史書

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  第七章 守りたかったもの 10  

 

 恵の皇宮碧嶺閣。今は榛柳の民を受け入れているその広間で、紅貴は、女官に混ざって治療を手伝っていた。医者ではないから白琳ほどの医学の知識はないが、それでも、故郷の洸では、幾人もの怪我人を手当てしてきた。恵に入ってからも、白琳の手伝いをしてき。自分の力は微弱かもしれない。だが、何かせずにはいれなかった。
 少し離れた位置で、重症な患者を看る白琳の後ろ姿を見ながら、紅貴は唇を噛んだ。
「痛いよぉ」
 肩に大きな怪我を負った少女が、悲鳴を上げた。紅貴は、布で少女の肩を止血し、にこりと笑顔を作る。
「大丈夫だよ。お兄ちゃんが助けるから」
「だって、灑碧が! 灑碧にやられたのよ!」
 悲鳴に、狂気のようなモノが混ざり、少女の声が掠れる。
「そうだ!灑碧だ!灑碧がやったんだ!俺の息子は灑碧が呼んだ妖獣に……!」
 少女の隣に座っている男が、怒気を孕んだ声で言う。灑碧への恨みの声が大きくなり、辺りに伝染していく。恵に入ってからというもの、何度も見てきた光景だ。だが、ここでは、その声が、一層大きく感じられる。
――灑碧がやったわけじゃないい
 そう、言いたかったのに、声に出来なかった。少女の手当てを終えた紅貴は、広間を抜けだし、一度外に出た。夜だと言うのに、空が明るく見えるのは、碧嶺閣の外では妖獣が吐き出した炎によって建物が燃えているからだろう。
 紅貴は人気がない場所を探し、軽く目を閉じ、名を呼ぶ。
「梓穏」
 名を呼ぶと、目の前にふわふわとしたキツネが現れた。
「翡翠の後をつけて、何かあったら呼んで。やれるよね」
 梓穏は宙でくるくると円を描いた後で姿を消した。

 翡翠は、皇位継承者であることから逃げないと言っていた。紅貴の故郷ではどんなに望んでも現れなかった、人々を守ってくれる皇位継承者。その存在に翡翠がなる決心をした。ならば、その力になりたい。
 洸の姿をずっと見てきたからこそ、そう思うのだ。
「梓穏、頼んだぞ」
 紅貴はそう言い、広間に戻っていった。



 この先には恵の皇である父親がいる。翡翠は、明汐と共に歩きながら、『史書』のことを考えた。妖龍と神龍が死んだ後、この世界には妖獣が跋扈していたとされている。人は妖獣にあらがう手段を持たず、妖獣と戦うことができたのは、妖拳士と、妖刀使い、妖術使い、そして妖獣使いだけだった。そんな世界で人が生きていけるよう、国を創ったのが、恵の初代皇だ。
 神龍の魂と、ある契約をし、恵を創ったのだという。その契約の際に用いたものが、翡翠が今向かっている場所にある『皇の間』だ。証を持った皇位継承者を有する国であれば、どの国にでも存在するその場所で、皇位継承者は皇になる。
 今、翡稜の父親は、その場所で祈りを捧げ続けている。その祈りによって、碧嶺閣には妖獣が入ることが出来ない。だが、それもいつまで持つか分からない。
 翡翠自身も証を持っている。剣を振るわないのは性に合わないが、恵の守りをより強くするのは、皇とその後継者にしかできない。
 長い通路を歩き続け、翡翠と明汐は白い石でできた扉の前に辿り着いた。天に昇る龍の文様。恵の皇の『証』と同じ物だ。
「この先が皇の間」
「……あぁ」
 恵で今、皇の間に入ることができるのは、翡稜と翡翠だけだ。その皇の間の先に、今の恵の皇がいる。皇位継承者であることから逃げ続けていた自分がどれだけ、今の皇に力を貸せるだろうか。――本当に力を貸すことができるのだろうか。
 そう、思いかけて、白琳の言葉を思い出す。「翡翠さまなら大丈夫です」澄んだ声でそう言われた。それはきっと期待を込めた言葉だ。ならば、それに答えなければならない。
「明汐様……」
 この先に、明汐は進むことができない。だが、途中何者かに倒された武官がいた。ならば、それをやった誰かがまだこの近くに潜んでいる可能性がある。気配は感じないが、そう考えるのが自然だ。
「……殿下」
 凛とした声で言われ、翡翠は自然と小さく息を呑んだ。
「あなたの役目は、私一人を守ることではなく、恵全体を守ることだと思いましたが? 一刻も早く陛下に力を貸しなさい」
 翡翠は一度軽く目を伏せた後で、もう一度顔を上げた。
「……どうかご無事で。明汐様はずっと恵を守ってこられました。恵になくてはならない方です」
 翡翠はそう言い、白い扉に手をかけた。重く重厚なはずの扉は翡翠が指の先をそっと当てるだけで開いた。翡翠は身体を滑らせるようにして、中に入る。すると、次の瞬間には、扉は閉まった。
 そこで見た光景に、翡翠は一瞬、歩を進めることも忘れ、目を見開いた。

 形は木の枝に似ている。ほっそりとしていながら、弱々しさは、感じられないそれは、透明なそれは、高い天井の部屋で天に向かって伸びていた。先端は見えず、翡翠は目を細めた。
 窓もないのに、その木のような物がある場所だけ、光が差している。――いや、木のような物自身が、光を発しているののだ。
 綺麗な光景だった。

 その美しい光景に誘われるかのように、薄暗い部屋の中央、唯一の光の元へ歩み寄ろうとした時だった。木の枝のような物の前で跪く人物を見て、翡翠は駆け寄る。心臓の鼓動は早まる。だというのに、背は不自然な程に冷えていく。
「父上……!」
 翡翠の呼び声に、翡稜がゆっくりと顔を上げた。茶の髪は翡翠と同じ色だ。大きな黒い瞳は、幼い頃見た時と同様に力強く優しかった。黒い衣には、銀で、龍の刺繍がなされている。武人のような勇ましさを感じさせる翡稜だったが、その額にはじっとりと汗が浮かんでいる。
 視線を下ろし、腹の辺りを見れば、そこがぐっしょりと濡れている。翡翠は手を濡れた布の上に載せた。その手が赤く染まった。翡翠は左手に力を込め、床に打ちつけた。
「……いったい誰がこれを」
 腹部に当てた右手に意識を集中させ、静かに翡稜に問う。手の先に淡い光が宿り、徐々に腹部の傷が癒えていく。
「これが何か分かるか?」
 翡稜が目の前の木のような物に視線を向けている。問いの答えとは関係ない返答が返ってきたことに、少し苛立ちを感じながらも、翡翠は口を開いた。
「木、じゃないのか」
「そう見えるか」
「いや、見えないが」
「あれは、神龍の骨の一部だそうだ」
「これが……?」
 双龍国創世の時代、覇を争った龍の骨の一部だけでこれだけでかいというのなら、神龍はどれだけ大きかったのだろう。元々人の世界でははい双龍国にあって、人というのは小さな存在なのではないか。そんなことを思った。
「神龍が肉体的な死を迎えた後も、その魂は残り続けた。……この木に、神龍の魂の一部が宿っている。恵の初代皇も、その後に続く歴代の皇位継承者も、その魂と契約を交わして皇になる。……翡翠、私は、元々『証』を持っていなかった。だが、本来の皇位継承者であった兄が死に、代わりに『証』を授かるように願った」
「あぁ、萩から聞いた」
「ならば、話は早いな。……父親としての素直な感情を言えば皇になるよりも、一、民としての幸せを掴んでほしかった。だが、恵に生まれた者としては、『証』を持ったお前の誕生を望んでいた。……いや、お前ならば皇としての幸せも掴めるかもしれない。そう、信じたい」
「……父上?」
 徐々に柔らかい笑みになっていく実の父親の姿に、翡翠は静かに声をかけた。ふいに、幼い頃のことを思いだした。翡翠は、恵を出て以来、恵での全ての出来事は全て捨てた気でいた。だが、こうして、実の父親を前にすれば、幼い頃のことがありありと思い浮かぶ。逃げていただけで、捨てきれてはいなかったのだ。
 
 今も昔も弱かった自分。――子供の頃は、力を御すことも、剣を振るうこともできず、そのことを本当に悔しく思っていた。剣に関しては女である宵汐と、弟の挺明稜にはできて、なぜ自分はできないのかと。――剣で誰かを守ることなど、一生できないのではないかと。そんな自分にできることは、いずれ、皇位を継承し、皇としての力を手に入れることだけだと思っていた。けれど、こんなにも弱い自分が、本当にそんなことが出来るのだろうかと思ったのは一度や二度ではない。そんなときに、翡稜は時折翡翠に向けて優しい笑みを向けていた。
「お前はいつか立派な皇になる」
 そう言う翡稜の表情は優しかった。

「恵 灑碧(けい さいへき)、お前はこの国でただ一人の……」
「よくここに戻ってこれたね、翡翠」
 翡稜の言葉を、中性的な声が遮った。黒い衣を纏っているが、髪はそれとは対象的な赤だ。風があるわけでもないのに、赤い髪が宙に舞い上がり、黄金の瞳が翡翠を見下ろす。やはり、人間離れしている。そう、翡翠は思った。
「兵士を殺したのも、父上に怪我を負わせたのもお前か。瑛達」
「さぁ」
 瑛達が小首を傾げ、手の平を上に、宙に突き出した。
「そんなことより、見せたいものがあるんだ」
 瑛達がクスリと笑みを零した直後だった。薄暗い皇の間が赤い炎で塗りつぶされた。だが、炎の熱さは感じない。幻覚だと、すぐに気づいた。
「一体何がしたいんだ」
 目を細め、翡翠が静かに問うと、瑛達が笑みを濃くした。すると、翡翠と翡稜の前に、人影が映し出される。幾人もの人が、一か所に集まり、何かを叫んでいる。その、人々が踏みしめる石畳に見覚えがあった。碧嶺閣内、宮殿前だ。
『灑碧を殺せ!』
『灑碧を許すな!』
 突如、声が聞こえ始める。怒りと、恐れに人々が声を震わせている。その、人群れの中から、一人の男が引きずりだされた。その男は、茶色い髪をしていた。瞳は恵では珍しい灰色だ。歳はちょうど、翡翠と同じくらいだ。
『俺は灑碧じゃない! 離せ!』
『黙れ! お前が灑碧だろう! その不気味な瞳!』
『違う! 俺は……!』
 男を引きずりだそうとする者と、それを止めようとする者。人が入り乱れ、それぞれが狂気を孕んだ声を上げている。瑛達が映し出した幻覚にしては、あまりにも生々しい。その光景に喉にせり上がってきたものがあったが、翡翠は呑みこみ手を握った。
「一体これは……」
「宮殿の前で起こっている現実だよ」
「兵は何をしてるんだ……!」
 瑛達に問うために発した声ではない。自然と漏れた声だった。瑛達は笑みを零し、翡翠と翡稜の目の前に立った。
「灑碧は随分と恨まれているんだね」
 湧き出てくる感情が怒りだろうか。それとお悔しさだろうか。悲しみだろうか。翡翠は、血が滲みそうになるくらいに、堅く拳を握り、瑛達を睨みつける。翡翠は剣を抜き、瑛達に向けようとする。だが、振るった剣は宙を斬っただけだった。
 赤い炎も、偽物の『灑碧』の姿も消え去り、辺りは再び薄暗くなる。
「……たまたま、俺と同じ歳くらいで、偶然、瞳の色が珍しかった。それだけで……」
「翡翠……」
 翡稜の声が震えている。翡翠は、握った手を胸の前に当てた。
「『恵 灑碧』は俺、一人だ」
 翡翠がそう、言うと、空気がざわめくのを感じる。――恵にある空気や水、やろうと思えば、自分に従わせることができる。そう、実感できる。
「翡翠、待て」
 翡稜の手が翡翠に伸びてきたが、翡翠は、その手が翡翠に触れる前に、恵に流れる風に意志を伝えた。


「翡翠……」
 次の瞬間、翡翠は皇の間から姿を消していた。瑛達が見せたあれが、現実だとしたら、翡翠をあの場に行かせてはならない。あの場に行き、もし万が一、翡翠が命を落とすようなことがあれば――
 そう、考えかけて、翡稜は首を振った。いや、翡翠が命を落とすはずはない。子供の頃とは違い、翡翠は剣を振るうことができる。皇としての力もある。だから、大丈夫だ。だが、そう信じてはいても、祈らずにはいられなかった。
(頼む……翡翠を、只一人の皇位継承者を――祥玲の子供である翡翠を、どうか……)
 翡稜は翡翠によって、傷を塞がれた腹に手を触れた。
(きっとあいつには、まだ悩みがある)
 翡翠には言わなかったが、腹の傷は檜悠(かいゆう)によるものだ。妖獣が、榛柳にも表れ、翡稜は武官に、榛柳に住む民を守るよう、伝えた。そして、碧嶺閣の守りを強めるめ、再び皇の間に向かおうとしたところで、檜悠に刺されたのだ。檜悠は、自分が皇になるのだと言っていた。そのために、翡稜の命を奪うのだと。
 だが、刺された傷は急所を逸れていた。檜悠ほどの剣の腕があれば、急所を外すはずはないのだが、外したということは、まだ自分の行いに迷いがあるのだろう。

「檜悠、お前はなぜ皇位を望む」
「兄上よりも、私の方が皇になる素質がある。剣の腕もある。勉学だって……なのに!」
 じわりと痛む腹の傷を無視し、檜悠に問うと、檜悠は早口でそう言った。
「檜悠、そういったものと、皇位の継承権は関係ない。剣を振るうのは武官の役目で、法を司るのは文官だ。お前もわかっているだろう」
「だが、私は……」
「檜悠、私はお前が皇になることで幸せになるとは思えん。お前が皇になりたいのは、陽春にそう言われたからだろう? もし、お前がこのまま恵の皇になったとして、お前は恵をどうするつもりだ? 私には、お前が皇になろうとしたのは、陽春に認めてもらう為であるように見える」
「違う! 私は……!」 
「お前にはたまたま『証』がなかった。だが、それを悲しむべきことだとは私は思わない。皇位を継承しない代わりに、お前には、翡翠が得られないものを得ることができる。それを大事にしてほしい」
 そう言った直後、檜悠が顔を上げ、奥歯を噛みしめるのが見えた。そして、辛うじて、聞き取れるような小さな声で、檜悠が言った。
「『皇』である父上に何が分かる……! 『証』がある。それだけの理由で皇位を継承することができる、兄上にも父親にも私の気持ちは分かるはずがない」
「……檜悠、皇になることが本当に自分の為になるのか、よく考えるんだ。まだ迷いがあるのだろう」
「煩い!」
 そう言い、檜悠は駆けだしてしまう。檜悠は皇になりたがっている。だから、恵の民が苦しむような真似をわざわざすることはないのだろうと思う。けれど、檜悠が皇になったところで、檜悠にとってそれが良いことだとは思えない。陽春の傀儡となる。そんな気がする。
 だが、檜悠にはまだ悩んでいるはずだ。

 翡翠も檜悠も守りたい。――たとえ、この命が尽きようとも。
 守りたい。助けたい。その想いを呪文のように心の内で叫んだ時だった。神龍の骨の一部が、眩しい光を放った気がした。


(もうっ! 瑛達はどこにいるのよ!)
 駿に阻まれ、瑛達を逃したが、桃華はなんとか瑛達の気配を探ろうとする。だが、瑛達の気配を掴むことが出来ず、桃華はため息をついた。けれど、だからと言って、何もしないという選択肢は考えられなかった。桃華は榛柳の中ほどで天馬から降り、同時に刀を抜き去った。
 空、あるいは地から。ありとあらゆるものを破壊しようとする妖獣の急所を見抜き、桃華は必要最小限の動きで、倒していく。その行為は八つ当たりのようだという自覚はあったが、この八つ当たりで困る者はいないだろう。
「どうして灑碧のせいで私たちが!」
「灑碧を許すな!」
「檜悠様……檜悠様ならきっと!」
「檜悠様が助けてくださる!」
 逃げまどう人々から聞こえる声に桃華は、刀を掴む手が怒りで震えそうになるのを感じた。恵に住む人々は、『灑碧』のことを知るはずがない。だから、灑碧を恐れるのは無理もないと思う。だが、同じくよく知りもしない檜悠のことは無条件に信頼している。
(なんなのよ!)
 知らないのだから仕方ないとは分かっているが、怒りをぶつけられずにはいられない。桃華はやり場のない怒りを妖獣にぶつけていく。道を阻まれ、前に進むことが出来ない者があれば手を引き、妖獣を倒しながら、碧嶺閣に向かっていく。そういった人たちもみな、灑碧への恨みを口にしていた。
 10人程の、街人を率い、桃華は碧嶺閣の入り口に着いた。
「助けてくださり、ありがとうございます」
「あなたのおかげで、助かりました」
「いえ……」
 手を両手で包まれ、涙を流して礼を言われたが、桃華は思わずそっけない返事を返してしまった。そうしていると、碧嶺閣の奥から、数人の男たが駆けてきた。
「おい!灑碧を捕まえたぞ! 俺たちを苦しめたあいつを!」
 碧嶺閣の奥からやってきた男の言葉にざわめきが広がる。
「本当か? 俺は灑碧を許さねぇ!」
「灑碧が私の娘を……許さないわ」
 呪いを吐くような声色だった。その声に、桃華の心臓の鼓動が早まる。あの、翡翠が簡単に捕まるとは思えない。だとしたらいったい。
「あの……その、灑碧の見た目は?」
「髪は茶色で、目は人間離れした灰色だ。間違いない! あいつは灑碧だ!」
 違う。それは翡翠ではない。恐ろしさに、息が詰まった。桃華は滑り落ちそうになった剣を握り直し、碧嶺閣の奥へと進んでいく。宮殿の前に人だかりができていた。その人だかりが割れ、男が一人引きずりだされた。確かに髪は茶色だった。だが、瞳の色は翡翠とは異なる。確かに珍しくはあるが、翡翠は灰色の瞳ではない。
 転がされるように地面に伏せる男は、後ろ手に縛られていた。頬は赤く腫れあがり、肩には大きな傷が見える。それでもなお、周囲の者たちは、『灑碧』に罵声を浴びせている。
「お前のせいで、妻がどれだけ苦しんだことか!」
「あなたがが出したんでしょ! 妖獣! 消してよ!」
「私の息子を返して!」
 これを止めなきゃいけない。灑碧が恨まれ、灑碧でもない男が、恵の人々の恨みを一心に受けている。灑碧は妖獣を呼んではいないし、この男は灑碧ではないと分かってもらわなければいけない。だが、そう分かっているのに、足が、縫いとめられたように動かない。
 妖獣よりも遥かに恐ろしい。
「おい!みんな!檜悠様だ!」
「街に出て妖獣を倒してくださるそうだ」
 桃華は声がした方を振り返った。少し離れた位置に武官が数名と、その真ん中に紺色の衣を身に付けた男がいた。
(あれが檜悠)
 檜悠に姿に安心して涙を流す者がある。人々が檜悠への希望を口にし、まるで檜悠さえいれば、どんな困難でも乗り越えられるとでもいうように人々が檜悠の名を呼んだ。
(……茶番じゃない)
 これは瑛達と檜悠が引き起こしたことだ。なのに、恵の人々はそれを知らずに、檜悠に助けを求めている。妖獣によって、家族を失う苦しみは、桃華にも分かる。だからこそ、この状況が許せない。足を縫いとめた糸が、切れていくような感覚がした。桃華は地を蹴り、檜悠の前に降り立った。
「貴様、何者だ!」
 武官の剣が桃華に向けられるが、桃華は動じることなく剣を一瞥し、檜悠を見つめた。
「私、あなたを許さない。あなたに皇になる資格なんかないわ」
「……いったい何の話だ?」
「自分が一番よく分かっているでしょう」
 桃華は武官を倒し、無防備な檜悠に刀の先を向けた。周囲から悲鳴が上がる。だが、桃華はそれを無視し、檜悠に言う。
「……あなたも、自分の命は惜しいでしょう? このまま私に命を奪われたくなかったら、今すぐ妖獣を退かせて。あなたなら、それができるはずよ!」
 桃華がそう言った直後だった。頬にに痛みが走った。石を投げられたのだ。そちらを振り返ろうとすると、今度は罵声が飛んできた。
「殿下に何をするんだ!」
「そうよ!あの子、灑碧の回し者なんじゃない?」
「おい!あの女を殿下に近づけるな」
 桃華に無数の手が伸びてきた。
(檜悠、檜悠ってどうして……!)
 桃華は早まる自身の心臓の音を聞きながら、その場から離れていく。あの場から逃げたくはなかった。けれど、桃華に手をだそうとしたのは、武官ではなく、恵の一般的な民だった。だからこそ、手をだすことはできず、逃げるので精一杯だった。
 苦い思いが溢れ出てくるのを感じる。自分は戦うことしかできない。だが、その力は今この場では無意味だ。
 宮殿前から距離をとっても、『灑碧』と呼ばれた男の恐怖に染まった顔が、頭から離れず、狂気と怒りに満ちた声が追いかけてくるような錯覚を感じる。――こんな事態になったのは、自分のせいではないか。気づかない振りをしていたそんな想いが溢れだしてくる。
 灑碧が死んだとされた国で、生きていると噂を流したのは桃華だ。紅貴に言ったように、灑碧に関する良い噂が広まれば、恵の地に良い影響がでるのは確かだが、それ以上に、そうすれば翡翠の気持ちが変わるのではないかと思っていた。
 だが、『灑碧』の恨みは桃華の想像以上だった。――もしも、自分が、灑碧が生きているという噂を流さなければ、灑碧と間違われたあの男も、苦しまずに済んだのではないか。
「やっぱり駄目よ!」
 あの人だけでも助けなければ。桃華は深呼吸した。落ち着いて行動をすれば、恵の人々を傷つけず、かつ、あの男一人助けるなど、簡単にできるはずだ。剣をしまい、もう一度宮殿前に向かおうとした時だった。
 突如、悪寒がせり上がってくるのを感じた。血の奥から凍りついていくような感覚。――あの、瑛達を前にした時ですら感じなかった、恐怖。
(な、に……?)
 得体がしれない感覚に、桃華はおそるおそる空を見上げた。遠くから、何かが近づいてくる。星が輝いていた遠くの空に、厚い雲が多い始める。それが徐々に広がってきて、榛柳に近づいてくる。誰もがその光景に動けずにいた。
 がくりと膝をつき、呆然と空を見つめている。
 目の前の現実をなんとか呑みこもうとしていると、腰に差していた、刀がカタカタと音を立て始めた。桃華は、そっと柄に手をかざすが、震えは止まらない。
 雲の中心から、黒い龍が姿を見せ始める。嘘だ、そんなはずはない。そう思うのに、瞳に映るそれは、幼い頃に見たものと同じ物だ。


――桃華は逃げなさい!
――やだ!私もお父さんとお母さんと一緒に残るの!
――桃華、この刀をあずけるよ。桃華なら、御すこともできるから
 そういって渡されたのが、妖刀「桜玉」だった。今までは、父親のものであったのだ。それを桃華に預ける意味が否応なしに分かってしまう。泣きじゃくる桃華を、姉の手が引いた。龍――妖龍の死骸から生まれたとされる龍が、桃華の故郷を焼いていく。
 途中で、姉とも離れ、数年後に故郷に来てみれば、そこにはもう誰もいなかった。
 そして、神龍の牙から作られたとされる煌玉――父親の愛刀でもあったものがが地に突き刺さっていた。そのすぐ傍に、最後の日に父親が身につけていた紺色の着物が地に落ちていた。辺りに漂う、禍々しい気配から、煌玉が龍を封じているのだと察した。宙に手をやれば、かすかに振動が伝わってきた。歩を進めようにもその先は一歩も進めない。
 桃華は、父親と別れる直前に預かった刀――遺品となってしまった妖刀「桜玉」を抱きしめた。


 子供の頃、桃華の故郷、朧月島を焼き払った龍が空に現れた。あの龍は、聖刀「煌玉」が封じているはずなのに。桃華は辺りを見回した。誰もが動けず、呆然と空を眺めている。そんな中で、檜悠だけはしっかりと地を踏みしめて立っているように見えた。
「……灑碧兄上の仕業か」
 檜悠が言ったその声に、一度は恐怖で奪われた怒りが、再び湧き出てくる。灑碧を殺せば、龍が消えるのではないか。こんなにも恵が苦しむのは灑碧のせいだ。檜悠の言葉を信じた恵の民が、悲痛な声を上げる。
 (こんな、こんなことって……)
「やめろ! 俺は灑碧じゃない!」
 灑碧だと誤解された男が無数の手に掴まれ、宮殿の柱に縛りつけられようとしている。恵の人々は、灑碧に全てを奪われたと思っているのだ。怒りも苦しみも――龍が現れた恐怖も、全て偽物の「灑碧」に向けられようとしている。
(止めなきゃ……)
 桃華は、もがくように足を踏み出そうとした。
「桃華」
 突然静かに声をかけられ、息が止まりそうになった。
「翡翠……」
 翡翠が桃華の身長に合わせて腰をかがめたと思えば、頬にそっと手が当てられた。淡い光に辺りが包みこまれ、その光が、石を投げつけられた際に出来た頬の傷を癒していった。
 桃華の目の前で、翡翠が、腰から鞘ごと剣を外した。そして、それを桃華に押し付けてくる。
「白琳に渡してほしい。それから……すまなかったと伝えてくれ」
 こんな風に、困ったような表情で微かに笑う翡翠を、桃華は知らない。
「どうして……」
「……あの龍も、瑛達も俺が消す」
 左手で翡翠の剣を持つが、感触を感じない。翡翠が桃華に背を向け、首の付け根の『証』が露わになる。天に昇る龍。それは、今の恵の皇と、灑碧しか持ちえないものだ。
 止めなければいけない。止めなければ、父親と同じになってしまう。そうして手を伸ばそうとするが、動かせなかった。辺りの風が、張り詰めているのを感じた。――翡翠の意志がそうさせているかのようだった。
 声も出せず、桃華はただ、翡翠の後ろ姿を見つめることしかできない。

「私が恵 灑碧だ。そのような下民と私を間違えるとはな」

 知らない。こんな翡翠の声は。こんなにも冷たく、堅い声を聞きたくはなかった。



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