。あたりに焦げくさい異臭は残ったものの、妖獣を倒し終え、辺りは元の静けさを取り戻した。翡翠は、地に降り、駿に近づいて行く。駿の前に経つと、ちょうど駿は、血を払い、鞘に剣を納めているところだった。
「お前、なんでこんなところにいるんだ」
 駿がゆっくりと振り返る。
「それはこちらの台詞だよ」
 翡翠はため息をつき、口を開く。
「妙な奴らが、俺の周りをうろついていたからな……」
「そういう意味じゃないよ」
 駿の男にしては高い声が、翡翠の言葉を遮る。駿が言わんとしていることが分かってしまった。翡翠は駿に背を向け、天馬に飛び乗ろうとする。その背び再び声がかかる。
「いつまで逃げているつもりだ」
「……何の話だ」
 翡翠は背を向けたままで何とかそれだけ言う。そう、言いながらも分かっていた。このままではいけないことは。だが、もう少しだけ待って欲しい。今、自分がやるべきことは洸に行き、嘉の王の命を達することのはずなのだ。それが嘉の武官としての役目のはずだ。
――逃げ出したい、もう少しだけその命に縋っていたい。……あの笑顔を失うことが酷く恐ろしい
「翡翠……いや、この国では灑碧様と呼んだ方が良いかな」
 駿が言った言葉に、翡翠はゆっくりと振り返る。ついに言われてしまった。どんなに否定したところで、それは消せない証として、翡翠の首の後ろにある。こうなってしまったら仕方がない。駿の言う通りだ。もう、逃げられない。
「――汐家の役目はこの世界の仕組みを維持することだったな……」
 翡翠は、乾いた声で言った。ふいに、白琳の顔が脳裏に浮かんだが、その、愛しい笑顔を無理やり消し去り、翡翠はまっすぐに駿を見つめた。

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