史書

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  第七章 守りたかったもの 4  

 

 「なんで分からないんだ! 恵に何かあったら分かるはずなのに!」
 灑碧は碧嶺閣の私室で声を荒げて叫んだ。恵に妖獣が現れ始めて数十日が経つ。以前、萩から、皇位継承者には、恵の異変を瞬時に感じ取れる力が宿ると聞いた。なのに、灑碧はそんなものを感じたことがない。この国が妖獣に襲われているという事実を知ったのも、大人たちが話しているのを聞いたからだ。「証」があるのに、何もできない。これでは、本当に自分を嫌う大人達が言う通りなのではないか。やはり、自分に「証」があるのは間違っているのではないか。
 灑碧にとって大切な人たちはみな、灑碧が皇になることを望んでいた。そして、皇になれば、その、大切な人たちを守れる力を得ることができると聞いた。だから灑碧は皇になりたいと思ったのだ。なのに、自分にはそんな力はない。
 姉の宵汐や弟の挺明稜に「証」があれば良かったのに。その方が、恵の人々にとっても良かったのではないか。
「たしかに、本物の『証』を持っている灑碧はいずれ、恵の異変が分かるようになるでしょう。でも、今じゃないわ。まだ子供だもの。もっと大きくなってからよ」
「じゃあ、妖獣に襲われた街に連れて行ってよ!怪我なら治せる!」
 唯一、「癒しの力」なら使える。まだ、弟の怪我くらいしか治したことがないが、この力があれば、もっとたくさんの人を助けることができるはずだ。
「いいえ。駄目よ。灑碧、あなたをそんな危険な場所に連れて行くわけにはいかないわ」
「なんでだよ!皇は人を守らなきゃいけないんだろう!」
 「証」を持っていても、今の自分は何もできない。できることがあるのに何で駄目なのだろう。――助けることができなければ、またあの子のように、悲しむ人がいる。「なんでお父様とお母様が……」と言って泣いた同じ歳の少女を前に、自分は何もできなかった。どうして自分は何もできないのだろう。「証」をもっているはずなのに。
「たしかに、それが皇の役目よ。でも、灑碧、今あなたがやるべきことは、たくさん勉強して、遊んで、よく食べて寝ることよ。それが子供の仕事」
「妖獣が襲ってるのにか?」
 妖獣の発生で、たくさんの人が死んでいる。なのに、自分がやるべきことは、勉強と遊び? そんなの変だ。
「外で遊んでくる」
「灑碧!待ちなさい!」
 萩が灑碧に手を伸ばしたが、灑碧は萩の手を振りほどき、中庭に出た。外に遊びに行くというのは嘘だ。ただ、一人になりたかった。灑碧が一人になりたい時、やってくるのは、中庭か馬小屋だと決まっていた。そのどちらかであれば、余計な言葉は聞こえてこない。もう、慣れたとはいえ、自分を怖がる人々の声はできるだけ聞きたくない。
 今、同じ国で妖獣に苦しむ人々がいるとは信じられないくらいに、中庭は綺麗だった。晴れ渡った空からは、柔らかい光が降り注ぎ、――が好きだと言った花を照らしている。池が日の光を弾き、白い花弁を乗せ、穏やかな風に、微かに揺れる。
 今日、――はいないのだろうか。一人になるために、中庭にやってきたはずなのに、無意識に少女の姿を探しそうになり、灑碧は小さく首を振った。こんな情けない姿は見せられない。「証」をもっているはずなのに、自分を怖れずに接してくれた少女が悲しんでいる時も、こうして、妖獣が恵を襲っている今も何もできない。
 『史書』に伝わるように、恵に何かあったらすぐに分かれば良いのに。「証」を持っている自分は、それができるはずなのだ。灑碧はかるく目を閉じ、風の音に耳を傾ける。小鳥のさえずりが遠ざかり、中庭に吹く風の音とは、別の風の音が聞こえ始めた。冷たい風を感じた。
――なんだ?
 これまで感じたことがない感覚に灑碧の手に自然と力が籠る。微かに感じる冷たい風は、中庭に吹く風ではないと思った。はかない感覚をよりはっきりさせようと、灑碧は冷たい風に耳を傾ける。――風に混ざって、獣の鳴き声のようなものが聞こえた気がした。妖獣の声だろうか。いったい、どこから聞こえているのだろう。灑碧は意識を風に集中させる。
――西?
 灑碧は目を見開き、辺りを見回す。冷たい風を感じたのは嘘のように、暖かい空気が中庭を包んでいる。だが、立った今聞いた、冷たい風の音は幻聴ではない。灑碧はつい最近萩に見せてもらた恵国の地図を脳裏に描いた。
――紗水?
 ぞくりと背が震える。紗水が妖獣に襲われている。実際にその光景を見たわけではないが、そうだと分かる。その事実に、脚がすくみそうになる。だが、このまま放っておけば、たくさんの人が悲しむことになる。震えそうになる脚を何とか動かし、自室に戻って行く。


「やっと機嫌直したのね。灑碧から灑碧が拗ねてるって聞いたんだけど」
 自室に戻ると、そこには萩の他に、宵汐と、挺明稜。そして、父親の翡稜がいた。久しぶりに姿を見る翡稜は疲れているように見えた。父親のことは心配だったが、それを言葉にはださず、灑碧はまっすぐに父親の顔を見る。
「灑碧、顔色が悪いが、具合でも……」
「父上、紗水に妖獣が」
 灑碧は父親の言葉を遮り、言った。翡稜が不思議そうに、灑碧を見つめ返したその時だった。戸の向こう側から声がかかった。
「陛下、報告がございます。たった今、紗水に妖獣が発生したとの連絡が……!」
「分かった。今行く」
 翡稜が部屋を去った後は、宵汐も萩も、驚いた様子で灑碧を見つめていた。宵汐は目を大きく見開き、萩は逆に、微かに目を細めている。挺明稜だけは状況を掴めていないのか、宵汐の顔と、父親が去っていた戸を交互に眺めていた。
「皇の力ね。まさかこの歳でもう……」
 萩が静かな堅い声で言った。
「皇の力? あの、自分の国の異変が分かるっていう?」
「えぇ」
 宵汐の問いに答えたあとで、萩は、灑碧の前に膝を付いた。そして呆然と立っている灑碧を抱きしめてきた。萩の腕が暖かい。冷え切った身体に、萩の熱が徐々に移り始める。
「萩?」
「怖かったでしょう」
 怖くないといえば、嘘になる。だが、それを素直にいえるような性格ではない。灑碧は口をつぐんだまま首を振り、おそるおそる萩に問う。
「……紗水は大丈夫なのか?」
 萩がゆっくりと灑碧から腕を離し、代わりに両肩に手が載せられた。叱られる時もよくこうされるが、その時よりも優しい感触だ。
「大丈夫よ。今、恵の西側の街には煌桜家の者が常駐しているから。恵の西側が狙われているから、煌桜家に守らせているのよ」
 煌桜家は妖刀を扱う一族だと『史書』に記されている。妖獣を倒しうる力を持つ一族なのだと。その力は灑碧に半分流れる巓(てん)家の力に匹敵するか、それ以上だとも聞く。灑碧は巓(てん)家の力が引き起こす事象を良く知っている。巓(てん)家の力は、力と引き換えに、自分の身を滅ぼすが、たしかに力は強い。あの力と同様か、それ以上ともなれば、たしかに妖獣を倒すことはできるのだろう。
「煌桜家の人は、大丈夫なのか? 力を使ったら俺みたいに……」
 灑碧は軽く俯いて尋ねる。自分の意志とは無関係に発動される巓(てん)家の力で、自分の身は、代償を払っている。妖獣を倒せても、今度は煌桜家の者が死んでしまうのではないか。
「心配いらないわ。少し難しい話になるけれど、一応説明するわね。巓(てん)家は直接力を使うけど、煌桜家の力はそうではないわ。妖刀と聖刀の力を利用しているに過ぎないから、そんなに負担は大きくないのよ」
「それに、煌桜家は、剣自体を扱うのに長けているもの」
 萩の言葉に、宵汐の言葉が続いた。自信たっぷりの宵汐の言葉に、灑碧は頷く。そんな灑碧に萩とほっとした様子で息をつき、挺明稜は不思議そうに首を傾げていた。


 意識を集中させなければ気づけなかった恵の異変に、いつのまにか、そうせずとも気づけるようになっていた。空気の変化を察し、どこで妖獣が発生しているか分かる。だが、分かったところで、相変わらず何も出来ないでいる。
 その日、灑碧は、碧嶺閣の一角の馬舎にいた。灑碧に与えられた天馬がいる馬舎は灑碧にとって数少ない心が落ち着ける場所だった。灑碧が普段生活している宮殿とは違い、香が焚かれているわけではなく、干し草の臭いが充満していたが、宮殿の一室よりも、馬舎の方が好きだった。
「クロのやつ、灑碧様が来るのを待ってたみたいですよ」
 日頃、灑碧の天馬、黒の面倒を見てくれている男が、天馬を連れてきた。しなやかな身は黒い毛を持ち、その背には、大きな羽根がある。灑碧はまだ、天馬に乗ることは出来なかったが、いつか乗れるようになるのを楽しみにしていた。灑碧がそっと背に手を伸ばすと、天馬はそっと目を細めた。男は、それだけ言うと、馬舎の奥に歩いて行った。
「クロ、俺、何もできないんだ」
 灑碧がそう呟くと、クロは慰めるように灑碧の手を舐めた。そうして、クロの背を舐めつづけていると、馬舎に意外な人物が現れた。幾重にも重ねられた着物を身に付け、一番上の桃色の着物には、金糸の刺繍がなされている。結いあげられた黒髪をいくつもの髪飾りが彩り、口元は紅が塗られている。
 灑碧の周りにいる大人の女性は質素な着物を身につけているから忘れがちだが、碧嶺閣にいる高い身分の女は本来、こういった恰好でいるのが普通なのだろう。だが、その女は馬舎では浮いていた。
 とても、こういった場所にくるとは思えない女がそこにいたのだ。第三皇子、檜悠の母親、陽春だ。灑碧は陽春が苦手だった。弟の檜悠に会いに行こうとすると、何かと理由をつけて会わせてくれないのだ。口元は笑っていても、灑碧に向ける瞳は笑っていない。はっきりとした理由は分からないが、灑碧はどうしても陽春が身に纏う雰囲気に慣れずにいた。
「こんなところにわざわざいらっしゃるなんて……随分と変り者の皇位継承者もいるのね」
「クロがいるから」
「クロ? その天馬のことね」
 陽春がクロに近づいてくる。クロは唸り声をあげ、威嚇する。
「あら、怖い」
 そうしてくすりと陽春が笑んだ時だった。急に空気が冷たくなるのを感じた。間違いない。また、恵に妖獣が現れたのだ。灑碧はその正確な位置を把握しようとする。そして、伝わってきたその場所に、目を見開く。榛柳の門の外だ。
「灑碧様、顔色が悪いけれど、どうしたのかしら」
「妖獣が、榛柳の門の外に……」
「それは大変ね。たしか煌桜家は恵国の西にしかいないんじゃないかしら」
 確かにそうだ。妖獣に襲われるのは、なぜか、恵の西側ばかりだったのだ。そのため、煌桜には、西側を守らせいると聞いたことがある。だとしたら、恵の中央は――
「このままでは、誰も妖獣を倒せないわね。妖獣を倒せるのは妖獣使いと、煌桜家と巓(てん)家ぐらいだもの。――恵の民がまた死んでしまうわね」
 陽春の言葉にはっとする。そうだ。巓(てん)家ならば、妖獣を倒すことができるはずだ。自分が持つこの力ならば。力を抑えることは上手くできないが、振るうこと――正確には暴走させることならばできる。萩には使うな、と言われているが、今この近くに煌桜家はいないのだ。誰かが、倒さなければ、またあの、少女のように、悲しむ人が生まれる。
「父上に、妖獣のこと伝えてきて」
「分かったわ」
 陽春が優雅な所作で後ろを向く。陽春がいなくなった馬舎で、灑碧は正面からクロを見つめた。そして、静かに言う。
「クロ、俺を乗せてくれ」
 しばしの間があった。じっとこちらを見るクロから目をはなさず、灑碧はは意識をクロに向け続ける。クロの首が垂れ、子供の灑碧でも乗れるように背が沈んだ。灑碧はは勢いよく、クロの背に乗り、手綱に捕まる。馬舎の男が制止する声が聞こえたが、その声には耳を傾けず、馬舎を飛び出て、虚空に飛翔する。あっという間に、碧嶺閣が遠ざかった。


 辿りついた大地には不気味な獣がいた。狼というには余りにも大きく、巨大な爪が、妖獣に立ち向かう兵士を切り裂き、地の海を作っていた。そのあまりにも凄惨な光景に、喉を込み上げてくるものがある。それをなんとか飲み込み、灑碧は地に降り立った。何匹もの妖獣が灑碧に向かってくる。
 妖獣を倒そうとした兵はみな血を流し、倒れている。――誰かが妖獣を倒さなければならない。
 灑碧は怒りと恐怖の感情をそのままに、紫色の光を纏う右手を地に突き立てた。次の瞬間、大地がひび割れた。突如現れた亀裂に、妖獣の脚が囚われ、落ちていく。力を抑えるのは難しい。だが、暴走させるのは簡単だ。――その後の代償を考えなければ。
 鋭い風は、妖獣の身体を切り裂き、命を奪う。木々は倒れ、地は割れる。天変地異とも言える目の前の光景に、灑碧は自嘲する。この現象を引き起こしたのは自分だ。碧嶺閣にいる大人たちは、自分を化け物だと言ったが、あながち間違っていないのかもしれない。
 灑碧は自身が引き起こした光景に背を向け、碧嶺閣に戻ろうとした。だが、一歩前に出したはずの脚は、膝から崩れおちた。立ち上がろうと地に指を突き立てたが、動いたかどうかも分からない。心臓を握り潰されたような苦しみが胸に走り、灑碧酷く咳き込む。口の中に鉄の味が広がった。
 碌に身体を動かすこともできなかったから、気づかなかった。空に再び妖獣が表れていた。その存在に灑碧が気づいたのは、竜のような妖獣の牙が目の前に迫ってからだった。灑碧はとっさに目をつぶった。だが、いつまでも妖獣の牙に切り裂かれる痛みは感じなかった。おそるおそる目を開くと、男が一人、灑碧の目の前に立っていた。その横には妖獣の首が横たわっている。おそらく、目の前の男が切ったのだろう。
 茶の髪はお団子にまとめられているが、ところどころ、まとまりきれずに、肩に落ちている。紺色の着物を身に付けた男は、猫のような瞳をこちらに向け、灑碧を抱きあげた。
――蘭英
 煌桜家の当主の名前を呼ぼうとしたが声にならなかった。蘭英の腕の中で再び咳き込み、気づけば、蘭英と共に天馬に乗っていた。いつの間にか、意識は落ち、再び目が覚めた時には数日が過ぎていた。
 後から、自分は死に掛けていたのだと聞かされた。助かったのは、「奇跡」だと。

「灑碧、話がある」
 布団の上で身体を起こした灑碧の横に座り、皇が言った。
「話?」
 皇が静かに頷く。いつもと様子が違う。子供ながらに察する。
「お前はいつか皇になる。皇として、絶対にやってはならぬことがあるのだ。一つは、民を見捨てること。そして……勝手に死ぬことだ」
「うん……」
 つい最近の自分の行動は誤りだと父親は言っているのだろう。
「まだ理解するのは難しいだろうが、勝手に死ぬことは、恵の民を見捨てることと同じだ」
 でも、それで恵の人が助かるのだったら? と、問おうとして、口には出来なかった。父親である皇の言葉が絶対的なものであるように感じたのだ。
「それから、お前のその命は、「奇跡」だというのは話したな」
「……うん」
「ある一人の少女の願いが叶った奇跡だ。お前を死なせたくない、というな」
「少女?姉上?」
 少女と呼べる知りあいは、姉の宵汐以外に知らない。「少女」という言葉に違和感を感じながらも、尋ねると、皇はしばしの間のあとで頷いた。
「そう、だな……ともかくだ。お前は何があっても生き続けなければならない。恵の民の想いも、お前を大事に想っている者の願いも全て受け止めて生き続ける。それはお前の義務だ。――もう、二度と自ら命を捨てる真似はするな」
「――わかった」
――灑碧様まで死なないでください……! 
ふいに、自分の名前を呼ぶ、泣きそうな声が聞こえたきがしたが、それが誰の声かは分からなかった。けれど、何があっても死んではいけない。そう、感じさせるものだった。


 だが、それが叶えられることはなかった。


 私室を――正確には灑碧に与えられた一つの建物を、赤い炎が包み込んでいる。夜の闇と赤い炎に身を竦ませ、灑碧は目の前の男を見ていた。身体が縫いとめられたように動かない。一瞬のうちに、建物は炎に包まれ、灑碧と萩は炎に囲まれたのだ。
 なんとか脱出しようとすると、それを阻むように一人の男が表れた。黒い布に身を包み、こちらを睨む黄金の瞳は妖獣のようだ。布から覗く赤い髪と、うっすらと弧を描く唇は、血のようであり、また、燃え盛る炎のようでもあった。
「瑛達……!」
 萩が、目の前の男の名を呼び、剣を向ける。だが、その剣は男の剣に簡単に弾かれてしまった。鳩尾に衝撃が与えられ、萩が意識を失う。瑛達は剣をしまったが、灑碧はこれまでに一度も抜いたことが無かった剣を抜き、その刃先を瑛達に向け、振るった。
「素人の剣だね」
 短刀だけで簡単に剣は弾かれる。それでも男を倒そうと、怒りのままに紫色の光を纏う右手を瑛達に向けようとしたが、急に何かに身体を締めつけられた。おそるおそる自分の身体を見て、灑碧は息をのんだ。床から紫色の光が伸びていた。蛇のようにうねった光が、灑碧の身体を締めつけてくる。これは妖獣の種の気配だ。ということは――
「妖獣を恵に放ったのはお前か!」
 瑛達が笑みを浮かべたまま近づいてくる。灑碧はもがこうとするが、幾重にも伸びた紫色の光の締めつけの強さが強まり、身動きが取れない。
「君の言う通り、妖獣を襲わせたのは僕だ。だけど、君が僕のいうことを聞いてくれれば、妖獣を襲わせるのは辞めるよ」
 また一歩瑛達が近づき、瑛達が灑碧の顎を持ちあげた。
「皇位を捨て、この場ですぐ命を絶つか、恵には関わらず、修で一生を過ごす。どちらかを君が選んだら、恵には手を出さない。皇位を捨ててくれるかい?灑碧」
「ふざけるな……だ、れが……ぐっ」
 灑碧が声を荒げるが、すぐに声は呻きに変わった。紫色の光が、灑碧の首までせり上がり、締めつけてきたのだ。
「このまま君を絞め殺すこともできる。でもその場合、君の死は君の意志ではないから、恵に手は出さないとは約束できない。二つも選択肢を用意したんだから、感謝して欲しいね」
 首にまとわりついていた紫色の光が、緩み、灑碧は首を垂れる。朦朧とした意識の中で、灑碧は、亡き母を思った。母親は、立派な皇になって欲しいと言っていた。横で横たわる、萩も、姉も弟も、父親も。皇になれば、大切な人を守る力が出来るから皇になりたいと思った。だが、ここで男の言うことを聞かなければ、たくさんの恵の民を失うことになる。
 ふいに、妖獣に親が殺されたと言って、泣く少女の姿がおぼろげに浮かんだ気がした。その少女の正体は分からない。だが、少女が泣く姿は見たくないと思った。ぼんやりとした記憶なのに、それだけで胸が苦しくなる。このまま妖獣が恵を襲いつづければ、少女のように苦しむ人々がたくさん生まれるのだろう。――嫌だ。
 灑碧は顔を上げ、瑛達を睨みつける。
「皇位を捨てて、俺は修に行く。もう、恵には戻らない。だからもうお前は恵には関わるな」
 急に、身体を締めつけていた紫色の光が解かれる。ぺたりと座りこむ形になった瑛達は灑碧を見下ろし、いっそう笑みを濃くした。
「おめでとう。今日は『灑碧』の命日だ。それにしても、わざわざ困難な道を選ぶとはね。……死んだ方が楽なのに」
 死のうとは思えなかった。父親が言っていたのだ。自分の命は奇跡的に助かった命なのだと。どんな形であろうと、その命を無駄にしてはいけない気がした。たとえ、『灑碧』として生きることができないのだとしても。
 翡翠は瑛達の言葉には答えず、萩の前に膝をつく。炎から自分を守ってくれたためだろう。ところどころ火傷の跡が見える。翡翠は萩の手を取り、癒しの力を行使する。傷が癒えていくことにそっと安堵しながら、そっと口を開く。
「萩、挺、宵汐、父上、母上――白琳、ごめん」
 最後に無意識に呟いた少女の名に、翡翠は気づかなかった。

 その後、修に奴隷として売られた翡翠は、どんな形であろうと生きようと決めていた。だが、それが誤りだったとすぐに気づいた。瑛達がいった困難な道の意味も。自分が命を絶たない限り、恵の次の皇位継承者は生まれないと、気づいてしまったのだ。
 自分のような出来そこないではなく、きちんとした「証」を持った皇位継承者は恵には必要だ。「証」を持った王を失った国がどうなるかは歴史が証明している。
 修にやってきて以来、翡翠は何度も自ら命を断とうとした。だが、何度やろうとも結局できなかった。嘉にきてからはますます死が怖くなった。だが、だからといって、恵の皇になれるはずはなかった。自分が皇になれば、恵は再び妖獣に襲われるのだから。
 瑛達が死んだと聞かされたあとも、恵の皇位に就こうとは思えなかった。自分は恵を捨てた身だ。そんな自分に皇になる資格はない。本当に皇にふさわしい者ならば、恵を捨てずとも、恵を守れるはずだ。自国を捨てた者が再び皇位に就くなど聞いたことがない。こんなにも民に恨まれている皇位継承者の話も。
 自分にできることは、次の恵の皇位継承者が生まれるよう、命を断つことだけだ。なのに、それすらもできない。




「妖獣使いの瑛達が妖獣を使って恵みを襲わせて……恵の人間がたくさん死んだ。妖獣使いとしての力以外……剣も強くて、誰も敵わなかった」
「そんなに強いの?」
「強いよ」
 瑠璃が不思議そうに問い、桃華が答えた。
「あれ?桃華、その、瑛達って人のこと詳しいの?」
「ちょっとだけね。それより、続けて、翡翠」
「……その男が、子供だった俺の前に表れて、妖獣に恵を襲わせない条件を提示した。一つは、その場で俺が命を断つこと。そして、もう一つは、皇位を捨てて、修で一生を過ごすことだ。俺は、後者を選んだ。だが、それが間違いだった。各国、皇位継承の証を持って生まれる人間は同じ時代に二人までだ。今の皇が皇位を退けば、俺以外に「証」を持った皇が生まれる可能性があるが、そんなことをすれば、恵に皇がいなくなる。だから、次の皇の誕生させるためには、俺が命を断つしかない。――だからといって、俺が皇になる資格はない。俺が皇位を継げば、恵は妖獣に襲われる」
 自らの死を口にする度、死に対する怖れは声色に出るのではないかと、心配だった。できるだけ淡々と、なんでもないことのように事実を告げたかった。果たして、それができているだろうか。自信はなかった。
 今、この場にいる人間の顔を見たら、余計な感情が溢れ出てしまいそうで、翡翠は俯く。だが、俯けば、自分の手に重ねられた白琳の手が視界に入った。逃げ場がない。そんな気がする。
「翡翠様」
 静かに声がかかり、思わず顔を上げてしまう。
「話してくださってありがとうございました。でもやっぱり今は休んでください」
「だが……」
 酷い話をしたという自覚はある。なのに、どうしてこんなにも優しく笑むのだろう。――これでは本当に、気持ちが揺らぎそうになる。
「妖獣を倒すにしても、今の状態で十分戦えるでしょうか? ――その状態で恵の人を助けられると思いますか? 命を引き換えにして妖獣を倒すより、万全な状態で戦って妖獣を倒す方が、多くの人を救えると思いませんか?」
「……分かった」
 一気に話したせいだろうか。身体が疲労を訴えてくる。眠気に誘われるままに瞳を閉じ、翡翠はあっというまに眠りに落ちた。

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