史書

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  第六章 噂 3  

 

「紅翔……!曉貴!」
 この時紅貴と名乗っていた赤い髪の少年はただ声をあげる。目の前の光景が信じられなかった。紅翔も曉貴も、誰よりも剣が強い人物であったのに、その人物が、冷たい雪の上に横たわり大地を赤い地で染めているなど。紅貴はきゅっと、口をつぐみ、立ち上がる。今目の前に広がる光景が信じられないからか。大地を踏みしめているはずの足の感覚はなかった。けれど、どんなに瞬きをしても、目の前の光景が消えることはなく、それが現実なのだと思い知らされる。紅貴は膝から力が抜けるのを感じた。それに逆らわずに、膝を着き、おそるおそる紅翔の手に自分の手を重ねる。重ねた手は以前よりも細くなっており、先程まで重ねた手が剣を振るっていたなど、信じられないほどだった。
「心配しなくても……私はまだ生きてますよ。ねぇ、曉貴」
 横で、もぞりと動く音が聞こえた。そちらを見れば、曉貴が大きな剣を支えに、立ち上がろうとしていた。
「曉貴……!」
 名を呼ぶ声が震えた。もう、紅翔と曉貴が傷つく姿は見たくない。そう思うのに、名を呼ぶことしかできず、紅貴は血が出そうになるくらいに唇を噛んだ。
「しぶといですね……」
 別の場所から声が聞こえ、紅貴は声がした方を見上げた。血――紅翔と曉貴の血を吸った剣を持った男がゆっくりとこちらにやってくる。紅貴は自然と握っている紅翔の手に力を込めた。
「心配しなくても今は殺さないよ」
 黒い布を被った男が、中世的な声で静かに言う。布を被っていても分かる整った顔だち。けれど、紅貴にはその赤い唇が血のように見え、こちらをみる黄金の瞳は、あの『史書』に登場する妖龍と同じくらいに恐ろしいものに思えた。恐ろしさから、身体が震え、呼吸の仕方を忘れそうになる。けれど、このままこの男の思い通りにはさせたくなかった。紅貴はこくりと息を飲み、男を睨みつけた。
「瑛達(えいたつ)……!」
 紅貴に呼ばれた男は、紅貴の声にどこかうっとりとした様子で笑んでいた。


 はぁはぁと息を乱し、紅貴はばさりと布団を跳ねのけ身体を起こした。外でちゅんちゅんと鳴く鳥の鳴き声が意識を現実に引き戻させ、先程までみていた光景が夢なのだと気づかされた。夢だとわかってなお、紅貴の身体は震えている。こちらを見る黄金の瞳――瑛達の目が忘れられない。
(今はいないあいつのことをなんで今更……!)
 紅貴は頭を振り寝台から降りた。カラカラに乾いた喉を癒したい。今だ現実感を伴わない足を頼りなく思いながら、紅貴が戸を開けると、瑠璃に会った。
「あら? 紅貴。紅貴がこの時間に起きるなんて珍しい」
「うん、俺だってたまには起きるよ」
 ほんの少しだが声が上ずってしまう。紅貴は朝が苦手だった。榛仙道を都に向かって進み、その途中、昨日閑湖と呼ばれる湖近くの宿場町で宿をとり、日付を越える前に眠ったが、いつもの紅貴であれば、日が登ったばかりのこの時間はまだ起きてはいない。
「もしかして怖い夢でも見た?」
 微かに笑いながら問われ、紅貴は肩をおろす。
「そんなところかな」
「そう。それならさっさと朝ごはん食べよう? おいしいご飯を食べたら、きっと忘れるよ。ね?」
 にこりと笑んだ瑠璃の顔を見て、紅貴は安堵の息を吐く。そうだ。あの男はもういない。あんな昔のことをいつまで自分は引きずっているのだろう。こんなことを考えている場合ではない。今、自分にはやるべきことがたくさんあるのだから。瑠璃に共に食堂に行くと、宿屋の一階の食堂の卓にはすでに白琳と桃華が着いていた。
「こっちから起こす前に起きるなんて珍しいね〜」
「おはようございます」
「おはよう」
 外から陽光が差し込み、よく磨かれた赤茶の卓を照らし出している。卓の上に置かれた湯のみに、白琳が茶を淹れ、別の卓に座る人々が、白琳の美しさに見惚れているようで、ちらりと白琳を見つめているのが分かる。平和な光景だと思った。この光景を前にすると、数年前自分に起こった出来事は幻であったとさえ思う。あの夢のことは忘れよう。そう心の内で呟いて、紅貴も卓に着こうとした時だった。
「桃華?」
 にこりと笑んでいた桃華かから表情が消た。殺気のようなピリピリとした気配を纏わせ、宿屋の扉を睨み始めた。
「どうしたの? 桃華」
 瑠璃が桃華に問うのと同時に、外から宿屋の扉が開けられた。
「妖獣だ……!妖獣が来た! 早く逃げろ!」
 叫んだ男の声は震えていた。食堂にいる者たちが息をのんだ後で、ざわざわと声をあげる。
「妖獣だって?」
「灑碧の呪いか」
「私たち死ぬの……!?」
 穏やかだった食堂が一気に混乱に陥る。人々が妖獣の恐ろしさと、灑碧への恨みを口にし、場が恐怖に支配された。
(妖獣が本当に……)
 恐怖で包まれているその場の空気に飲まれそうになりながら、紅貴はその場で立ちつくす。いったいどうすれば……!
「落ち着いて!」
 外に様子を身に行ってたらしい桃華が戻ってきて、叫んだ。
「妖獣が来るまでには少し時間があるわ! だから今のうちに……榛仙道の城壁の中に逃げて!」
 桃華の声に、食堂にいた人々が、建物の外に出始める。瑠璃と白琳が桃華のもとに歩き、紅貴もそこに加わった。
「瑠璃と白琳と紅貴も榛仙道に逃げて、そこに到達する前に妖獣はわたしが何とかするから!」
「わかりました」
「わかったわ」
 瑠璃と白琳が頷き、桃華もそれに頷き返した。
「桃華、大丈夫なのか?」
 おそるおそる桃華に尋ねると、桃華は口元を釣り上げた。いささかも不安など感じていないというような強気な笑みに、紅貴の心臓の鼓動が早まる。
「大丈夫! だから紅貴も今は逃げて! 必ずみんなのところ戻るから」
 そう言われ、紅貴は桃華に食堂を出るように促される。食堂をでると、紅貴達が今いる宿場町は大混乱だった。遠くから妖獣の鳴き声がその声に、人々が悲鳴を上げる。逃げよう、いや屋内にいるべきだ、という声が飛び交い、人々はどうするべきか分からない様子だ。
「瑠璃、お願い!」
「わかった」
 桃華の声に頷き、瑠璃が何をするのかと思えば、すっと息を吸った。
「みなさん榛仙道の城壁の中に逃げてください!」
 大きな声で瑠璃が言い、視線が瑠璃の元へ集まる。桃華は、人々が集まる視線とは逆の方へ駆けだし、おそらくは妖獣の方へ向かっていく。
「榛仙道ですって?」
「それで助かるのか?」
「えぇ。榛仙道の城壁の内であれば安全です」
 どよめく人々に白琳が言い、徐々に人々が榛仙道へ向かい始める。人の流れにまぎれ、紅貴と瑠璃と白琳も榛仙道に向かって走っていると、泣いている子供の姿があった。
「お母さん、お母さんどこ?」
 歳は5つくらいだろうか。幼い少女が、泣きながら母親を探していた。できれば探してあげたいと思う。この歳で、身近な者を失うなど、耐えられるはずがないのだから。けれど、のんびりしている場合ではない。紅貴は少女を抱き上げる。
「お兄ちゃん!? 離して! お母さんが!」
「榛仙道に行けばお母さんに会えるよ。だから今はお兄ちゃんと一緒に逃げよう!」
「本当?」
 少女の黒い瞳が不安げに揺れた。紅貴は少女の不安を少しでも取り除こうと、紅貴をいつだって守ってくれた男の笑顔を思い浮かべ、笑いかける。
「うん。本当だよ。大丈夫、お兄ちゃんたちもついてるよ」
 うん、と小さく頷いたのを見て紅貴はふたたび駆けだす。どうかこの子供の母親も榛仙道に辿りついていますようにと。そして、桃華が妖獣を倒してくれますようにと願いながら。


 人の流れに逆らいながら、桃華は宿場町の入口に向かい、そこに繋ぎとめていた天馬を放った。
「行くよ、天テン」
「キュウ!」
 高い声で鳴いたのを聞き、天テンにまたがろうとした時だった。
「いったいどうすれば良いんだ!」
「あんなの相手に勝てるか!逃げるぞ!」
「しかし、私たちが逃げだせば……!」
 この街を守る役割を持った兵だろうか。鎧を身につけ、背に弓矢を背負った男たちが街の門の前に集まり、言い合いをしている。この場に留まろうとする者。妖獣など人間が戦える相手ではないとして、逃げ出そうそする者もいる。それに呆れた桃華だったが、妖獣相手だと無理はないかと、思い直す。
「天テン、ちょっと待ってて」
 桃華は言い合いをしている集団の元へ歩き、顔を見上げる。男たちが一斉に何かを言いかけたが桃華はその前に口を開く。
「戦う気がないのなら逃げた方が良いわ」
「お譲ちゃんはいったい……お譲ちゃんこそ逃げた方が良い」
 桃華は腰に手を当て、右手を刀の鞘の上に乗せる。
「私は嘉国の武官よ。だから大丈夫。それよりあなたたちよ。戦う気がないのなら逃げて。足手纏いだから。戦う気があるのなら私についてきて」
 桃華の声に、幾人かの兵士は逃げて行ったが、その場に留まり続ける兵士の姿もあった。みなが一様に不安げに空と桃華を見比べている。兵士たちの視線を感じながら、桃華はその場にとどまり続ける兵士を見回し、口を開く。
「良いのね?」
「は……はい!」
 先程、逃げた兵士に敬語を使っていたところから、おそらくは高いくらいの武官ではないのだろう。しかし、逃げずに民を守ろうとする気持ちは受け取りたいと桃華は思った。――おそらく自分が嘉国の王家を守りたいと思う気持ちと同じだ。
「弓矢は得意?」
「え……多少は」
「一応使えます」
 残った兵士たちが顔を見合せながら言った。桃華は笑みを濃くし、隣にやってきた天テンにまたがる。
「妖獣の目を狙ってくれる? 私が留めをさすから」
「はい!」


 石の壁に囲まれ、恵の主要な都市を通る榛仙道。その内側から、紅貴は一面に広がる平原を見つめていた。
「ギャオオオ!」
 妖獣との距離はまだある。だというのに、遠くの空からやってきた巨大な赤い鳥の声に、大地が震えた気がした。空の彼方からやってきたその巨大な鳥は一匹ではない。とっさに数を認識できないが、10匹ほどだろうか。
「ギャアア!」
 鳥のような形状の妖獣が鳴き、口から炎が放たれた。その炎は街に向かい、先程まで紅貴たちがいた宿場街を焼く。
「なんてことだ……!」
「私たちの街が……」
 その光景を見て、身体を崩す者がいる。目の前の光景が信じられないというように、息を呑む者もあった。紅貴も自然と、少女の手を握る手に力を込める。
「お母さん、街に残っていないよね……? 大丈夫だよね」
「大丈夫だよ」
 少女の為の声と言うよりは、自分に言い聞かせるためのものだったのかもしれない。紅貴は少女の母親が無事であるようにと願いながら、妖獣を睨みつける。
「あ、桃華!」
「本当ですね!」
 緑色の大地に、その白い馬は良く生えた。妖獣に一直線に向かう白い天馬と、茶の馬に乗った数人の兵士たち。その様子に、あたりの声が大きくなる。
「妖獣倒す気か?」
「大丈夫なの!?」
「ギャアア!」
 人々の声をかき消すほどの妖獣の鳴き声が聞こえ、遠くからでも口が開かれたのが分かる。――また火を放たれてしまうのだろうか。そう思い、おもわず目を瞑りそうになったその時だった。鳥のような妖獣に向かって矢が放たれた。それと同時に、血を走っていた白い天馬が空に浮いた。一瞬でも瞬きをすれば見逃してしまいそうな速さで、桃華が乗った白い天馬が妖獣に張り付き、妖獣が矢にひるんだ隙に、桃華が妖獣の首を落とした。
 紅貴はとっさに少女の目を手で隠した。妖獣が倒されていることは確かだが、子供にはきつい光景だろう。
「お兄ちゃん?」
「大丈夫だよ。妖獣は倒されているよ」
 右手で少女の身体を抱き寄せ、左手で目を隠しながら紅貴は言う。言いながら残りの妖獣を見て、紅貴は自らの速まりつつある心臓の鼓動を聴いていた。今草原に現れている妖獣はおそらく、高位のものではない。それでも、あれだけの数の妖獣が街に押し寄せれば大変なことになる。兵士らしき人物と桃華が妖獣を次々に倒しているが、唐突に今自分が「ここ」にいるということに無力さを感じた。
(俺は妖獣使いだ……)
 桃華も、街の兵士も妖獣と戦っている。なのに、妖獣使いである自分は何もせずにただ見ているだけ。そんなことが許されるのだろうか。妖獣の使い力を使うのは怖い。けれど、このままで良いのだろうか。
 灑碧の悪い噂が出た時も、それが嫌でたまらないのに何も出来なかった。妖獣が現れても、倒すのは桃華と街の兵士で、非難を誘導したのは瑠璃と白琳だ。仮にも妖獣使いの自分が何をやっているのだろう。
「俺にできること……」
「紅貴?」
 瑠璃が不思議そうに呟く声が聞こえたが、紅貴は軽く目を閉じる。桃華たちが今戦っている妖獣に、こちら側での名を与え、使役すれば桃華たちは妖獣と戦わなくて済む。
 紅貴は意識を妖獣に向け、湧き上がってく力を妖獣に流し込もうとする。それは数本の糸で、縛りあげる感覚に近い。気を抜けば簡単にほつれてしまいそうな細い糸。それを何とか繋ぎとめ、紅貴はこの世界での名を与えようとする。
――だが……
(弾かれた……?)
 細い糸にも似た紅貴の力は簡単に解けてしまった。そして、糸が解ける瞬間に脳裏に浮かんだ印象に紅貴の身体が震えそうになる。妖獣には別の「鎖」が繋がっていた。それが意味することはすなわち――
(俺以外の妖獣使いが使役した妖獣……?)
 考えついた可能性に紅貴は小さく唇を噛む。いや、そんなはずはない。あいつ、瑛達は死んだかずなのに。その可能性を完全には振り払えない。
「お兄ちゃん?」
 紅貴の異変を感じたのだろう。紅貴の腕の中にいる少女が不安そうに名前を呼んだ。
「ごめん、大丈夫だよ」
 紅貴は深呼吸をして草原を見つめる。紅貴が「あいつ」の可能性に動揺している間に、妖獣は残り一匹となっていた。その最後の一つの首を桃華が落とし、榛仙道で歓声が上がった。地に横たわっていたはずの妖獣の遺骸も霧のように消え、紅貴は少女の目から手をどけた。
「すごい!倒されてる!」
 少女が呆然とした様子で言った。
「さすが桃華ね」
「でもお母さんは……?」
 紅貴がここまでつれてきた少女が不安そうに言う。辺りを見回しているが見つからないようだ。少女の母親の特徴を聞き、母親探しを手伝おうとした時だった。
「春葵(しゅんき)……!」
 掠れた声だった。しかし、その声は少女に確かに届いたようだった。紅貴と、春葵と呼ばれた少女は、一斉に声がした方を振り返る。名前を呼んだ女は、少し怪我をしているようだった。妖獣が最初に炎を放った。そのせいかもしれない。
「お母さん!」
 春葵が母親の元に駆け寄り、母親に抱きつこうとする。しかし、それは叶わなかった。
「お母さん……!」
 春葵の母親が膝をつき、血を吐いた。見かけは大きな傷を負っているように見えないのに、何かがおかしい。春葵が悲鳴と嗚咽が混ざった声で母親を呼ぶ。
「妖力……」
 白琳が小さな声で言い、紅貴の横を通り抜けた。そして春葵の母親の前で膝を着いた。
「大丈夫です。私が必ず助けますから」
 そうして白琳は母親の腕に手を当てた。
「もしかして、妖獣が放った炎に少しあたってしまいましたか?」
「はい……少し……」
「妖力にやられてしまったのですね。でも大丈夫です」
 白琳が手を当てた場所から白く柔らかい光が広がり、やがて春葵の母親から紫色の光が溢れ出る。それを白琳の白い光が吸いこむ。
 白琳は「妖力」に春葵の母親がやられていたと言っていた。だとすれば今白琳が行っている行為は、妖力にやられた身体を癒しているということになる。そこまで考えて紅貴は違和感を感じる。
 あの、嘉国の李京で紅貴は「癒しの力」を使える者の同行を嘉国の王に願った。けれど、実際のところ、紅貴は「癒しの力」の全貌を詳しく知っているわけではなかった。ただ知っていたのは、その力はどんな傷でも癒すことができ、その力は皇位継承の証を持つ者と、それ以外にも使える者が稀に現れるということだだった。「癒しの力」の正体が、妖力にやられた人間を治す力だとしたら、桃華達と初めて会った日、靖郭の桜亭で白琳が翡翠に行った行為は――
 紅貴は桃華の腰に差されている常に抜かれることがない刀を思い浮かべる。紅貴が感じた違和感はそこだ。桃華の正体に気づいた気がした。

――倒した妖獣の牙を媒体とする者が現れた。しかし、その牙には妖獣の恨みがこもっていた。人はその暴走する刀を妖刀と呼んだ。その際たるものが、妖龍の牙で作られた桜玉だ。桜玉の暴走を止める為に作られたのが神龍の牙で作られた、聖刀煌玉だった。そのどちらの刀も並みの人間では扱うことが出来なかった。二つの刀を使う一族、妖刀使い、人は『煌桜家』と呼んだ。
 『史書』創世の巻より



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