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  第七章 守りたかったもの 3  

 

 本当は死にたくなどない。ここにいるのは優しい人物だから、自分が命を落とせば、周囲の人間の心を傷つけることになるのは分かっている。だが、それでも駄目なのだ。それでは「恵」の未来はない。布団の上に投げ出した手に自然と力が籠る。、今の自分にできることは、淡々と事実を告げるだけだ。
 動揺が声に現れないよう意識して、翡翠は静かに言葉を発する。
「俺の母親の元の姓は巓(てん)」
「巓(てん)って、あの『史書』創世の巻に出てくる妖拳土のことだよな」
 紅貴の言葉に翡翠は頷く。この世界の仕組みが記されているとされている『史書』創世の巻では妖拳士の巓(てん)一族と、妖刀使いの煌桜家、そして妖獣使い、妖術使いが四つの妖なのだと記されている。かつては妖獣で溢れていたという世界において、妖獣に抗う、または妖獣の力を逆に利用した者たちのことだ。
「俺は巓(てん)一族の母親、祥玲と、恵の皇の間に生まれて、容姿と力は母親のものを受け継いだ」




 「証」を持って生まれたのだから、いずれ恵の皇になる。灑碧が物心ついた時には、それは聞きなれた言葉になっていた。今は亡き、母親が最後に灑碧に言った言葉も、「皇」に関することだった。――立派な皇になるのよ、と。
 立派な皇というのは、父親のような皇のことだと灑碧は思っていた。強くて、優しい父上。何度か父親が剣を振るうのを見たことがあるが、武官にも勝っていた。だが、と、灑碧は思う。きっと、自分は父親のように強くはなれない。どうしたら立派な皇になれるのだろうか。灑碧はそんなことを考え、碧嶺閣の外へ続く抜け道を歩いていた。
 そうしていると、髪が後ろに引かれる感覚があった。後ろで一つにまとめた髪が引っ張られたのだ。
「何するんだ!」
 後ろを振り返ると、姉の宵汐がにこりと笑っていた。少し高い位置で結んだ髪を引っ張られるのはしょっちゅうだったが、慣れることはない。言った後で、灑碧は、閉じた口を歪めた。
「碧嶺閣の外へ行くなら私も行くわ」
「やだ。俺、一人で行く」
「駄目よ! 灑碧一人で外行かせるなんて心配だもの」
 言った後で、宵汐がしまった、というように口の前に手を当てた。宵汐が何を考えているか、なんとなく分かる。宵汐が自分を心配するのが当然だということは分かっている。けれど、納得できない。そうしていると、こちらに駆けてくる足音がきこえてきた。
「姉上も兄上も、勝手に外でたら駄目なんだから!母上が言ってたよ!」
 元々大きな瞳をさらに大きくして、挺明稜が言った。普段は黒い瞳が日に当たり、茶になっている。挺明稜が真剣な様子で言う物だから、なんだか悪いことをしているのではないかと思ってしまう。だからといって、今更気持ちが変わるわけではないけれど。今日は外に出ると決めたのだ。
 「恵」のことは、本で学んでいるけれど、外を見なければ分からないことが多いのだ。
「う〜ん。外に行くには目立つわね。そう思うでしょう? 灑碧」
 宵汐が、挺明稜の着物の袖を引っ張ったのを見て、灑碧は頷いた。街に行くには、今の挺明稜の服は目立つ。幾重にも着物が重ねられ、一番上の蒼い布地の着物は光沢を放っている上に、細かい刺繍までなされている。皇族としてはごく当たり前の恰好だが、そのまま街に出れば、目立ってしまうと、灑碧も宵汐も学習していた。宵汐も灑碧も今は、街の子供が身につけるような着物に着替えていた。
「俺は行かないよ! 姉上も兄上も戻ろう」
 挺明稜の言葉に、宵汐の口元がつり上がる。
「本当に良いの? 街にいけば、飴が貰えるのよ。 この前なんてわたしが、飴おいししそう、って言ったら、たくさん貰えたんだから。たくさんの色の飴があって、とても綺麗だった」
 つい最近のことだ。街に着いた宵汐は大人が好む笑みを浮かべ、飴やら煎餅やらをたくさん貰っていたのだ。あの作り笑顔によくも騙されるものだと、灑碧は眺めていたが、結局、一緒にいた灑碧も菓子を貰えたから黙っていた。姉の宵汐のように、笑うなど、灑碧にはできなかった。
(でもその日は結局……)
 街では当然「灑碧」だとは名乗らなかった。だが、街にいた一人の男が、強張った様子でこちらを見たかと思えば、「灑碧」と同じ色の目をしている、と震えた声で言ったのだ。宵汐はそれに何か言い返そうとしていたが、灑碧は宵汐の腕を引き、逃げるように碧嶺閣に戻ってきた。
「そ、それでも駄目だよ!」
 挺明稜が微かに声を詰まらせて言った。飴が貰えるとの言葉に、少し気持ちが揺らいだのだろう。そうしているうちに、遠くから足音が聞こえ、灑碧は挺明稜の腕を引き、渡り廊下の陰に押し込める。
「兄上?」
 きょとんとした表情で、問われ、灑碧は自身の口元の前に、人差し指を一本当てる。
「人が来る」
 宵汐も人の気配に気づいたのか、灑碧と挺明稜に並んで陰に隠れた。渡り廊下を歩くのは、碧嶺閣で働く女官だった。女官が話をしながら廊下を渡る。その声が、灑碧の耳にははっきりと聞こえてしまう。
「灑碧様の瞳、本当に翠色らしいわよ」
「まぁ……なんて不気味なのかしら。恵家は代々黒か茶の瞳でいらっしゃるのに」
「妖獣のように不気味な瞳だったと聞いたわ」
 灑碧は手を堅く握った。灑碧の翠色の瞳は、今は亡き、母親から譲り受けたものだ。灑碧自身はあまり自覚がなかったが、灑碧の容姿は、母親に良く似ていると、父親が嬉しそうに言っていた。灑碧は男だから、自分の容姿の美醜など、問題にしていなかった。けれど、母親から譲り受けた翠色の瞳が不気味だと言われるのは、母親の存在を否定されてしまうように感じてしまう。
 僅かに抱いた怒りに共鳴し、心臓の鼓動が速まる。熱が高まり、握った拳に紫色の光がまとわりつく。
「灑碧!」
 悲鳴のような宵汐の声が聞こえた。駄目だ、と思った時にはもう遅い。突如強い風が吹き、中庭に植えられた松の木が倒れた。灑碧はなんとか、力の暴走を抑えようとする。母親から譲りうけた巓(てん)一族力は、妖獣をも倒しうる力だが、身に宿る力が強ければ強いほど、制御が難しい。灑碧はたまたま強い力を持って生まれてしまった。
 灑碧の僅かな感情の変化に共鳴し、意思とは無関係に力が発動されてしまうのだ。まだ幼い灑碧には、巓(てん)一族の力を抑えることができなかった。
「兄上!」
 宵汐と、挺明稜に呼ばれ、灑碧は気持ちを落ち着かせようと長く息を吐き出した。音を立てていた風が少しずつ弱まって行く。余韻のように中庭の花が舞い、手にまとわりついていた紫色の光が、収束した。全身に冷たい汗が流れている。背がぞくりと震え、灑碧はその感覚に目を伏せた。
「灑碧、今日は部屋に戻りましょう」
 宵汐はおそらくこれから起こることを想定して言ったのだろう。灑碧一人で外に行かせるのが心配だと言うのと同じ意味だ。悔しい。宵汐が心配するのは当然だけど、このまま部屋に戻るのは、弱い自分を認めてしまうことになる。けれど、宵汐のいうことを聞かないのは、ただのわがままだ。そうして、返答に迷っているうちに、覚えのある感覚が襲ってくる。胸が苦しい。痛む。灑碧は左手で胸元を掴み、右手を口の前に当てた。咳が零れ、その振動に耐えられず、身が悲鳴を上げる。
 巓(てん)一族の力は、何の代償もなしに使える力ではない。使えば使った分だけ、その身に返ってくるのだ。力を抑えることもできず、そのくせ意思とは無関係に発動されるその力は、周囲に災いとも呼べる事象を引き起こし、自分の身も崩壊させる。子供の身に、その力はあまりにも大きかった。大人の母ですら、この力で死んでしまった。
――立派な皇になれる日など来るのだろうか
 耐えられずに膝を付き、そう思ったのを最後に、灑碧は意識を手放した。


 目を開けると、大きな黒い瞳がこちらを見つめていた。布団からはみ出た手は大きな堅い手に握られていた。
「父上……」
 そっと声を開けると、父親、翡稜の口元が緩んだ。自分の手を握っているのはどうやら父親らしい。
「癒しの力があまり強くなくてな。すまない」
 癒しの力は強くなくても、剣は強いではないか。そう思いながら、灑碧はは首を振る。
「兄上」
「挺……」
 視線だけ向けて名前を呼ぶと、挺明稜は安心した様子で、口元を綻ばせた。
「良かった……兄上。もう大丈夫?」
 宵汐だったらここで大丈夫だと言って笑みを浮かべるのだろうが、灑碧はそういったことが苦手だった。ただ無言で頷く。
「さて、灑碧も大丈夫なようだし、もう寝るわよ。もう夜も遅いわ」
「うん」
 宵汐の言葉に、挺明稜が素直に頷いた。翡稜が手を離し、柔らかい笑みを浮かべた。
「明日また来る。今日はまだやることがあってな……」
 皇の仕事がどういったものか、全部把握しているわけではない。だが、とても忙しいということは知っている。灑碧は頷き、部屋を去っていく翡稜と、宵汐と挺明稜を静かに見送った。部屋には、灑碧の母親代わりとなっている萩が残った。桶に張った水で布を濡らし、絞っている。そんな萩と視線が合い、灑碧は言葉を発しようとする。
「まだ寝てなさい。熱が出てるわ」
 言葉を発する前に、言われるが、灑碧は萩の言葉を無視して、口を開く。
「どうしたら立派な皇になれるんだ?」
 布を水に浸した萩が、灑碧の横で膝を付き、濡らした布を額に乗せた。そして、柔らかそうな唇が微かに開く。
「逆に聞くけど、立派な皇はどういうものかしら」
「それは……父上みたいに剣が強くて……」
 だけど、そうなれないのは分かっている。力を使いすぎているのだ。同じ年頃の子供とくらべて、あまりにも脆弱な身だ。だが、自分は証を持って生まれた。なんとしても立派な皇にならなければいけないのだ。けれど、その方法が分からない。
「剣が強いのが立派な皇かしら? 恵のことを誰よりも考える。それが立派な皇でしょう」
「それは……」
 例え、だれよりも恵のことを考えたとして、それは本当に立派な皇なのだろうか。どんなに恵のことを考えたって、強くなければ何もできないではないか。
「皇位を継承すれば、嫌でも恵を守る力は授かるわ」
 灑碧の言葉を察したように、萩が言った。確かに、いずれ、恵を守るための力が授かるとは聞く。けれど、今はそんな力はない。力と言えば、せいぜい、あの、碌に扱えない力だけだ。
 母親がなくなるまでは、なんでこんな嫌なことばかり起こるのだろうと思っていた。「証」なんてなくなって欲しいと思っていた。けれど、母親の死をきっかけに、気づいてしまった。嫌なことばかりではなかったのだ。目の前にいる萩だって、父親だって、宵汐だって、挺明稜だって優しい。母親が亡くなった時、ずっと側にいてくれたのだ。――生前の母親も優しかった。
 優しい人たちはみな、灑碧に立派な皇になって欲しいと言っている。それから逃げることは、その、優しい人たちを裏切ることになる。――優しい人たちを守れる力が欲しい。
「どうしても、というのなら、知識を得なさい」
「知識?」
「皇位を継承して、この地と契約すれば、力を授かることになる。でも、それでも足りないというのなら知識を得なさい。剣を扱えなくても、それは人を守れる力になり得るから」
「戦えないのに?」
 灑碧が言うと、萩はクスクスと笑った。
「今はまだ分からないでしょうけど、知識は力になり得るの。そうね……双龍国の最初の皇……つまり、恵の最初の皇も、特別剣が強かったわけではなかったわ。けれど、誰よりもこの世界の仕組みを理解していたから、恵という国を創れたのよ。妖獣の脅威に覚えず、人々が安心して眠れる国をね」
「うん……」
「分かったら今は眠りなさい。これから学ぶべきことがたくさんあるんだから」
 髪を撫でる萩の手に誘われるように、灑碧は瞳を閉じた。剣を扱えないというのは悔しい。だが、他にも力を得る方法があるのだと知って、少しだけ安心した。


「挺、灑碧、煌桜家の当主が、剣を見てくださるのだけど、見に来ない?」
 宵汐は女でありながら、剣を習っていた。灑碧と、そう歳が変わらない子供ではあるが、結構な腕だと聞いている。灑碧は剣を扱うなどできない。だが、剣の打ち合いなどを見るのは好きだった。ましてや煌桜家と言えば、あの、妖刀と、聖刀を扱う一族だ。その当主ともなれば、双龍国随一の腕だと言っていい。
 その煌桜家は恵家に仕えているが、今、煌桜家には幼い子供がいるのだと言う。翡稜が、子供の元にいてやれと言っているらしく、碧嶺閣にやってくることはめったにない。
「行く」
「行きたい」
 灑碧と挺明稜の声が重なった。
 
 碧嶺閣の一角にある武練場に、煌桜家の当主はいた。翡稜と親しげに話しているその人物が、煌桜家の当主なのだろうが、想像と違うと、灑碧は思った。当然、宵汐よりは背が高いが、父親の翡稜よりは低い。茶の髪をお団子にし、纏まりきれずに零れた髪は、くるりと弧を描いている。大きな瞳は、力強いというよりは、猫のようだと思った。
「宵汐は会ったことあるから知っているね。煌桜家の当主、蘭英だ。蘭英、挺、自己紹介しなさい」
 翡稜に促され、灑碧と挺明稜は名――正確には、字を告げた。
「これは驚いた。灑碧様は祥玲殿にそっくりで、挺明稜は翡稜に良く似ているね」
 のんびりとした口調で、蘭英が言った。恵の皇である翡稜にこんな風に砕けた口調で話す人物は珍しい。にっこりとした笑みを浮かべ、蘭英は灑碧と挺明稜を見た。
「私は、煌桜家当主、蘭英と申します」
 突然、蘭英の口調が改まり、灑碧と挺明稜が目を見合わせていると、翡稜が微かに声を立てて笑うのが聞こえた。
「私の息子たちが困っているではないか」
「そうかな? う〜ん。それにしても驚いたなぁ。さて、宵汐様、早速ですが、始めましょう」
「はい」
 宵汐が弾んだ声で返事をするのを聞きながら、灑碧は、まじまじと、蘭英をを見つめていた。不思議な人物だと、思ったのだ。皇と親しげな口調で話のも珍しければ、常ににこにこしているのも不思議だ。そうして、蘭英を見つめているうちに、準備が整ったらしく、蘭英と宵汐が木刀を持って向かい合った。
 その段になって、突如、蘭英の顔から笑みが消えた。
 始め、合図がなされ、宵汐が前に出る。素早く繰り出された木刀を、蘭英がうけ、辺りに乾いた木の音が響く。宵汐は強いのだと思う。けれど、繰り出される剣はことごとく弾かれてしまっている。
 花弁が舞っているようだった。捕らえようとすると、指をふわりとすりぬけてしまうのだ。蘭英の動きは捕らえにくい、蘭英の動きが予測できず、剣と剣の打ち合いに、灑碧は自然と引きこまれる。
 突如、風を切り裂くような音が聞こえた。ふわりと舞う様に、宵汐の剣を流していた蘭英の動きが、直線的な動きに変わったのだ。今度は、突風だと思った。瞬きをすれば、たちまち灑碧の視界から消えてしまいそうだった。そして、突如、木刀が舞った。宵汐の剣が落ちたのだ。
「強くなりましたね、宵汐様」
「ありがとうございます」
 その後も何度か手合わせをし、その綺麗な打ち合いに、灑碧は夢中になる。しばらくして、そろそろ休憩するのだろうと思った時だった。蘭英から思わぬことを言われた。
「灑碧様も剣を持ってみますか?」
「俺が?」
「蘭英!」
 翡稜が咎めるように、声を荒げた。
「あまり親馬鹿すぎるのもどうかと思うけどな」
「お前にだけは言われたくない言葉だ。それは。いつも自分の娘の話しかしないではないか」
「可愛いからね。家の娘は。さて、どうしますか? 灑碧様」
 自分が剣を持つなど考えたことはなかった。きっと、宵汐のようには戦えないだろう。だが、持つだけでも持ってみたい。灑碧は蘭英の前に立った。蘭英はにこりと笑い、灑碧に木刀を持たせてくれた。冷たい感触の木刀は思ったよりも重い。
「ここをこう持って……」
 木刀の持ち方を教えてもらい、蘭英が言う通りにまっすぐ構えた。木刀を振りおろせば、風を切る心地良い音が聞こえた。何度か剣を振るっただけで、息が上がってしまったが、木刀を持てたことが嬉しかった。
「……灑碧様には剣の才がありますね」
 乱れた息を整えようとしていると、静かな声でそう、言われた。きっとそれは世辞だろう。本当に、才能があるのならば、数度剣を振るっただけで、息が上がると言うことはないはずだ。だが、それは分かりきっていたことだ。
 日常的に力を暴走させ、その代償をこの身は払っているのだ。そんな自分が、剣を振るえたことが奇跡だった。
いずれ、巓家の力を制御できる日が来れば――
 そう、思いかけて、灑碧は思い直した。剣の腕を磨くより、知識を得る方が、自分の力になる。けれど、剣を持てたことが嬉しく、灑碧は珍しく笑みを浮かべ、蘭英に礼を言った。


 初めて剣を振るったという、ささやかな喜びはあっても、その後の灑碧の生活が大きく変わることはなかった。灑碧の噂に、意思とは無関係に力が発動され、発動された力がまた新たな噂を生む。いつのまにか、灑碧は人間離れした容姿の、不気味な力を持った皇位継承者として怖れられるようになってしまった。噂が届かない地で一時的に休むべきではないかという話も出たが、灑碧がそれを断った。
 「証」を持った自分が碧嶺閣から逃げてどうするのだ。
「ねぇ灑碧、周りの大人に、変な噂されて悔しくない? 私が黙らせようか?」
 中庭で木刀を振るう挺明稜を眺めていると、宵汐にそう声をかけられた。いつも、口煩い注意しか言わない宵汐がそんなことを言うのは珍しいと思っていると、言葉が続いた。
「私は灑碧と違って、利発な皇女だって言われてるから、代わりに見返してあげてもいいわよ?」
 口元を釣り上げて、宵汐が言った。きっと、自分のことを想って言ってくれているのだろう。だが、そんなことを言ったら、今は碧嶺閣の者に好かれている宵汐まで嫌われてしまうかもしれない。
「……周りに色々言われるのは、俺が、証を持ってるだからだろう?証を持ってる以上、仕方ない」
「またそんなこと言って! そういうところが可愛くないのよ。子供なんだから、もっと、可愛いこと言えないの?」
「だって本当のことだろう」
 灑碧の言葉に、宵汐がため息をついた。可愛くない、という自覚はある。宵汐のように、大人が求める笑顔を見せられるわけではないし、挺明稜のような、大人が好む性格でもない。けれどきっと、それは自分には必要ないことだ。自分が望むのはいつか立派な皇になることなのだから。
 優しくしてくれる人たちの望みもそれのはずだ。
「……ずっと前は、なんで俺ばかりこんなに嫌な思いをしなきゃいけないんだろうって思ってた。俺なんかが証を持ってるのもおかしいてっ感じてた」
「灑碧?」
 不思議そうに宵汐が問うた。そういえば、こんな話を宵汐にするのは初めてかもしれない。
「……母上が死んだ時、励ましてくれる人がいた。励ましてくれた人がいたから、俺は立ち直れたんだと思う」
「そう……」
 もちろんその中には、宵汐も入っている。それを直接言うのは恥ずかしいから言わないけれど。
「その人を、本当は、他の人みたいに、剣とかで守りたい。でも、こんな身体の俺じゃ、剣は扱えない。そんな力が欲しいけど、俺には、無理だ。けど、皇位を継承して、この地と契約すれば、俺にも、守る力ができる。それに……母上が死んだ時気づいたんだ」
「気づいた?」
「生きている時は気づかなかったけど、母上は、俺に色々なことをしてくれてたんだ。……それと同じで、俺が気付いていないだけで、多分、俺は周りに助けられている。俺が証をもってるから、嫌なことを言われるっていうなら、その逆もあるはずだ」
「逆って?」
「俺が証をもった皇位継承者だから、周りが助けてくれる」
 本当のところ、今でも自分以外の誰かが、皇になった方が良いのではないかと思う。だが、そうはいっても「証」からは逃れられない。ならば恵に望まれる皇になるしかないだろう。恵に住む人々にしてみれば、好きで「灑碧」を皇に選んだわけではないのだから。
「うまく言えないけど、俺は証をもったことで、嫌なことをされたり、期待されたりされてる。それを全部受け止めなきゃいけないって思ってる。多分、俺は皇位を継承するために生まれたから、逃げてばかりはいられない」




「巓(てん)一族の力は、子供の頃の俺には、使いなすことができなかったからな、勝手に力が発動された。死人こそでなかったが、怪我人がでて、それは災いといっても間違えではない。力を使えば使っただけ自分の身に返ってきたから、ちょうど今のような状態がずっと続いていた」
 翡翠は苦笑し、言葉を続けた。
「とても、皇位継承者に相応しいとは言えなかった。俺が「証」を持って生まれたこと自体が間違いだった」
 子供の頃はそれでもどうにか人を守れる力を得ようとしていたことを、翡翠ははっきりと覚えていた。だが、それをこの場で話す気はなかった。今思えば、皇になろうとしたこと自体が誤りだった。
「それがあなたの意思だとは思えないわ」
 宵汐が翡翠の言葉を遮ったが、無視して翡翠は言葉を続ける。
「その後、恵に妖獣が顕れた」
 翡翠は軽く目を伏せる。その時に起こったことが、翡翠の人生を変えた。恵を守るためにはああするしかなかったのだ。

 こればかりは、話さないわけにはいかないだろう。
――14年前と同じ出来事が、今再び起きようとしているのだから

 翡翠は、手が微かに震えそうになるのをなんとか抑え、話を続けた。

 

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