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  第六章 噂 9  

 

「梓穏」
 榛仙道の道を行きながら、紅貴は翡翠を探す様に頼んだ妖獣の名前を脳裏で呼んだ。
 恵の都、榛柳に近づけば近づくほどに人に、紅貴と同じ方向へ向かおうとする者たちの人の波が大きくなっていく。人々は荷を馬に乗せ、身を寄せ合いながら歩いている。妖獣への怖れがありありと伝わってくる。馬を引きながらも、最低限の荷しか持っていない紅貴らは、周囲の人々からどこから来たのかと尋ねられることが多かった。紅貴自身は正確には洸から来たのだが、まさか洸から来たと言うわけにもいかず、嘉から来たと言うと、嘉では妖獣は発生していないのだろう、と言われた。なぜ、恵だけが――そんな言葉が人々から次々に発せられた。
 そんな言葉を聞く度に、どうにかしなければ、という想いが強くなっていく。それは、瑠璃、白琳、桃華、宵汐も同じのようで、恵の人々の話を聞く度に、表情を硬くしていた。とくに宵汐はこの国の皇女であるためだろう。どこか苦しそうな表情をしているように感じられた。
(翡翠もこの光景を見ているんだよな……)
 この光景を見て、翡翠は何を思っているのだろう。翡翠らしき人物に助けられたという話を聞いたことがあったから、翡翠も紅貴たち同様に、恵を救おうとは思っているのだろう。やろうとしていることは紅貴たちと同じなのだ。なのに翡翠はいなくなってしまった。なぜ、翡翠がいなくなってしまったのか。紅貴は何度もそれを考えたが、どうしていなくなってしまったのか分からなかった。白琳は翡翠が「周りに迷惑をかけたくないと思っているからかもしれない」と言っていたが、それならいなくなる前に、事情を話してくれても良いのではないかと思う。
 桃華は、「翡翠は逃げている」と言っていたが、何から逃げているのか紅貴にはわからなかった。おそらく瑠璃と紅貴は考えていることが似ている。瑠璃は、どんな事情があるにせよ、何も言わずにいなくなったのが許せないと言っていたが、紅貴も同じ気持ちだった。例えば、もしも翡翠が急にいなくなったのが、恵での妖獣の問題を解決するためだったとしても、何も言わずにいなくなって良いはずがない。
「梓穏」
 脳裏で、もう一度妖獣の名前を呼んだ。すると、紅貴の脳裏に、紅貴とは別の意志が舞い込んでくる。柔らかな光が舞い込んできたという印象だ。紅貴の声に答えるように光が震えた。梓穏と繋がったのだ。
「翡翠見つかったか?」
 声には出さずに梓穏に問う。光がわずかにしぼむ。
(見つかってない……か。いや、違うな)
 梓穏は言葉を操れる妖獣ではないが、梓穏の意志が、紅貴の脳裏に流れ込んでくる。
(翡翠に阻まれてる……?そのせいで正確な場所が分からない……?)
「梓穏ごめん。もう少し頑張ってもらえるかな? 翡翠を見つけたいんだ……!」
 淡い光が脈をうつように、ドクリと震えた。光が少しばかり強くなったのを感じ、紅貴は静かに頷く。やがて、紅貴の脳裏から梓穏の気配が消えた。梓穏が再び翡翠を探そうとし、紅貴の内側から去ったのを感じ、紅貴はため息をついた。
 梓穏が翡翠に近づけないのは、自分の力が足りないせいではないかと紅貴は思っていた。もっと力があれば……!
「何か悩み事、紅貴君」
剣を握り、奥歯を噛んでいると、宵汐に声をかけられた。紅貴の横を歩いていた宵汐に声をかけられ、はっとして紅貴は宵汐を見る。
「あ……はい。急にいなくなった俺達の仲間のことを考えていて」
「いなくなった仲間?」
 宵汐が不思議そうに首を傾けた。
「そういえば言っていなかったんでしたっけ。実は、俺たちにはもう一人仲間がいたんですけど、急にいなくなってしまって。強い奴だから無事だとは思うのですが……俺たち、榛柳に向かいながらそいつのことを探していたんです」
「そうだったの……そんな大変なときに悪いわね」
「いえ」
 紅貴は首を振る。二将軍に会おうとしていた恵の皇女である宵汐に出会えたことは、運が良かった。
「探している仲間ってどんな方なの?」
「名前は翡翠って言います。桃華と同じ二将軍で」
「嘉の二将軍麒翠様……?」
「はい」
 紅貴が言うと、宵汐は驚いた様子で、口に手を当てた。それもそうか、と紅貴は思う。忘れがちだが、二将軍と共に旅をしているという事実だけでも本来は驚くべきことなのに、その二将軍の一人が急にいなくなってしまった。
(にしても最近驚くことばかりだな)
 紅貴の願いとは言え、実際に二将軍と共に旅をすることになったこと。実際会った二将軍は、紅貴の想像とは全然違ったこと。旅の途中で、二将軍の一人がいなくなってしまったこと。と、思えば、恵の皇女に出会った。
(すごい偶然だな……)
「二将軍だったら、恵にいても目だちそうなものだけど……麒翠様ってどんな方?」
 探すのを手伝う、というように、宵汐が言った。
「髪は茶色で……」
 瞳は緑色、と言おうとして、紅貴は首を振った。旅の途中、翡翠らしき人物を見た女が、翡翠は今は黒い髪に黒い瞳だと言っていた。紅貴の横で話を聞いていた白琳がそれは髪を染め、瞳の色を変えた翡翠で間違いないと言っていたのだ。
「いえ、黒い髪に、黒い瞳のはずです。黒い天馬が一緒にいます」
「黒い髪に黒い瞳に黒い天馬?」
 宵汐が口に当てていた手を滑らせ、顎の下に置いた。左手で、右肘を支えるようにしている。
「私、その人……その方にあったことがあるわ。黒い髪に黒い瞳に黒い天馬の方に、助けられたわ。歳は私とそう変わらないくらいで……ねぇ、その方、白琳と仲良いのよね?」
「あ、はい。それをどうして……翡翠がそう言っていたんですか?」
「ううん……恥ずかしい話なんだけど、私、偽名として『白琳』を名乗っていたの。そしたらその麒翠様が、白琳のことがしっている風だった、から……」
 声が徐々に小さく鳴り、ついに宵汐の言葉が途切れた。顎に当てていた右手が落ち、目が大きく見開かれる。歩みこそ止まらないものの、紅貴の横を歩く宵汐の歩がゆっくりとしたものになる。明らかな様子の変化に、紅貴はぱちぱちと瞬きをしながら、宵汐の横顔を見つめる。その視線に気づいたのだろう。宵汐がはっとした様子で紅貴を見た。
「驚かせて悪いわね」
 宵汐が困った様子で笑みを浮かべた。だが、その表情はすぐに消え、宵汐は軽く目を伏せた。
「紅貴君……私も、その人にもう一度会いたいわ。だから、私にもその人探すの手伝わせてもらえるかしら。恵の皇女とはいっても今の私にできることは少ないけど……できるだけのことはするから」
 静かな声だった。なぜだろう。不思議と強い想いが籠っているように感じられる宵汐の声に、紅貴の心臓が大きな鼓動を刻む。
「ありがとうございます」
 紅貴は礼を言い、宵汐の横顔を見つめる。
「ううん。礼を言うのは私の方よ」
 言いながら、宵汐は右手を軽く閉じ、胸の前に当てた。ふいに、宵汐が儚げな印象に感じられた。そして、宵汐の唇が小さく動く。声は聞きとれなかったが、誰かの名前を呼んでいるようだった。そうして、宵汐をそっと見つめている時だった。紅貴の前を歩く瑠璃の足が止まった。
「白琳、あれ」
 瑠璃の、驚いた風な声に、瑠璃の横を歩いていた白琳も足が止まる。瑠璃が指を差し、その方角を見た紅貴も自然と目を大きく開く。
 紅貴達が今歩いている、左右を石で囲まれた榛仙道は橋のような形状をしている。広い大地に作られた橋のような榛仙道からは、周囲の街や森を見渡すことが出来るがその光景が一変したのだ。
 瑠璃の視線の先に大きな街があった。恵に来てからいくつもの街を見てきたが、そのどの街よりも大きい。周囲の大地から切り取られたようにその街は存在している。これまでもうっすらとその街は見えていたが、間近で見えたその街は遠くで見るのと近くで見るのとではずいぶんと印象が違った。中央の大きな通りは、白く、そこから十字に走る大通りよりも少し細い通りも白い。日の光を受けている屋根は一様に紺色をしており、統一感がある。大きな通りの先には、巨大な池のようなものが見え、その中央に大きな建物がある。いったい何階建てなのだろう。正確な高さは分からないが、その巨大な建物は何層にも別れ、いくつもの城が繋がっているように見える。だが、かといってその巨大な建物は不格好なわけではない。
 中央に一番大きな建物があり、左右対称に、似た形状の建物並ぶように配置されている。
「榛柳……」
これまでに見たことのない光景に呆然としていると、白琳が小さな声で言った。
「あの、大きな建物は碧嶺閣?」
 瑠璃が尋ねると、白琳が風に揺れる長い髪を抑えながら、頷いた。
「はい。ここからではあまりよく見えませんが、碧嶺閣には庭園もたくさんあって綺麗なんですよ」
「紅貴が一人で碧嶺閣に入ったら迷って出れなくなるかもね」
「大丈夫だよ!」
 そう、桃華に返しながらも、今まさに「一度は言ったら迷いそうだ」と思っているところだった。


 煌李宮の一角にある鳳軍将軍の執務室の椅子に、遥玄は腰かけていた。鳳軍の将軍の執務室。つまり、ここは桃華の執務室ということになるが、実際にはその部下の遥玄の私室のようになっていた。それは桃華が今、煌李宮を留守にしているからではない。桃華が煌李宮を出る前から、ここは実質遥玄の部屋のようになっていたのだ。
 桃華は事務仕事が苦手だった。やってできないことはないのだろうが、桃華がやるよりも、遥玄がやった方が早かったため、鳳軍の事務仕事は、ほとんど遥玄が処理していたのである。人には向き不向きがあると言うが、事務仕事は桃華には向かない種の仕事だったのである。そのため、この部屋は、実際に鳳軍の事務仕事を行っている遥玄の部屋になっていた。
 遥玄は机の上に置かれた書を手に取り、開く。かつての剣の弟子、駿からの文だ。何度も読んだ駿からの文を再び読み、遥玄はため息をついた。この手紙が届いた時、この紙には何もかかれていなかった。その時点で嫌な予感はしていたのだ。特殊な墨に浸し、しばらくすると、文字が浮かんだ。そこに書かれていたのは、駿ではなく、自分がやろうと思っていたことだった。駿が嘉国の武官として今やるべきことは、弄国で何が起こっているのか調べることだ。
 だが、恵が妖獣に襲われたという報が入り、駿の中でやるべき優先順位が変わってしまったことが容易に想像できる。たしかに、駿が今やろうとしていることは誰かがやらなければならないことなのだ。けれど、それは駿ではなく、自分がやろうと思っていたことだった。
(……とはいえ、現実問題として、駿が適役であることは確かだ)
 だが、駿はまだ若い。そう思いながらも、駿を止めようと思えば無理やりにでも止められるにも関わらず、結局何もしていない自分に、遥玄は腹立っていた。さらに言えば、駿が、今やろうとしていることをやった際に、起こりうる最悪の事態を回避する方法をもすでに考えてしまっている。
 どこまでも自分は武官なのだ。
 はぁ、と、重いため息をついていると、執務室の戸が開いた。後ろを振り向かずとも、誰だかわかる。部屋にやってきたのは兄の覇玄だ。
「この前煌李宮に来たばかりなのにまた来たんだね」
「王に話があったんじゃ」
 覇玄の方を振り向かないまま言うと、そう言葉が聞こえた。
「王に話……麒翠様のこと?」
 今度は覇玄の顔を見て言うと、ため息交じりの声でまぁな、という声が返ってきた。
「お前も気づいておるじゃろうが、恵に妖獣が現れたのは『あの男』が生きていたから、という可能性がある」
「……そうだね」
 遥玄は机の上に置かれている駿の文に視線を落とし、静かに答えた。
「そうなれば、翡翠が今のままで良いってわけにはいかなくなるじゃろう。今までもそうじゃったが、余計にな。あの男が生きているのなら、翡翠がやるべきことをやるのはこの世界を守る上での最低条件になるじゃろう。……翡翠が決意するまで待つなんて悠長なこと言っておれんと思ってな」
「いざとなったら真命を使うようにと……そう言ったの?」
 覇玄が静かに頷いた。各国の皇位継承者には力が宿る。癒しの力に、自国の風や水を操る力。様々な力があるが、真命もまたその力の一つだ。真命とは、いかなることでも従わせることができる命令のことだ。だが、その真命は誰に対しても使えるわけではない。双龍国のそれぞれの国において真命を使える官が決まっているのだ。嘉国ではそれが二将軍だった。
 二将軍は嘉国において最高位の武官である。だが、あまり知られていないが、最高位の武官であり、あらゆる文官がもっている決定権までもってる唯一の官あるのと同時に、王の真命の制約を受ける官なのだ。
「わしはそもそもあいつが武官になることには反対だったんじゃがのう」
「そうだったね」
 翡翠が武官になると決めた時、王も覇玄も、翡翠が武官になることに反対していた。できることなら武官ではなく、文官になって欲しいと言っていたのだ。だが、それでも翡翠は武官になることを譲らなかった。苦肉の策で、覇玄は翡翠が武官になった時には武官にしてほしいと頼んだ。少なくとも、剣の実力はその地位に相応しいものであるはずだからと。
「今でもあやつが武官に――二将軍になったことには納得できん」
「王に、二将軍を翡翠にするように頼んだのは兄さんなのにね」
「仕方ないじゃろう……!どんなに武官になるのをやめろといったところで聞かなかったんだからのう。わしどころか、王が言っても無駄じゃったんだ……あやつが武官になるというならこうするしかなかろう。嘉国の武官になったあいつにいずれやるべきことをやらせるには、あやつを二将軍にするしかないじゃろうが。幸い、あいつにはそれだけの剣の腕はあるしのう。不幸にも、というべきかもしれんが」
 そう言い、覇玄はため息をついた。ため息をつき、腕を組む覇玄を見て思ったのは、師弟関係に近い関係である覇玄と翡翠が実は似た者同士なのではないうことだった。
「素直じゃないね、兄さん」
「なんのことじゃ」
「麒翠様に死んでほしくないんだろう?」
「それはお前もじゃろう」
 ため息交じりの覇玄の言葉を聞きながら、遥玄は再び駿からの文に視線を落とす。
 弟子と言う存在は師に心配をかけるものだ。それは世の常なのかもしれないと、遥玄は思った。
 
 
 

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