史書

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  第六章 噂 4  

 

 翡翠は街に入るのを避けながら、西に向かって進んでいた。自分の命を狙っている者が、いつ襲ってくるかわからない以上、街に入るわけにはいかなかったのだ。それでも街に入らざる得ない時もあった。――妖獣が街を襲う時だ。妖獣相手に互角に戦える人間などほとんどいない。それを放っておけば、この国は妖獣に荒らされる一方だ。
 翡翠はふと、嘉を出る直前で出会った少女のことを考えた。名前は確か玉英(ぎょくえい)。「灑碧」の呪いで母親が殺されたと話していた。自分は何もしていないのに、どうしてこんなにも苦しい思いをしなければならないのか。どうして誰も助けてくれないのか。この国の皇族、恵家に使えているはずの煌桜家はどうして妖獣を倒してくれないのか。憎しみと苦しみが混ざったような声色で、玉英は翡翠に吐き出す様に言っていた。
 玉英が言うように、煌桜家は恵家に仕えている、はずだ。なのに、煌桜家の者が恵に現れた妖獣を倒しているという話はきかない。いったい、煌桜家は何をやっているのだろう。そこまで考えて、翡翠は自分より年下の、一見武官には見えない同僚の少女のことを思った。もしかしたら、全ての煌桜家の人間が恵家に仕えているわけではないのかもしれない。だが、煌桜家の人間がなぜ、嘉にいるのかはずっと疑問だった。
(だが、聞くわけにはいかない)
 聞いて、翡翠が桃華のことに気づいているということを明確に示してしまったら、こちらのことも話さなければいけなくなる。きっと桃華はこちらのことに気づいているだろうと思う。それでも、こちらのことを知られているという事実作るわけにはいかなかった。少なくとも、恵の妖獣の問題を片付け、洸を救うという龍孫の命を達するまでは。こちらの正体が知られているとなれば、自分がやるべきことは一つしかない。――もっとも、それをしようとしても何度も失敗しているのだが。結局勇気が出なかったのだ。――昔と違って今なららできるだろうかと考えて、翡翠はため息をついた。
(……今は嘉国の武官だ)
 幼い頃「灑碧」を消して以来何度も試みて、結局できなかったことを考え、ふいに白琳の顔が浮かんだ。それに気づかないふりで、翡翠は自分は嘉国の武官だと言い聞かせた。こんなことを考えている暇があったら、この国を妖獣が襲っている原因を考えるべきだろう。
 原因は何だろうか。今自分がいる竹林の隙間から覗く空を見上げながら翡翠は考える。夜、秩序の外とされる街の外で妖獣が現れるのならば分かる。この世界の決まりをも記されているという『史書』には「夜には、かつての世界を模写するかのようにかすかな妖力が働く。秩序の中には入れないが、その気配を感じ、別世界に行った獣と妖獣は夜だけこの世界に戻る」と述べられているのだから。だが、この国で妖獣が現れるのに、街の内も外も、昼も夜もない。そんな状態で妖獣が現れるなど、妖獣使いが関わっているとしか思えなかった。
(だが、妖獣使いはもういないはずだ……)
 そう自分に言い聞かせようとして、紅貴の顔が浮かんだ。そして、続いて浮かんだのはあの、黄金の瞳をもつ男だった。紅貴はありえない。こんなにも簡単に妖獣を呼ぶ力はまだ紅貴にはない上に、紅貴の性格からこんなことをやるなど考えられなかった。
(紅貴がやったなら気づくはずだしな……)
 嘉国にいる間は、紅貴のすぐ側にいたのだから、もし紅貴がやったのなら自分が気づかないはずはない。
(あの男……)
 浮かんだ男の顔に、身体の内側から凍ってしまったかのように冷たい汗が流れる。死んだはずのあの男が生きているなど否定したい。けれど、現在の恵の状況を考えれば考えるほど、一番それがありえる可能性のような気がしてしまい、あの男の顔を振り払おうとすればするほど、幼い頃に見た男の顔が鮮明になっていく。
(いや、ありえない……)
 心の内で言ったその言葉は願いに近いものだったのかもしれない。それでもあの男が生きているなど考えたくはなかった。妖獣が現れた別の原因を探そう。そう、翡翠が思った時だった。
 ぞわりと、恵国を吹く風が冷たくなるのを感じた。竹林の隙間から覗く光は紛れもなく昼のものなのに、感じる風は夜の街の外のような、いやそれ以上に冷たいものだ。その風が意味することなど一つだ。また妖獣が現れたのだ。翡翠は軽く目を閉じ、感じる風に意識を集中させる。
(閑湖……それから榛柳の近くの村……)
 翡翠は目を開け、横にいる天馬に乗った。ここから閑湖は間にあわない。だが、榛柳の近くの村はまだ間に合うかもしれない。妖獣がいる地を睨みつけ、翡翠は空を駆けた。


 村に近づくほどに風はますます冷たくなっていく。速まる自身の鼓動を聞きながら、翡翠は村と虚空とを見比べた。赤く巨大な鳥が村へ向かっている。早く村に着かなければ。そう焦れば焦るほど村が遠くなっていくような錯覚に陥る。そうして空を疾走していると突如大気が震えた。妖獣が火を放ったのだ。村の中心部には届いていないが、入口の門の辺りを焼いている。翡翠は、天馬から飛び降り、懐から短刀を取り出す。左手で持った短刀で自身の右手の平を縦に切りつけた。
(届いてくれ)
 ここから、妖獣に自分の血の臭いは届くだろうか。自分の「血」に頼るのは癪だが、自分の血は、妖獣が最も欲する「血」の一つだ。血の臭いが届けば、妖獣は村から離れ、こちらにやってくるはずだ。一瞬の時間だったのだろう。だが、妖獣に臭いが届いて欲しいと願うその時間が時がとまったかのように思えた。
 悲鳴のような妖獣の声と、空を切る翼の音が翡翠の耳に届いた。翡翠の血に誘われ、妖獣がやってきたのだ。翡翠は右手で刀を抜き、再び天馬に飛び乗った。鳥というにはあまりもでかいそれ。そのその鳥よりもさらに上空に登り、そこから、鳥の上に飛び移る。
「ギャアア!」
 翡翠は刀を妖獣の首に付き立てた。
「グォオッ……グォオ!」
 鳥のような妖獣は首を振りながら急降下していく。自らが突き刺した刀を支え、妖鳥の背に乗ったままに翡翠も落ちて行く。他の妖獣も翡翠の元へ集まってきたが、翡翠は突き刺した刀にさらに力を込めた。同時に、突如辺りが熱で包まれた。
 苦しさからだろうか。最後の悪あがきをするかのように炎を吐き出したのだ。その炎に、集まってきた他の妖獣が焼かれる。普通の炎であれば妖獣の身が焼かれることはない。だが、妖獣を包む炎は同族が吐き出したものなのだ。翡翠は刀を抜き、妖獣から飛び降りる。そのままちょうどやってきた天馬に乗り、翡翠が刀を突き刺した妖獣を追いかけるようにして地に降り立った。
 地に堕ち、羽をばさばさと動かしている妖獣を眺め、翡翠はそのまま妖獣の首を落とした。妖獣の命が絶命するのと同時に、その妖獣が吐き出した炎も消える。同族の炎に焼かれ他の妖獣も次々と地に堕ち、大地を染め上げた赤だけを残して、霧になって消えた。翡翠は刀の血を払い鞘にしまう。
 「力」を使わずに済んだことに内心ほっとしながら、翡翠は天馬を静かに村に走らせた。
 村の入り口の前で翡翠は天馬から降り立った。見たところ村人のほとんどは村から逃げたようだが、村の入り口の辺りに倒れている人影があった。翡翠は倒れている男の前で膝をつく。
 幸いと言うべきか。胸が上下に動いている。どうやら生きているようだ。恰好からしてこの村の兵士らしい男はぜぇぜぇと息を乱しながら、辛うじて聞きとれる声で言う。
「さいへ……き、様……お助け……を 許して……くれ……」
 まるで悪夢を見ているかのように男は「灑碧」への恐れを口にする。この男が少しでも妖獣の炎に当たってしまったのなら、妖力にやられれている可能性がある。
「おい、しっかりしろ」
 翡翠は男の肩をゆする。何度か呼び掛け、うっすらと目を開けた。そして悪夢から覚めたかのように男が身体を起こした。だが、すぐに身体が地に落ちそうになる。翡翠は男の身体を支え、ゆっくりと横たえる。男が見に付けている鎧の下は見ていないが、焼きただれているかもしれない。応急処置だけでもしなければ。
――恵の人間が死ぬのは極力見たくない
「灑碧様!……灑碧がこの村を殺したんだ! ……灑碧にこの国を滅ぼされる……!ゥああああああ!」
 妖力にやられたせいか。それとも本当に灑碧を恐れてか。男が悲鳴のような声をあげる。 
(……妖力にやられた人間をこのままにしておくわけにはいかない)
 だが、どうすれば……!
 どうすれば、という声と共に、方法ならあるという声も聞こえる。このまま放っておけば、この男の命は助からないかもしれない。
 幸い、辺りに人の気配はない。ここで自分が何をしても誰かに見られることはない。
――白琳ほどうまくは使えないが……
 気づけば、翡翠は横たえた男の胸に手をかざしていた。自分の手に熱が集まり、男の身体から出た紫色の光が自分の手に吸い込まれていく。やがて、徐々に紫色の光が薄れていく。色がなくなったところで、翡翠は男の胸から手を外した。続いて、翡翠は男の腕に手を当てた。妖獣の炎を真正面から受ければ、腕がもげているはずだが、こうして腕があるということは咄嗟に避けたのだろう。それでも少しでも妖獣の炎を受けたのなら大やけどを負ったはずだ。やけどした箇所を探している時間はない、翡翠は男の全身を癒そうと意識を集中させる。
 自分の能力以上のことを行っているせいだろう。意識が堕ちそうになる。だが、この力を使った所で死ぬことがないのは知っている。自分が持つ別の力とは違うのだ。落ちそうになる意識をなんとか支え、翡翠は男顔を見る。白かった顔に赤みが差したのを見て、翡翠は手を外した。全身に汗が流れる。戦いでもこんなに疲れることはないと、翡翠は自嘲する。
「あれ、妖獣……あなたは……?」
 しばらくして目を開けた男に翡翠は問われる。天馬に視線をやり、身体を起こそうとした男を支えさせる。
「たまたまここを通りかかったら、お前が倒れていた。この村は噂の妖獣に襲われたのか?」
 知らない振りをし、翡翠がそう言うと、男は目を見開き、そしてすぐに目を伏せた。
「やはりあれは夢ではなかったのですね。私はこの村を守ろうとしたんですが、結局妖獣の炎から逃げようとすることしかできなかった……ところで、村の人々は?」
 男以外に人が倒れている様子はない。
「ここに来た時には誰もいなかった。逃げたんじゃないのか?」
「そうですか。誰もいないのですね。それはよかった……きっと逃げたのでしょう。私たちの村では妖獣が現れた際の避難場所を決めていましたから。それにしてもこれからどうしましょうね。妖獣に襲われてしまっても、この村のみなさんはここを愛していますから、村に戻りたがるでしょう。でもまた妖獣に襲われたら……」
「……榛柳へ行け」
「え?」
「多分、今は榛柳が一番安全だ。榛柳だったら皇の守りが及ぶはずだ」
 男も兵士だからだろう。翡翠の言葉をすぐさま理解したらしく頷く。
「妖獣の出現が落ち着くまで村のみなさんと榛柳に行けないか考えてみます」
 翡翠はそれには答えず立ち上がる。
「村の避難所に案内してくれないか? お前をそこまで送っていく」
 ありがとうございます、と何度も言う男の言葉を聞き流し翡翠はため息をついた。
 その後、男を避難場所まで送った翡翠は、今日の寝床となる場所を探した。街以外での秩序の内側となっている洞窟を探し出し、奥まで進んだ翡翠は、おちてくる瞼に逆らわずに目を閉じた。
 慣れないことをしたからだろう。まだ日は沈んでいなかったが、今はとにかく眠ってしまいたかった。



 碧嶺閣の庭園の一角。そこに据えられた東屋に恵の第二皇子挺明稜(ていめいりょう)はいた。今恵の至る所で妖獣が出現しているなど嘘であるかのように、風は穏やかに吹き、挺明稜の視界に広がる池は午後の日を浴び、優しく煌めいている。挺明稜は筆を取り、紙に字を綴る。恵を襲う妖獣の対策をまとめているのだ。
 恵国の第二皇子であり、数年前から政に関わってきた挺明稜には挺明稜専用の執務室があった。だが、その執務室ではなく、わざわざ人があまりこない東屋にやってきたのには理由があった。
『明汐様でしょう? 灑碧様を殺したの』
『挺明稜様に皇位を継がせるために証を持った皇位継承者を殺すなんて、怖いわ……』
『そのせいで妖獣が恵を襲っているのに明汐様は平然としていらっしゃるなんて……私、許せない……!』
『でもわからないわ。証を持った皇位継承者を殺してはいけないのは当然のことだけど、灑碧様が生きていた頃って、灑碧様の身の回りで妙なことばかり起こってたんでしょう? 灑碧様が生きておられたら、今頃恵はもっと酷いことになっていたかもしれない』
『じゃあいったいどうすれば……!』
 頭痛とともに思い起こされた女官たちの会話に、挺明稜は膝を卓に付き、額を抑えた。碧嶺閣で働く女官たちは誰もが自分の実の母、明汐と、半分血がつ繋がった兄灑碧の噂話をしている。明汐が灑碧を殺したなどありえない。挺明稜は他でもない母、明汐に灑碧を支えるように言われてきたのだから。実の母親の明汐がそんな風に言われることは許せなかった。そして、灑碧が悪く言われるのは挺明稜には耐えがたいことだった。
 幼い頃は良くわからなかったが、灑碧は、恵を守ろうとしていたのだ。それで何もかも失っている。だというのに、なぜ灑碧が守ろうとした恵の民にそんな風に言われなければならないのだろう。たしかに、挺明稜は、姉の宵汐と、兄の灑碧に振りまわされることが多々あった。よく勝手に碧嶺閣を抜けだし、それに巻き込まれた挺明稜も怒られていたが、ずっと近くで灑碧を見てきたからこそ知っている。
 灑碧は皇位継承者としての責任を果たそうとしていた。
 ふと視線を落とせば、筆に力をこめたせいか、紙には染みのように墨が広がっていた。筆を硯の上に置き、顔を挙げると、人が近づいてきたのが見えた。光宮家の出身の陽春を母に持つ、檜悠だ。ゆっくりとこちらに近づいてくるのが見え、挺明稜は椅子から立ち上がる。
「またお話ですか? いったい何の用ですか」
 はぁ、とわざとらしくため息をついて、檜悠が言った。肩のあたりまでのばされた艶やかな黒い髪も、茶色がかった瞳と言い、どちらかといえば女性的な顔立ちと言い、檜悠の母親の陽春によく似ていた。深い海を想わせるような縹色(はなだいろ)の衣が良く似合い、一見すると涼やかな印象を感じさせる檜悠だが、見た目通りの人物でないことと、挺明稜はよく分かっていた。
「檜悠、お前は皇位に就きたいか?」
「なんですか、急に」
「兄上……灑碧兄上が碧嶺閣にいたのはお前が物心つく前だったから知らないだろうが、灑碧は皇位継承者としての責任を果たそうとしていた。光宮家の駒になっているお前では灑碧兄上の代わりは務まらない」
「自分なら務まる。そう、言いたいんですか?」
 檜悠が口元を横に引き、そう静かに言った。挺明稜はこれには答えず、首を横に振った。まっすぐに檜悠の顔を見つめ、風が何度か二人の間を通り抜けた後で口を開く。
「俺は自分の器を知っているから、皇位を継ぐなどという、恐ろしいことは言えない。だが、檜悠、恵を守ろうとしないお前が皇位を継ぐのは許されないことだ。お前が手を引かないのなら、俺はなんとしてもお前を止める」
 檜悠はくすりと笑みを零す。
「私が恵を守らない? 御冗談を。これでも、皇族の端くれですよ。全力で守りますよ」
 そう言い、背を向ける檜悠を見ながら、挺明稜は拳が震えそうになるのをなんとか抑えようとしていた。半分しか血は繋がっていないが、二つ年下の弟檜悠が道を誤ろうとしている。弟が誤ろうとしている以上、兄の自分はそれを正す必要がある。
 弟の為に。そしてなによりもこの国のためにも。



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