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  第六章 噂 8  

 

 駿は双龍国の南東、小国群から恵に入り、恵の西側に行こうとしていた。駿が恵にやってきたのは、恵の実情を詳しく知るためと、もしも駿の考えが的中していたのなら、やることが出来たからだ。榛仙道を通ることもあったが、恵の交通の要である榛仙道を降りることもあった。辺りを見回しながら歩き、駿は、恵の張り詰めた空気を肌で感じていた。

 やはりというべきか、恵の人々は常に不安を感じている様子だ。最近までいた無法地帯「修」もまた荒れた地であったが、その地とはことなり、静かな不安が恵に渦巻いているように感じられる。駿自身には、この国で妖獣が発生しても、その場所を正確に把握する力はないから、妖獣に襲われた人々を助けるにしても行きあたりばったりになってしまう。情報を集め、これまでに妖獣に襲われた地から、これから襲われそうな場所を推測しようともしたが、妖獣の発生に法性は見当たらなかった。かけ離れた数か所で連続して発生することもあるのだ。ただ、だからこそ分かったこともある。
 この妖獣の発生には「あの男」が絡んでいる可能性が高い。こんなことを出来る男は、「あの男」以外、駿は知らない。だとしたら、これは恵だけの問題では済まないかもしれない。だが、これが「あの男」の仕業だとして、なんのためにこんなことをするのか。その目的が分からない。
――誰かが、その目的を暴かなくてはならないだろう。
 能力が高い人間ならば、嘉にはたくさんいる。元二将軍の覇玄に、駿の師であった遥玄。その他麒軍、鳳軍に所属する武官らに禁軍の兵。だが、能力が高いからといって必ずしも「あの男」の目的を暴くのに適しているかと言うえば、それは違うと駿は思っていた。
(俺は汐家の人間だしね……)
 そんなことをぼんやりと考え、駿は目の前にある河を見た。駿が今いるのは、豊山と呼ばれる山の近くだ。そのすぐ近くにある河を眺め、河の向こう岸を見た。豊河と呼ばれるゆったりとした流れの大きな河を、船が繰り返し横断している。その船に乗る物たたちはみな、大きな荷を抱えている。おそらく、妖獣が発生しなくなるまで、榛柳に移り住む気なのだろう。この河の向こう岸、萌州(ほうしゅう)の中央には、恵の都、榛柳があるのだ。
(皇を信じてるんだな……)
 恵の都榛柳にいれば皇の守りが及ぶ。たしかにその通りなのだが、例えそうであっても皇を信じていなければわざわざ榛柳に移り住んだりしないだろう。
 恵の人間は、皇族を超越した力を持つ、特別な存在として見ている節がある。それは、恵が双龍国の中で最も古い国であり、その双龍国で一番古い国を作ったのが、他でもない恵の皇族、恵家だからだろうと、駿は思っていた。
 小国群の貧しい国で生まれた駿にとっては、それは感じたことがない感情だった。嘉の皇族は尊敬しているが、それは皇族だからというよりは、人として尊敬できるからだ。だが、もしも恵に生まれていたら、自分も恵に生まれていたら、皇族を無条件で尊敬していただろうとも思う。生まれた恵が、双龍国でもっとも古い国であり、その血を少なからず引いている。その恵を作ったのが皇族だと聞かされて、皇族を尊敬する、という気持ちは理解できる。けれど、だからこそ疑感じる違和感が駿にはあった。なぜ、灑碧だけがこんなにも怖れられているのか。恵の人間は皇族を、超越した力を持つ特別な存在だと思っているから、それが怖れに代わってもおかしくはないのかもしれない。だが、なぜ灑碧だけなのか。駿には、これが意図的に仕組まれたものとしか思えなかった。
 恵の人間の灑碧への怖れと、妖獣が恵を襲っているという現実。駿には「あの男」の仕業だと思えてならない。「あの男」は確かに死んだはずだが、こんな状況に恵を落としいれることができる可能性が最も高いのはやはりあの男だと思うのだ。
(……翡翠、それから紅貴君はどう思っているんだろうなぁ)
 あの男が生きているという可能性に気づいているだろうか。それとも――。少なくとも翡翠が気づかないはずがない。おそらく紅貴も気づいているだろう。だが、それを受け入れられるかといえばそれは別の問題だ
(まぁ、まだ15歳の紅貴君が逃げたくなるのはしかたないんだけどね)
 だが、翡翠まで逃げようとしているのはどうだろう。翡翠にが過去に体験したことを思えば、逃げたくなる気持ちも分からなくはないが、それが許される立場ではないはずだ。駿はそんな翡翠に用があった。翡翠はやるべきことをやらなければならない。
――いや、違うな
 翡翠にやるべきことをやって欲しいと思うのは単なる自分の願いだ。どちらにしても、今、翡翠に会う必要がある。だが、肝心の翡翠がどこにいるかがわからなかった。そんなことを考え、ため息をついた時だった。感じたことのない気配が通り過ぎるのを感じ、駿は後ろを振り返った。気配を探る。やがて、空気が動くのが分かった。何かがおかしいと感じる感覚。明確になにがおかしいかは指摘できないが、やはり、普段感じることのない気配が側にいる。
(妖獣……?でも、それにしては……もしかして紅貴君の妖獣……?)
 目を細め、気配の正体を目で見ようとする。やがて、何もうつっていなかった大気に、薄く蛇のような、また顔の方は狐のような、妖獣というには愛らしい生き物の姿がおぼろげに映った。
「妖獣……管狐で良いのかな? 紅貴君の妖獣、そこにいるんだろう?」
 うっすらと見えた妖獣に語りかけると、辺りに紙風船が破裂したような音が響いた。次の瞬間、おぼろげだった管狐の姿がはっきりと見えるようになった。管狐は、びくりと、その身を震わせ、駿から距離を取ろうとする。
「待って! 俺は何もしないよ」
 駿はそう言い、管狐に近付いていく。こちらが何もしないとわかったからか。逆立っていた毛がしゅんと垂れた。
「差し支えがなければ、名前を教えてもらえるかな?」
 頭に、『梓穏』という言葉が流れてくる。
「梓穏は何をしているんだい?」
 さきほど同様、目の前の妖獣と口で会話するというよりは、頭に直接語りかけられ、今度は言葉ではなく、音声が流れ込んで来た。
 『梓穏お願いだ!翡翠を見つけてくれ!』
 紅貴の強い口調が駿の頭に流れ込んでくる。直接お願いされたわけではない駿でも、思わず手を握りしめたくなるような、必死な声だった。
「翡翠を探しているの?」
 そうだ、というように、梓穏は宙に円を描いて一回りした。
「……翡翠の居場所分かる?」
 一瞬の間があり、今度は小さく円を描いた。自信はないが、ある程度なら分かると言ったところか。
「俺を、翡翠の所まで案内してもらって良いかな?」
 くるんと円を描いていた身体が、まっすぐになり、顔を、榛柳の方角へ向け、ついてこいと言う様に、尾を振った。駿は、すぐ横にいた天馬に乗り、梓穏について行った。やがて、豊河を渡ってしばらくしたところで、梓穏がぴたりと動きを止めた。
「ここに翡翠がいるの?」
 声はない。だが、違う、というような言葉が、駿に伝わる。
「もしかして、梓穏はこれ以上、翡翠に近づけないの?」
 梓穏がこくりと頷いた。駿は、天馬から降り、軽く腕を組んだ。妖獣の梓穏がこれ以上近づけない。それはつまり、翡翠が、近づいてくる妖獣の気配に気づいており、それを拒絶しているということだ。でありながら、ある程度の距離まで近づけたのは、この妖獣が持つ力かそれとも。
 駿の脳裏に、先程の紅貴の強い声が浮かんだ。おそらく、妖獣の力だけではない。
「君の主はすごいね」
 梓穏が、納得できないというように、身をくねらせた。どこぞの最高位の武官同様素直じゃない、と思い、駿は小さく笑う。駿は笑みを浮かべたままで梓穏言葉を続ける。
「ここまで案内してくれてありがとう。君の主の紅貴君のところに戻ったら、よろしくね」
 そう言い、駿は梓穏に背を向けた。翡翠が、梓穏を拒絶している。そればかりは、駿はどうにもできない。だが、紅貴を主に持つこの妖獣なら、いずれ紅貴の命を達成するだろうと、駿は思った。おそらく、今いるこの場所も、翡翠がいる位置からそう離れていない。


「あれ?」
 宿屋の一室で、紅貴は声を上げた。
 紅貴らは榛仙道を西に進み、榛柳に向かっていた。少し前に、都の榛柳がある萌州に入り、榛柳は目前だった。
「紅貴、どうしたの?」
 紅貴が借りていた部屋の戸が開き、瑠璃が戸の前で声をかけてきた。
「この部屋、寝台がないんだよ」
 紅貴は指を差して言う。借りた宿の一室には、板間の箇所と、畳が敷き詰められた箇所があり、そのどちらにも寝台がない。これまで泊まってきた宿には、必ず寝台が置かれていたから不思議に思ったのだ。
 もしかしたら、下級の宿屋では寝台というものがないのかもしれない。――洸の貧しい家がそうであるように。だが、紅貴が泊まった宿屋は、外観からも、実際に泊まっている住人からも、そんな様子は窺えない。
「あぁそれね、私も驚いたんだけど、白琳が教えてくれた」
「どういうことだ?」
「恵では、寝台じゃなくて、敷き布団を置いて、その上に寝るのが普通みたいなの」
「でも、今まで泊まった宿屋には寝台があったよな」
「うん。それは恵の外から来た人に合わせていたからなんだって。今は妖獣のことがあるからそうでもないけど、恵には人がたくさん来るから。だけど、西に行けばいくほど、そういう宿屋は少なくなっていくみたいなの」
「ということは、ここは恵方式の宿屋ってことか……!」
「そういうこと。さて、白琳と桃華が下で紅貴を待っているから行こう」
「うん」
 瑠璃とともに紅貴は階下に降りていく。宿屋の一角に、食事をする場所があり、荷物を置いたらそこで集まることになっていたのだ。だが、白琳と桃華が座っている席に着こうとしたところで、紅貴と瑠璃は足を止めた。
「桃華ちゃん? それに、白琳……?」
 桃華と白琳を呼ぶ声があった。紅貴と瑠璃は声をした方を見た。そこには見慣れない女性がいた。綺麗な女性だと紅貴は思った。茶色の髪は、低い位置でお団子にされている。髪と同じ色の茶色の瞳は濁りなく透き通っており、同時にどこか強い印象を感じさせた。身に付けている着物も、形こそ女物であるが、黒に近い深い緑色をした、質素な衣に黒い帯を巻いている。だが、その質素な着物でありながらやはり綺麗な女性だと思わせる魅力がある。白琳が、柔らかさを伴った美しさを持っているとするならば、桃華と白琳を呼びとめた女からは強さを伴った美しさが感じられる、と紅貴は思った。
「宵汐様?」
 白琳が女の名前を呼んだ。すると、周囲の人々の視線が、白琳に集まる。白琳はしまった、というように慌てた様子で口に手を当てた。桃華が椅子から立ち上がり、宵汐と呼ばれた女の手首を引いた。
「とりあえず、私たちの部屋へ」
 桃華に続き、白琳も立ちあがった。宵汐を引っ張る桃華と、早足で歩く白琳が紅貴と瑠璃の横を抜けていく。紅貴も瑠璃と顔を合わせ、桃華と白琳に着いて行った。
 瑠璃、白琳、桃華が借りている宿屋の一室に辿りつき、紅貴は少々気まづく思いながらも、部屋に入っていく。女3人が寝泊まりするための部屋は紅貴が借りた部屋より少しだけ広い。
「上がってください」
(桃華が敬語を使っている……?)
 嘉国の皇子にも敬語を使っていなかった桃華が、敬語を使っていると言うことは、位が高い人物なのだろうか。
「ありがとう」
 白琳に案内され、宵汐は卓の前に座した。第一印象は、強い女性が感じられる、と思ったが、こうして宵汐を見ていると、一つ一つの所作が丁寧であるように思えた。宵汐の前に、白琳と桃華が座り、紅貴も空いている場所に座った。瑠璃が、湯のみを出し、宵汐にお茶を淹れる。
「宵汐って白琳と桃華の知りあいなのか?」
  瑠璃が淹れるお茶の音を聞きながら、紅貴が尋ねると、白琳が静かに口を開いた。
「はい。私は、幼少期に碧嶺閣にいたことがありますから、存じ上げております。この方は、恵の皇女であり……灑碧様のお姉さまでいらっしゃいます」
「といっても、母親は違うから、半分しか血が繋がっていないんだけどね。でも、灑碧は私の弟よ」
 恵の皇女が今、自分のすぐ側にいる。その現実をうまく飲みこめないうちに、宵汐が言った。瑠璃も紅貴と同じ気持ちなのか、目を大きく瞬かせている。
「悪いわね、空気を悪くしちゃったわね」
 宵汐が世間話をするような、くだけた口調で言った。
「難しいかもしれないけど、私が皇女だというのは、今は気にしないで。とりあえず、名前を教えて貰って良いかしら。 私の名前は白琳が言った通り、恵 宵汐よ」
「えっと、瑠璃、芳 瑠璃と言います」
「俺……私は紅貴です」
「そう。瑠璃ちゃんに……紅貴君ね。よろしくね」
 宵汐の瞳が優しげに細まった。こうして笑みを浮かべると、優しい員寝ように感じられる。
「皇女の宵汐様がどうしてここに……?」
 もしかしたら、聞いたらまずいのかもしれないと思いながらも紅貴は尋ねた。第一印象は美しくも強い印象に感じられた宵汐だが、同時に優しい人物であるとも思ったのだ。それに、皇女である宵汐が都を出ているのは、妖獣の件が関連しているかもしれないとも思ったのだ。ならば、紅貴にとっても無関係ではない。
「そうね……二将軍の桃華ちゃんもいるのだし、話すべきね。私は、嘉に助けを求めるために碧嶺閣を出たの。……嘉の二将軍に会うためにね」
「でもなんでわざわざ皇女様が……? 」
 だれか他の人に頼めば良かったのではないか。皇女が外を歩き回るのか危険ではないのか。瑠璃はそう思ったのだろう。だが、宵汐は静かに首を振った。
「初対面の瑠璃ちゃんに言うことではないし、恵国として恥ずかしいことなんだけど……今、碧嶺閣内は皇位継承争いが起こっているから、誰が信頼できるかは分からないの。だから私が行くしかなかったのよ。だから……鳳華様」
 宵汐が桃華の方に顔を向ける。まっすぐに、桃華を射抜くように見つめ、堅い声色で桃華の字を呼んだ。
「恵を救うために力を貸してくれないでしょうか……。今、恵は妖獣に襲われています。私の力だけでは足りず……! お願いします、恵を救うのに力を貸してください……!」
 宵汐が崩れ落ちるように頭を下げた。宵汐の瞳からは、涙が零れているわけではない。だが、我慢していた涙が一気に溢れだした様ににていると紅貴は思った。恵を助けて欲しいと頼まれたのは桃華だ。だが、紅貴もまた、宵汐のために力を貸したいと思った。宵汐の気持ちが痛いほどに分かるのだ。
 紅貴は嘉の煌李宮で、洸を救ってほしいと願った。それと同じだ。
「顔を上げてくれますか?宵汐様」
 宵汐がおそるおそると言った様子で顔を上げた。
「今、私たちは、碧嶺閣に向かっています。それは、恵を救うためです。私たちが、出来る限りの力を貸します。貸したいんです。それは、煌桜家の私の役目でもありますから」
 桃華が煌桜家の人間だと言うことを初めて知ったのだろう。瑠璃が目を大きく見開き桃華を見つめている。だが、何も言わない。瑠璃も白琳も桃華も、そして紅貴自身も、宵汐の言葉を待っている。
「ありがとう……」
 微かに震えている声で宵汐が言った。顔を上げている宵汐は泣くのを耐えているような表情だった。宵汐の力になりたい。そう、心から紅貴は思うのだった。


 人々が寝静まった晩、宵汐は外を歩いていた。この宿場町の北側には枇惑ノ森と呼ばれる森が広がっている。とても綺麗な森であるが、慣れた者でなければ迷いやすいことからその名がつけられている。この町は、森よりも少し高い位置に作られている。町の北側に行けば枇惑ノ森に一望することが出来、南西からは榛柳を見ることが出来る。宵汐は町の南西までやってきて、恵の都榛柳を眺めた。
(……桃華ちゃん変ったわね)
 今から3年前、桃華が碧嶺閣にやってきた。桃華と会うのはそれ以来のことだった。3年前桃華は、恵の皇に、嘉の武官になると伝えにきた。煌桜家の役目は恵家に仕えることであるけれど、嘉の武官になりたいのだと言っていた。宵汐も、そして恵の皇である宵汐の父親も、桃華の声に圧倒された。あれからもう3年だ。あの頃と、見た目は大きく変わっていないが、表情の方は心なしか大人びたように感じられた。
「眠れないんですか?」
 榛柳を眺めながら、過去を回想していると、白琳に声をかけられた。
「少しね」
「明日も歩きますから、夜更かしは良くないですよ」
 穏やかな口調でそう、言われた。白琳に最後に会ったのは10年以上前だ。白琳が碧嶺閣にいた頃、宵汐自身も子供だった。だが、その子供だった宵汐でも「可愛い」と思う程に、宵汐は顔立ちが整った子供だった。子供のころ以来、白琳の姿は見ていないが、綺麗に成長するだろうと思っていた。実際に目の前に現れた白琳は宵汐が想像したものよりも、ずっと美しい姿だった。真珠のような肌に、柔らかそうな桜色の唇。射干玉の髪は艶やかに輝き、さらりと揺れる。10年以上経っても目の前にいるのが白琳だと気づいたのは、幼い頃から白琳その本質は変わってないからかもしれないと思った。
「白琳は嘉でお医者様になったのかしら」
「はい。……ずっと、灑碧様の力になりたいと思っていましたから」
 やはりそうだ。本質は変わっていない。幼い頃、白琳は灑碧の力になるために、お医者様になるのだと言っていた。灑碧が寝込む度に、泣きそうな顔をし、灑碧の力になれれば良いのに、と言っていた。
 ある日、灑碧が命を落としかけたことがあった。あの時は医者の力ではどうしようもなかった。灑碧が命を落としかけた原因はただの怪我や病気ではなかったのだ。灑碧を救うことができるのは本来、皇位継承者のみにつかえる「癒しの力」だけであり、もちろん、恵の皇である宵汐の父は、灑碧を救うために癒しの力を使った。だが、救うことができなかった。力が足りなかったのだ。宵汐にとっては、大切な弟だ。だけど、恵の人間にとって、灑碧は、恵の皇位継承者だ。灑碧を失うわけにはいかなかったのだ。そんな灑碧を救ったのが、白琳だった。
「今でも、『癒しの力』を得たことに後悔はしてないの?」
「はい」
 白琳がにこりと笑った。やはり、白琳には敵わない、と宵汐は思った。白琳が生まれた壮家には、確かに「癒しの力」を得る素質がある。だが、誰でも得られるわけではないし、得るためには代償を払わなくてはならない。「癒しの力」は本来、皇位継承者にしか使えない力だ。それを得るということは、民がいないにしても、皇になってしまうような感覚に近い。「癒しの力」を得るということは、恵の民でなくなってしまうことを意味する。
 そうして起こること――実際に起こったことは、恵の人間から「白琳」の存在、記憶が恵の人間から忘れ去られるということだった。それまで接してきた誰もに白琳は忘れ去られた。宵汐が恵の人間でありながら白琳を覚えているのは一種の奇跡だ。例え白琳が癒しの力を得て、恵の民でなくなっても、忘れたくない。そう、強く願い、なんとか忘れずにすんだのだ。そうした奇跡を起こした人間が碧嶺閣には何人かいる。だが、恵で白琳を覚えているのはその数人だけで、他の恵の人間からは忘れ去られてしまった。
 あの、灑碧ですら白琳の存在を忘れたのだ。――白琳が恵の民でなくなるのと引き換えに、癒しの力を得るということを灑碧にも伝えていれば、忘れずに済んだかもしれない。だが、白琳がそれを断った。例え、そうすることで忘れなくても、灑碧がそれで苦しんでしまいかもしれないと。それに、白琳が癒しの力を得ようとしていると知れば、灑碧はどんな無理をしてでも止めようとするかもしれないからと。そんなことをすればそれこそ灑碧が死んでしまう。それだけは嫌だと、白琳は言っていた。
「あの、大きな代償と引き換えに人を救おうとするなんてやっぱりすごいわ。こうして灑碧がいなくなった今でも後悔がないって言えるなんて……白琳は本当に強いのね」
 白琳が静かに首を横に振った。月明かりに、顔が明るく照らし出されている。目が軽く伏せられ、長い睫毛が影を作った。
「あの時の私は、人から忘れ去られるということがどういうことか分からない、ただの子供だったんです。ですが、あの時すでに私の両親は他界していましたし、私と縁がある方は少なかったのですから……ああすることが正しかったと、今でも思います」
 一度言葉を切り、白琳が顔を上げた。
「この力で失ったものより、得たものの方が多いんですよ。この力で、力になれることがたくさんあります。この力を得て良かったと思っています。それに……」
「白琳……?」
 白琳の声が僅かに、堅いものになった。辺りの空気が微かに張り詰めたものに変わる。一瞬、呼吸を忘れそうになり、宵汐は慌てて息をのんだ。
「灑碧様ならもしかしたら生きているかもしれませんよ?」
 どくんと、宵汐の心臓の鼓動が速まる。今、白琳は何と言った。
 旅の途中、宵汐は「灑碧」が生きているという噂を聞いた。
「もしかして、灑碧が生きているという噂は白琳が流したの?」
「桃華を中心に、紅貴と瑠璃、そして私が流しました。噂を流してから気づいたのですが、恵の方にはまだ、灑碧様を信じている方がいるようですね。恨まれているばかりではないようで、少し安心しました」
 そう言い、白琳は困ったような表情で静かに笑った。
 
 

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