史書

戻る | 進む | 小説目次

  第六章 噂 11  

 

 双龍国において荒んでいるとされている国には共通点があった。人からそれを聞き、駿自身もその事実を目の当たりにした。皇位継承の「証」を持った人間がいないのだ。


 駿と翡翠の間を静かな風が通り抜ける。こちらを振り返った翡翠と視線が交わり、駿は腰に差した剣の柄に手を置いた。翡翠は今、駿の――汐家の役割を口にした。静かで、一切の感情を消し去ったような淡々とした声だった。
翡翠のそんな声を聞き、静かに湧き出てくる感情があった。そんなこちらの気持ちを知ってか知らずか翡翠が再び口を開いた。
「……一つの国に、皇位継承の証を持った人間は二人までしか存在できない。俺がいる限り、恵には次の皇位継承者は誕生しない。だが、今恵は荒れている。そんな悠長なことは言ってられない。そういうことだろう」
やはり、翡翠の声は淡々としたものだった。声の調子に、渦巻いていた静かな怒りがあふれ出してしまいそうになる。だが、それを押しこめ、駿は口を開く。
「念のため聞くけど、皇位を継承するつもりはある?」
「俺にはその資格も素質もない。だが、俺がいる限り、次の恵の皇は誕生しないんだろう?」
「恵を出ようが名を変えようが、翡翠が「証」を持っている限り、恵に次の皇は誕生しない。今の恵の皇、翡稜様が皇の位を次世代の「証」を持った皇位継承者に譲る。もしくは崩御したら翡稜様からは証が消えるから恵に「証」を持った継承者が生まれる可能性があるけど……翡翠は皇の位につくつもりはない。だとしたら、俺がやることは一つだよ」
駿は手に力を込め、剣を抜いた。目を細め、刃先を翡翠に向け、言葉を続ける。
「この国にはこれからも皇が必要だ」
 駿が剣を抜くと、翡翠も剣の柄に手をかけた。静かに刀身の中程まで抜き、じっとこちらを見つめてくる。駿は一歩足を前に出し、大きく剣を繰り出した。
 次の瞬間、駿と翡翠との距離が一気に詰まり、あたりに大きな金属音が響いた。拮抗した力がぶつかり合い、自然と剣を持つ手に力がこもる。
(なんだ……?)
 翡翠と剣を合わせながら、駿は違和感を覚えた。翡翠の剣を押し返し、駿は翡翠と距離をとる。もう一度距離を詰め、翡翠の首を狙う。それは翡翠の剣で防がれたが、違和感は消えない。刃を合わせたままで、翡翠と視線がぶつかる。一切の感情を捨て去ったかのような、普段とは異なる翡翠の黒の瞳に駿の剣が映し出されている。
 そうなのだ。いつもと違う。剣を合わせたままでいると、徐々に駿の方が、翡翠の剣を押し始めた。翡翠の方は駿と距離をとるわけでも、駿の隙を作ろうとするわけでもなく、ただ剣を合わせている。
 違う。いつもとは全然違う。こんなにも長い間剣を交わらせていることはこれまでになかった。
元々翡翠は力で相手をねじ伏せる種の剣士ではない。純粋に力だけでいえば駿の方が強いくらいだ。それでも駿がこれまでに剣で翡翠に勝ったことがないのは、駿の剣が、翡翠に受け流されてしまっていたからだ。剣を受け流し、いつまでも剣を合わせることはせず、そのずばぬけた速さで相手を翻弄する。翡翠の剣は決してこちらの思うようにはさせてくれないのだ。翻弄され、隙が生まれ、隙は確実に突かれる。だが、今はそれがない。
――初めて剣を合わせた時、圧倒的な剣の腕の差に驚き、同時に嬉しく思った。その後も何度も剣を合わせたが、駿が翡翠に剣で勝ったことは一度も勝ったことがなかった。今目の前にいる翡翠と、これまでに何度も剣を合わせてきた翡翠が同一人物だとは思えなかった。



「翡翠と勝負したいんだけど良いかな?」

 翡翠と出会って間もない頃、駿はそう翡翠に言った。武官を目指すための学校、匠院義塾の寮で同室となったものの、言葉を交わすことはなかった。駿が翡翠に話しかけなかったわけではなく、話しかけてもそっけない返事が返ってくるだけだったのだ。翡翠がどういった人物なのか、その頃はまだよくわからなかった。
 けれど、一つ気になることがあった。翡翠の剣の腕だ。この学校に入ることができたのだから、剣の腕は確かなはずだが、一見すると剣の腕があるようには見えなかった。その頃の翡翠は同じ年ごろの子供と比べてあまり体格が良い方ではなかったし、特別自信に満ち溢れているというようにも感じられなかったのだ。だが、翡翠だってこの学校に入れたのだから、弱いはずはない。それに――翠色の目を持つ人物が武道において弱いはずがないと、駿は確信していた。翡翠の剣の実力に興味があった。
 駿の申し出に、翡翠は静かに頷いた。武練場に向かい、翡翠に投げられた木刀を受け取った。無言のまま、駿は翡翠と対峙する形で向かい合う。
 その瞬間、駿は目を大きく見開く。
――え……
 脳裏にそんな声が聞こえるようになるのにさえ少しの間があった。目の前にいる翡翠の様子が大きく変わったわけではない。だというのに、この張り詰めた空気はなんだろう。息が詰まり、木刀を持つ自身の手が冷たくなる。瞬きをするのも忘れ、じっと翡翠を見ていると、翡翠の口が小さく開いた。
「来ないのか?」
 そっちから来い。そういうことだろうか。駿はなんとか息を飲み、木刀を構えた。翡翠の方は木刀を構える様子がない。見た目には隙だらけに見える。だが、実際には見た目通りでないことは場の空気で分かる。駿は気持ちを落ち着かせようと息を吐き出した。そして、すっと目を細め、翡翠との距離を詰める。
 たしかに見た目には隙だらけに見えた。そのはずなのだが、、気づけば辺りに木刀がぶつかり合う堅い音が響いていた。翡翠が駿の剣を受け止めた――その瞬間はそう思った。だが、次の瞬間、駿の木刀は空を切っていた。一瞬、何が起こったの分からなかった。
 風の音が聞こえた。
 音を捉え、木刀を構えようとしたが、次の瞬間感じたのは、木刀がぶつかりあう感覚ではなく、床の冷たさだった。徐々に胸の下の辺りに痛みが広がっていく。人体の急所を突かれたのだと、ようやく気づいた。床に転がっているであろう木刀を取ろうとすると、声が聞こえた。
「終わりか」
 視線を微かに動かすと、首元に木刀が当てられているのが見えた。実力の差は歴然だった。駿が繰り出した剣が受け止められるどころか、受け流された。速く動ける自信はあったが、翡翠は駿以上に動きが速かった。目の前で何が起こったのだろう。駿の思考が追い付く前に、勝負はついていた。
 これまで駿は、同じ年ごろの子供はもちろん、大人にも剣では負けることがなかった。剣においては天才的だと言われたことも一度や二度ではない。きちんとした師に剣を学び、さらに剣の実力が上がったという自覚はあった。だが、まぎれもなく駿は翡翠に負けた。翡翠がある「力」を持っていることは明らかだ。にもかかわらずその「力」を使わず、純粋な剣の腕のみで駿は翡翠に負けた。その事実に悔しさよりも、嬉しさを感じた。
「お前、なんで笑ってるんだ」
 木刀を駿の首の横から外した翡翠が言った。
「翡翠が強かったからね」
 そう言い、駿は身体を起こし、床に転がっていた木刀を拾った。



 翡翠が持つ刀が僅かに震えている。駿の剣が翡翠を力で押しているのだ。
――なぜ逃れない。
 駿の剣を受け流すなど、翡翠にとっては簡単なはずだ。いつもだったらまず、このような状態にならないし、なったとしてもあっという間に駿が不利な状況に変えられてしまう。なのに今は、一方的に駿の剣が翡翠を押している。
 急に重心が下がるのを感じる。ついに翡翠が刀を落としたのだ。そのままの勢いで、駿の剣が翡翠の首に近づく。

 首筋に、赤い線が描かれた。

 駿は、自身の剣に力を込めた。翡翠の首を落とすためではない。勢いのまま、翡翠の首に深々と剣が刺さるのを止めるためだ。
 薄く皮が切れたところで、駿は剣の動きを止めた。一筋の赤い線がじわりと滲み、視線をずらせば地に翡翠の刀が落ちている。普段は柄に巻かれている布が解け、絵に刻まれている物が露わになった。
 月の中に竹。そして、天に昇る龍の印。今は長い髪で隠れているが、翡翠の首の後ろにある「証」と同じものだ。
「どういうつもり?」
 視線を翡翠の首に戻し、駿は言った。一筋の線だった剣の切り口から、赤い液が流れている。
「お前こそどういうつもりだ。汐家の役目はこの世界の仕組みを維持することだと思ったが」
 翡翠の言葉を聞き、心の奥底に沈んでいた静かな怒りが溢れ出る。駿は剣を翡翠の首から外し、静かに鞘にしまった。何を考えているのだと、翡翠の視線が訴えてくる。
「自分が死ななければ次の皇は誕生しない。だけど自ら命を絶つことは結局できなかった。だから、俺にやらせようとした。そんなところか」
 翡翠が視線を地に落とし、押し黙る。図星なのだろう。
「一応は友人である俺にやらせるなんて随分と酷いことをするんだね」
 抑揚をつけず、淡々とした口調で駿は言った。
「……頼めるのはお前ぐらいだからな」
「俺もできたら遠慮したいんだけどね。死ぬ気がない……死にたくない人間の命を絶つなんて」
 翡翠の目が細まる。
 本当は死にたくないと思っている癖にどうしてこうなのだろう。瞳には光がなく、全てを諦めているかのようだ。どうして生きようと足掻こうとしないのだろう。死ぬ方法を考える前に生きるために足掻くべきではないのだろうか。翡翠のそんなところに憤りを感じる。
 駿は一度視線を僅かに落とした後で声の調子を変えずに言葉を続ける。
「白琳のことはどうする気?」
 翡翠が弾かれたように目を見開いた。翡翠がこんな風に感情を露わにするのは珍しい。だが、翡翠がこうなるのは分かっていた。呆然とこちらを見ている翡翠に、追い打ちをかけるつもりで駿は言葉を続ける。
「白琳が泣くことに耐えられるの? 翡翠は」
 翡翠は何も言わずに俯いてしまった。手を堅く握り、その手が微かに震えている。
「翡翠が死んだら、白琳は泣くだろうね。それでも死を選ぶと言うのなら俺は止めない。だけど、翡翠はそれに耐えられない」
「俺は……!」
 何か言葉を返さなければと思ったのだろう。だが、翡翠はそれ以上何も言わなかった。駿は口の端であえて冷たい笑みを作り、翡翠を見下ろす。
「本当に死ぬ気なら、翡翠は今の時点で命を断っているはずだ。自分でも分かっているんだろう」
「この国には皇が必要だ……だが、俺がいる限り……」
 駿は大きくため息をついて見せる。
「そこまで分かっているなら翡翠がやるべきことは一つだと思うけど?」
 駿は視線を地に向けている翡翠を再び眺めた後で、翡翠に背を向けた。自分の天馬を呼びよせ、手綱を手に取る。そしてもう一度翡翠を見た。
「最後に俺の個人的な願いを言うよ。この先何があっても、俺に剣で負けるなんていう無様な姿は見せないでくれるか?」
 それだけ言い、駿は天馬に乗った。手綱を引き、空を駆ける。言いたいことは言った。あとは、自分がやるべきことをやるだけだ。




 駿が翡翠の前から去った後も、翡翠は呆然とその場に立ち尽くしていた。恵の皇位を継げと言うのだろうか。
(俺が恵の皇に……?)
 その言葉を反芻させると、全身を駆け廻る血が一気に冷たなった気がした。それだけはあってはならない。それこそ恵の終わりを意味する。自分が皇になることは絶対にあってはならないのだ。「灑碧」という名を捨てた時に、そう決まったのだ。
 冷えた首筋に、生温かい血が流れているのを感じる。今になって、微かに痛みを感じ始めた。駿が手を止めた者だから、血こそ流れているものの、軽傷で済んでいる。翡翠は首筋に手を当て、指先についた赤い血を眺めた。
 また死ねなかったのだ。そんな実感が強く湧いてくる。だが、自分が死ななければ次の皇が誕生しないことは分かっている。やはり、恵のためには自ら命を断つしかない。
 短刀を手に取り、喉に付き立てようとする。だが、手が震え、思う様に短刀を操ることができない。それでも無理やり喉に刃を向けようとした時だった。
『翡翠様』
 脳裏に白琳の声が響いた。怪我をする度に発する、少し悲しそうな白琳の声だ。武官になったばかりの頃は今以上に怪我ばかりしていた。その度に、あの声を発するのだ。軽く伏せられた瞳。普段よりも低い声で言う「あまり無茶をしないでください」という言葉。その声と表情が翡翠は苦手だった。
 そんな表情は見たくない――
 喉をせり上がってくるものを感じる。それを無理やり飲み込み、翡翠は短刀を地に転がした。がくりと膝を付き、ゆっくりと息を吐き出す。
 どうしても、白琳の顔を脳裏から掻き消すことができない。


 初めて嘉で白琳に会った時、初対面にも関わらず、不思議と白琳に懐かしさを感じた。
「翡翠様は大きくなったら何になりたいんですか」
 白琳がそう翡翠に言ったのは白琳と出会って間もなくの頃のことだった。恵を出てからは、将来のことなど考えたことがなかった。恵にいた頃は、将来になるものなど決まっていた。それが自分の役目だと勘違いしていたのだ。だが、それは絶対にあってはならない未来に変わった。自分は皇にはなれない。なってはいけない。だが、証は残っている。だとしたら「恵」のために、命を断つべきだ。けれど、「灑碧」の名を捨て数年経っても、命を断つことができないでいた。
「……白琳は?」
 白琳の問いに答えられずに、代わりにそう尋ねた。すると、白琳はにこりと笑みを浮かべた。
「私はお医者様になりたいんです」
「壮家だからか」
「いえ」
 即答だった。それに、翡翠は顔には出さなかったが驚いていた。
「なら、なんでだ」
 そんなことを聞くつもりはなかったのに、気づけばそう白琳に尋ねていた。
「お医者様になったら、大切な人を助けられますから」
「そうか」
 そっけない返事をしながらも実際のところ感心していた。自分にないものをもっていると思ったのだ。かつての自分、「灑碧」は、皇になることを疑問に思わず、そうあることが当然だと思っていたのだ。――実際は皇になる資格などないにも関わらず。
 だが白琳は違う。白琳が医者になるのはあくまでも自分の意思からだという。
(すごいな……)
 口には出さなかったがそう、翡翠は思っていた。そして、その数年後、白琳は実際に医者となった。子供の頃以上に美しく成長し、李京一の美女とまで言われるようになった。だが、翡翠は白琳の本当のすごさは見た目以外のところにあると思っていた。
 ある時、修で奇病が流行った。原因を突き止めなければ、嘉にも病を持ちこまれる可能性があり、医者の誰かが修に行かなければならなかったのである。だが、無法地帯である修に進んで行こうとする者などいなかった。そんな中で、白琳は自ら進んで修に向かうと言った。翡翠は、白琳と数名の医者達の護衛として修に行くことになったのだが、奇病が蔓延する修で、翡翠は白琳の強さを見た。他の医者たちが強張った表情を見せる中で、白琳だけは、いつもの優しげな表情を崩さなかった。
 嘉に戻ってから、「怖くなかったのか」と聞くと、医者が不安な表情を見せれば、患者が不安になるから、と言っていた。それを聞いて、白琳は強い女性なのだと、翡翠は思った。白琳は決して綺麗なだけの人形ではないのだ。
 その上、元々翡翠が修にいたことを知ってたからか、白琳は度々翡翠を気遣っていた。
 白琳に言ったことはないが、翡翠はそんな白琳を尊敬していた。けれど、強い女性だからこそ、不安に思うこともあった。「医者」としての役目をまっとうするあまり、無理はしていないのかと。いつしか、翡翠は白琳を守りたいと思うようになっていた。だが、自分はいつか命を断たなければならない身である。そんな資格などないことは分かりきっていた。だから、自分の気持ちに気づかない振りもしようとしていた。けれど、白琳の笑顔――自然な白琳の笑顔をを見ると、それが揺らいだ。
 基本的には、白琳は笑顔を崩さない。だが、翡翠が怪我をすると、悲しげな表情に変わる。その度に、そんな顔をさせたくないと思った。年を重ねるごとに、白琳の笑顔がかけがえのないものになっていく。そんな感情を持つべきではないのに、捨て去ることが出来ない。

 幼い頃、「灑碧」の名を捨てたばかりの頃は、純粋に「死」そのものが怖かった。けれど、武官になれば、自然と「死」を迎えることになるかもしれない。武官になった理由の一つにはそれもあった。
 だが、白琳と出会い、歳月が流れるほどに、「死」への恐怖はかけがえのないものを失う恐怖へと変わった。


 何とか気持ちを落ち着かせたあとで、地に落とした短刀を拾い上げ、翡翠は懐にしまう。
 ――これから何をするべきか考えなければ。
 そうは思っても正直なところ、自分が何をするべきか分からなくなっていた。洸国を救うという嘉の王の命を達するべきだというのだけは分かっている。分かっている、というよりはその命に縋っていたいというだけかもしないが。
 そんなことを考え地に落ちていた刀を鞘にしまおうとしていた時だった。
「まだ生きていたのか。翡翠」
 もう二度と聞きたくないと思っていた、高めの男の声が聞こえた。その場が冷たくなるなどという生易しいものではない。辺りが一気に凍りついたような感覚を感じる。翡翠はなんとか刀を拾い上げ、声がした方を振り返る。
「瑛達(えいたつ)……やはりお前か」 
 発した名は声になっていたのかすら分からない。「灑碧」の名を捨てるきっかけを作った男は口元で弧を描き、笑みを浮かべていた。
 
 

戻る | 進む | 小説目次
inserted by FC2 system