史書

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  第六章 噂 6  

 

「紅貴、入って良い?」
 その晩、宿屋の一室から外を眺めていると、声がかかった。桃華だ。今桃華と一対一で話したら、不用な一言を言ってしまいそうで、できたら桃華と二人きりで話すのは避けたかったが、それはそれで不自然かもしれない。
「うん、大丈夫だよ」
 紅貴が返事をすると桃華が入ってきた。きっと無意識なのだろう。足音を立てずに紅貴の横にやってきた。桃華の強さは分かっていたが、こうして顔を見ていると、とても剣を扱えるような人間には見えない。この、一見すると愛らしい少女が昼間は確かに妖獣を倒していたのだと思うと、やはり不思議な感じだった。
「月が綺麗だな、桃華」
 余計なことを言わないように。紅貴が気になっていることとはまったく関係ないことを言うと、桃華はひょこりと首を傾けてこちらを見た。
「ねぇ紅貴、私に聞きたいことがあるんじゃない?」
「別にないよ」
 そう言って視線を逸らし、空の暗がりを眺める。
「この刀のことが気になっているんでしょう?」
 柄の上に手を乗せたのだろう。微かに、鞘と桃華が着ている服とが擦れる音が聞こえた。どう答えるべきだろう。じっと空を見つめ考えていると、桃華が言葉を続けた。
「さっきじっと私の刀を見てたから、気になってるのかな?って思って」
 失念していた。桃華はどうやら人並み以上に洞察力があるらしい。考えてみれば嘉国の二将軍になるくらいなのだから当然だった。
「うん。正直気になってる。でも、あまりその刀について話したくないんだろう?」
 桃華は「う〜ん」と声を漏らす。顎の下に手を当て、考えごとをしている様子を見せたかと思えば、急ににこりと笑った。
「誰にでも話して良いことではないんだけど、紅貴なら良いかなって。これからずっと一緒に旅をするんだし」
「……いいのか?」
 紅貴の問いに、桃華は大きく頷く。
「この刀ね、「桜玉」って言うの。『史書』創世の巻に記されてる例の刀だよ」
「ってことはやっぱり桃華は煌桜家の一人なのか?
 桃華は再び頷く。そして、視線を外の暗がりに向けた。
「紅貴が言う通り、私は煌桜家の生まれ。恵の西に、朧月島(ろうげつとう)っていう島があってね、その南側で生まれたの」
「ちょっと待って!朧月島って確か恵の観光地だよな? 温泉があるって言う。でも、その南側って八重山脈に阻まれて入れないんじゃないのか?」
「うん。朧月島の南は、普通の人は入れないようになってるの。朧月島の南は煌桜家の人間が生活する場所で、どこの国にも属さない土地ってことになってるから。そこから洸に抜けることも出来るんだけど、そんな場所だからほとんど人には知られてないの」
「そうだったのか。ってことは、その朧月島の南は煌桜家の国ってことか?」
 桃華は再び「う〜ん」と声をあげる。しばらくたって、柄から手を下ろした桃華が言う。
「ちょっと違うかも。たしかに煌桜家が生活する場所なんだけど、王様とかいないし、煌桜家って恵家に仕えている家だったから」
「うん。その話は聞いたことがある。誰もがそう思ってるよな? でも桃華は嘉国に仕えている。いったいどういうことだ……?」
 桃華は窓の淵に腰かけた。普通ならそんなところに腰かけるのは危険なのだろう。だが、桃華なら大丈夫だろう。夜風が桃華の茶色い髪を揺らす。柔らかそうな前髪がふわりと舞い、窓に腰か掛けている桃華が、椅子に腰かけている子供のように脚を揺らす。あの、煌桜家の一人が目の前の子供っぽ少女だという事実に紅貴は今更ながら驚いていた。だが、無邪気に見えるのは仕草だけだった。顔を見れば、先程まで浮かんでいた笑顔が消えていた。
「私はね、煌桜家の最後の生き残りなの。もしかしたら姉の蘭華は生きているかもしれないけど一応は、ね」
「それって……」
 桃華は窓の淵から降り、座っていた淵に右手を置く。月を見つめ、左手を再び刀の柄の上に置いた。
「子供の頃に色々あって、私を置いて煌桜家は滅んじゃったの」
 桃華にしては珍しく低い声だった。夜の闇に同化してしまいそうな声。だが、その、桃華にしては低い声は、二人しかいないこの部屋によく響いた。桃華が語った事実に驚きながらも、紅貴は静かに桃華の言葉に耳を傾ける。
「身寄りがない私を助けてくれたのが嘉の王家だったの。嘉燎家が助けてくれなかったら、今頃私は生きていなかった……嘉燎家にとても感謝してるの。だからね、わたしは嘉燎家のためにできることならなんでもやりたいの」
「前に桃華が言ってた一番役に立てるのが剣だったって言うのはそういうことだったのか……」
「うん。私は、他の女の子のように料理が出来るわけでもお裁縫が得意なわけでもない。でも……剣なら得意だから。小さい頃は剣の稽古も歴史の勉強も大嫌いだった。けど、今は剣が使えて良かったって思ってる。それで嘉燎家の役にたてるんだもん」
 口調こそ、歳より幼く感じられるが、その声色は凛とした響きを持っていた。
「本当は恵家に仕えることが、私がやるべきことだって分かってる。でも、それでも私は、私を助けてくれた嘉国に仕えるって決めたの。例え、恵の裏切り者だと言われてもね」
「……桃華、もしかして恵の人が、煌桜家が助けてくれないって言ってること気にしてるの?」
 桃華は何度か目を瞬かせた後で、首を横に振った。
「もしも私が、恵家に仕えていたとしても……いくら私が煌桜家って言っても、わたしにできることなんて限られてる。たった一人の煌桜家にできることなんてたかがしれてるもん。けど、できることはやるつもり。自分が守ると決めた龍孫様に恵を助けるように言われたし、元々嘉は恵国を守るために出来た国だから。それに、煌桜家が滅んだって言ったでしょう? あんな想い、嘉の人だろうと恵の人だろうとさせたくないもん」
 最後のは私のわがままなんだけどね、と言って桃華は笑う。
「話してくれてありがとうな。……あまり話したくなかったことなんだろう?」
 自分の一族が滅んだ話など、人に聞かせたいはずがない。そう思って言ったが、桃華は不思議そうに首をかしげてた。
「桃華……?」
「話したくないと言うよりは、この話が広まると恵国にとってまずいの。煌桜家は今でも恵家に仕えていて、いざという時には恵を守るってことになってる。けど、その煌桜家が本当は滅んでるなんて話が広まったら、恵の人々が不安になっちゃうし、煌桜家がいないのをいいことに恵を潰そうとする国がないとは言い切れない」
「……洸国」
 桃華は今度は困ったように笑い、唇の前に人差し指を立てた。
「紅貴なら大丈夫だと思うけど、内緒ね?」
「うん。あ、桃華、この話って、みんなは知ってるのか?」
「瑠璃は知らない。話したくないからってわけじゃないんだけど、話す機会がなかったから。聞かれたら話つもりだったんだけどね。白琳は、私が煌桜家の者だってことも、煌桜家が滅んだことも知ってる。翡翠は……」
 桃華は顔を俯かせた。表情は見えないが、きっと笑ってはいない。しばらく間があって桃華は顔を上げた。やはり、笑みは消えている。
「翡翠には私が煌桜家の人間だってことは話してない。でも、たぶん翡翠は気づいる。煌桜家が滅んでいることは……多分知らない」
 つっかえている物を無理やり吐き出すかのような口調だった。先程までとは一変、外から吹く静かな風に攫われてしまいそうな声に、紅貴は自然と自分の衣の袖を握った。桃華は煌桜家だ。だからこそ思うこともあるかもしれない。
「ごめん。大丈夫だよ紅貴。翡翠に色々思うことはあるけど、翡翠に会ったらちゃんと伝えるから。ありがとう」
 こちらの心配に気づいたようだ。紅貴を安心させようとしたのだろう。明るく発せられた声に、安心するどころか、返って胸が苦しくなった。きっと桃華が話してくれたのは、桃華の想いの一部だ。
 どんな事情でそうなったのかは分からないが、幼い頃に自分の一族を滅び、唯一生き残った桃華は助けてくれた嘉の王家のために、人になんと言われようと、できることをすると決めたという。嘉に仕えたかと思えば、本来仕えるはずだった恵家が治める国が妖獣に襲われた。それを桃華はどんな想いで見ていたのだろう。それは紅貴が想像できうる範囲を越えていた。桃華の心の内にあるのは怒りか。それとも悲しさか。きっと辛いのだろうということは想像できるが、紅貴が知っている感情とは違う想いを抱えているのかもしれない。
 だが、桃華のためにできることをしたいと思った。
「じゃ、紅貴、わたしそろそろ寝るね。おやすみ」
 そう言い、桃華は無邪気に見える笑顔を見せて背を向ける。戸が閉まる音を聞き、紅貴は寝台にごろりと横になった。
(俺にできること探さなきゃな……)
 桃華も瑠璃も白琳も色々な想いを抱えながら、やれることをやろうとしているのだ。自分だけが何もできないで良いわけがない。紅貴族は身体を起こし、立ち上がる。
「梓穏」
 ポンっと音を立てて梓穏は現れた。膝をつき、くねくねと身体を動かす管狐に視線を合わせる。
「翡翠を見つけて欲しい」
 一度は失敗したことを再び頼むと、梓穏はキーキーと鳴いて、紅貴の指を噛んだ。
「っ……梓穏お願いだ!翡翠を見つけてくれ!」
 そう言いきった後だった。梓穏は急に鳴くのを辞めた。巻きついていた腕から離れ、紅貴の肩に乗った。
「翡翠を探してくれ!……お前の力、翡翠に惑わさせたりしない!」
 想いを言葉に乗せ、紅貴は言った。
 嘉国で、香蘭と言う女性に、「翡翠は弱い妖獣の力を惑わすことができる」と確かに言われた。だが、妖獣使いが、その力を発揮すれば、その力に応じて妖獣を従わせることができるとも言っていた。かつて、紅貴は妖獣使いの力は意思の強さが影響すると聞いた。――妖獣使いが持つ力により、妖獣が本来持っている力以上のものを出すことがあるとも。
 自分ができることをする。それに迷いはない。
「梓穏」
 名前を呼びながら、もう一度想いを乗せる。次の瞬間、梓穏の気配が消えた。返事はなかったが、自分の想いが伝わったのだと、確信していた。
 自分が出来ることとして、翡翠を探しだすという紅貴の意思が勝つか。それとも弱い妖獣の力を惑わすというう翡翠が勝つか。こればかりは負けたくないと紅貴は思った。

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