史書

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  第七章 守りたかったもの 5  

 夜が更け夜の闇に、光石の仄かな明かりが浮かびあがっている。淡い橙の光に映し出される翡翠の姿を見ながら、白琳は子供の頃のことを思い出していた。眠る翡翠の眉間には皺が刻まれ、お世辞にも顔色が良いとはいえない。子供の頃の「灑碧」のようだと思った。
 あの頃よりも姿はずいぶんと成長しているが、力の代償を払う翡翠を見ていると、否応なしに子供の頃のことを思い起こさせる。けれど、あの頃とは違う。今、自分には翡翠を助けることができる力がある。――そう、白琳は自身に言い聞かせた。そして、違うのは自分だけではない。子供の頃の「灑碧」は皇になろうとしていた。
「白琳さん」
 静かに声がかかり、白琳は顔をあげる。
「挺明稜様」
 少し困ったような笑みを浮かべる挺明稜からは幼い頃の面影はあまり感じられない。白琳が恵にいたころは、宵汐と灑碧を慕いながらも、二人よりも歳が下だということもあり、不安そうに二人の後ろに付いて歩いている印象だった。だが、今はあまりそんな印象は感じられない。
 宵汐との会話の端々から、しっかりと支えているのだと感じられた。翡翠が、周囲に「皇になる資格はない」と告げ、再び、眠りについた後、それまで翡翠に対し、強気な姿勢で接していた宵汐が俯いてしまった。そんな宵汐を励ましていたのが、挺明稜だった。この歳まで生きてきた「灑碧」が今更死を選べるはずがないと言ったのだ。
 宵汐と挺明稜の姿を見て、やはりなんとしても翡翠に「死」を選ばせてはいけないと思った。命を落としても良いという翡翠の言葉を聞いて涙を流す瑠璃の姿を見て胸が痛くなった。それに何より、白琳自身が、翡翠を失うなど耐えられない。
「白琳さん、ずっと兄上の傍にいるみたいですが、少し休憩したらどうでしょう。まだ夕食もとっていないのですよね?」
「ですが……」
 自分の医者としての腕に自信がないわけではない。だが、翡翠の傍を離れるのが不安だった。翡翠の口から「命を絶つしかない」という言葉を聞いてしまった。自分が翡翠の傍にいる限り、そんなことを許すつもりはないが、翡翠の口から直接聞き、またいなくなってしまうのではないかと思った。
「兄上のことはしばらく看てますから。紅貴君が夕飯作ってましたから、少し休んできてください」
 そう言い、挺明稜はかすかに笑った。白琳は無意識に込めていた手の力を抜いた。
「ありがとうございます」
 頭を下げ、そっと立ち上がり、白琳は、紅貴らがいる、居間として使われている一室に向かった。自分が重いつめてどうするのだ。今一番辛いのは自分ではない。かけがえのない人を支えるためにも、一旦気持ちを切り替えよう。
「あ、白琳。俺たちはもう、食事を済ませたんだけど、食べる?」
「はい。お願いします」
 そう、軽く笑みを作って言うと、紅貴が台所に消えていく。
「白琳、翡翠の様子はどう?」
 瑠璃の目元が微かに赤らんでいる。声こそ明るいが、先ほどまで涙を零していたということを如実に表している。
「今は眠って……挺明稜様に看ていただいてます」
「そう……。白琳は大丈夫?」
 思いがけない言葉に、白琳は思わず目を見開くが、すぐに瑠璃に笑みを見せる。きっと、引き攣った笑みになってしまっているだろう。だが、それを無理に消すつもりはなかった。そこまでの余裕はない。
「正直なところ、翡翠様がいなくなってしまうのではないかと思ってしまう時があります。…いえ、私の力があれば翡翠さまを助けることはできるのです。でも……」
「私もそう思っちゃうんだよね……白琳の力は信じてるんだけど、翡翠あんなことを言ったから」
 瑠璃に向ける深い青が微かに揺れた。泣く寸前のような表情だ。
「この旅を始める前に、翡翠言ったの。洸に行くということは、もしかしたら死ぬ可能性もあるって……今思えば、翡翠がそう言ったのって、死んでも良いっていう意味だったんじゃないかって」
「翡翠、そんなこと言ったのか」
 皿にのったおにぎりを持ち、紅貴が戻ってきた。食卓の上に置き、足を組んで座った。
「あの時は死ぬつもりはないって言ってたけど、今思えば、それって洸を救うまではって意味だったんじゃないかって思って……」
「……嘉の武官である以上は嘉の王の命が絶対。だから、洸を救うまでは死なない。だけど、それがなければ最初から命を捨てるつもりだったってことかな」
 紅貴が表情を消し去り、静かに言った。おそらくそうだろうと白琳は思った。――もしも、翡翠が嘉の王に命を授かっていなければ、どうしていただろう。二将軍という地位には就かず、王から直接命を受ける立場でなければ。息が詰まる。だが、それが翡翠の本心だとは思えない。
 事実、この歳まで生きてきたではないか。事実を話す翡翠の手が微かに強張っていた。
「前に白琳、「灑碧様」のために癒しの力を得たって言ってたよね? つまり翡翠のためってことでしょう? 白琳に助けられた命なのに、それを捨てようとするなんて、そんなの……命の恩人の白琳を前にして、あんなこと言うなんて……」
「瑠璃、翡翠さまは私が力を得たきっかけが「灑碧様」だということは知りません」
「……どういうこと?」
 瑠璃の眉が顰められる。
「癒しの力は、本来、証を持った者にしか使えない力で……それを得るということは、恵の民でなくなってしまうことなんです。力を得た代わりに、私は、恵に住むほぼ全ての人々に存在を忘れられました。恵という国から私の存在が失われた、と言ったところでしょうか」
「じゃあ翡翠は……」
「翡翠さまは幼い頃の私の記憶を失っているはずです。でも、後悔はしてません」
「でも、どうして翡翠だけ? 宵汐様も挺明稜様も翡翠のこと覚えてるのに」
「……私が癒しの力を得ると決めた時、宵汐様と挺明稜様には事情を話したのです。きっと、忘れたくないと願ってくださったのでしょうね。本来なら忘れるはずなのに、覚えてくださいました。でも、灑碧様には話しませんでした。話したら、灑碧様はなんとしても私を止めようとしたでしょうから」
 灑碧に自分の存在を忘れられてしまうのだとしても。自分の存在を忘れられることよりも、かけがえのない人を失うことのほうがこわかった。
 ずっと、灑碧の力になりたいと思っていたのだ。どんなに灑碧が辛そうにしている時も、何もできないことが歯がゆかった。何もできずに失うなど、いやだった。



 悲しい時はいつでも傍にいてくれた。
 父に連れられた「碧嶺閣」という場所は広く、綺麗な場所だと思ったが、知らない場所に不安を感じた。そんな碧嶺閣で出来た最初の友人が灑碧だった。
「灑碧さま、お父様が歌を教えてれたんです」
 碧嶺閣の中庭で、父親に教えられた歌を口ずさむ。子供の白琳にとっては難しい言葉もたくさん使われていたが、自分を生んですぐに死んだ母が好きだった歌だと思うと、とても綺麗な歌に思えた。
「綺麗だな」
 歌い終えた白琳に、灑碧が静かに言った。灑碧のその言葉に、嬉しさでいっぱいになる。自然と笑みを浮かべ、白琳はひとつ提案をすることにした。
「灑碧さまも一緒に歌いましょう」
「やだよ。歌、苦手なんだ」
 そう言い、微かに頬を赤らめそっぽを向いてしまった。
「わかりました。では、もう一回聴いてくれますか?」
 灑碧の返答を待たずに、もう一度歌う。死んでしまった母はどんな風に歌っていたのだろうと想像しながら音を乗せると、しばらくして小さく灑碧の声が重なった。白琳の声よりも少し低い灑碧の声が混ざり合い、穏やかな風が歌声を辺りに運んでいく。とても嬉しかった。灑碧と一緒にいると、嬉しいことばかりが起こる気がする。
「歌を聴いてくれたのも、一緒に歌ってくれたのも灑碧さまだけです。みんな、剣の稽古が忙しいて言って、女の子は、歌なんか役に立たないって言って聴いてくれなかったんです」
「剣は碧嶺閣にいる貴族の子供のたしなみだからな」
 そう言って灑碧は、自分の手を見下ろした。しまったと、白琳は思った。その手には豆ひとつない。灑碧は他の同じ年頃の子供のようには剣を振るえないのだ。白琳にとっては難しい話だったため、よく分からなかったが、灑碧の身体は力を使った代償を払っているのだと、父親が言っていた。
「私、灑碧さまの方が好きです」
 灑碧がきょとんとした表情でこちらを見つめ返す。剣をうまく扱えても、白琳の歌を聞いてくれない他の男の子よりも、たとえ、剣を扱えなくても、一緒に歌ってくれる灑碧の方が、白琳は好きだった。
「前から思ってたけど、白琳は俺が怖くないのか?」
 白琳は不思議に思い、首をかしげた。灑碧が周囲の大人たちに恐れられているのは知っている。翠色の瞳が不気味だと言うのだ。白琳にとってはそれが不思議だった。翠色の瞳は宝石のようで、綺麗だし、灑碧はこんなにやさしい。なのにどうしてみんな灑碧を怖がるのだろう。
「私は、灑碧さまが好きです!」
 白琳がそういうと、灑碧はしばらく俯いていたが、やがて、小さく「ありがとう」という声が聞こえた。


 いつもの時間に中庭に来たが、その日は灑碧の姿が見えなかった。中庭を吹く風が、いつもより冷たく感じられる。こういう時は決まって――
 白琳は駈け出し、灑碧の部屋へ向かった。嫌な想像が当たってしまった。灑碧が部屋で寝かされている。白琳は灑碧を囲むように座っている大人たちを押しのけ灑碧のすぐ傍に座った。力の代償を払った灑碧は苦しそうに眉間に皺を寄せている。肌が赤らみ、茶の髪が肌に張り付いている。
 とても辛そうだ。隣に座っていた、皇が灑碧の手を握り、その手が柔らかい光で包まれた。しばらくして、灑碧の苦しそうな表情が少し和らいだが、それでも辛そうなことには変わりはない。
 いつも灑碧に助けてもらっているのに、灑碧が辛そうな時、自分は何もできない。
――お医者さまになれば、灑碧を助けることができるのだろうか
 だけど、父は、灑碧のそれは病とは少し違うと、言っていた。それでも力になれるだろうか。皇の横に座っている白琳の父が、薬箱から薬を取り出し、皇に何事かを囁いた。
「白琳、灑碧様はもう大丈夫だ。行こう」
「うん」
 父に声をかけられ、白琳は立ち上がった。
 翌日には、全快とまでは行かなかったが、灑碧は少し元気になっていた。布団の上で身体を起こしている灑碧のすぐ横に白琳は座った。
「灑碧さま、何読んでいるんですか?」
「『史書』だ」
 白琳は灑碧が読んでいる本を覗き込んだ。びっしりと字が書き込まれ、とても難しそうだった。
「灑碧様は皇になりたいんですものね」
 きっと、皇になるためにはたくさん勉強しなきゃいけないのだろう。勉強が嫌いだと言いながらも、灑碧がたくさん勉強しているのを、白琳は知っている。
「俺、皇になれるのかな」
 灑碧が本をぱたりと閉じ、言った。
「灑碧さまは「証」を持っているのでしょう」
「「証」があっても、俺は弱いから。……皇になりたいけど、俺は……」
 白琳は灑碧の手に自身の手を重ねた。白琳の手よりは大きいが、日頃剣を扱っている堅い手ではない。だが、優しい手だ。その手は碧嶺閣で迷子になった白琳を見つけ出してくれた。躓きそうになった白琳を支えてくれた。
「灑碧さまは優しい皇さまになります」
 笑みを浮かべ、灑碧に言う。大人になって、優しい皇さまになる灑碧を見てみた。そして、そんな灑碧を助けられるようになりたい。

 そんな灑碧が死んでしまうかもしれないという。辛そうな灑碧は何度も見てきた。そのたびに、力になれないことが悲しかったのだ。だが、いつもとは違う。どんなに皇が「癒しの力」を行使しても、灑碧の辛そうな表情が和らぐことはない。都を襲おうとした妖獣を、力の行使により、無理やり倒したのだという。
「灑碧さままで死なないでください……!」
 悲鳴のような声が上がってしまった。父も母もいない。灑碧まで死んでしまったら……。
 うっすらと瞳が開かれるが、翠色の瞳はぼんやりとしている。自分の声は届いているのだろうか。このまま死んでしまうのだろうか。
 これ以上、大切な人を失うなど、耐えられない。灑碧が皇になるところを見たい。きっと、灑碧ならば優しい皇になるはずなのだ。これまであんなにも優しく自分に接してくれたのだから。
「私の癒しの力を使えば灑碧さまを助けられるんですよね。お父様が私は、強い癒しの力が使えるって」
「駄目よ! そんなことしたら白琳は……」
 宵汐が、白琳の言葉を遮った。
「宵汐、白琳の言うとおりにしましょう」
 低い声で、萩が言ったが、それでも、皇も、宵汐も、挺明稜も白琳をとめよとする。
「灑碧はいずれ、皇になる人間よ。ここで失うわけにはいかないでしょう。……皇、灑碧はあなたにとっても、恵の人間にとってもずっと望んでいた皇子でしょう」
 その場にいる皆が押し黙り、灑碧の苦しそうな息遣いだけが聞こえる。皇が灑碧の手をきつく握ったあとで、白琳の方へ向き直った。
「白琳……すまない」
 深く頭を下げられた皇に白琳は静かに首を振った。これで、灑碧を助けることができるのだ。
「兄上、兄上……」
「挺明稜さま、灑碧さまには言わないでください」
 挺明稜が、再び意識を失ってしまった灑碧を起こそうとしたが、白琳はそれを止めた。
「灑碧さまに言ったら、灑碧さまは私を止めようとするでしょう。でも、私は灑碧を助けたい……!」
 唇をかみ、挺明稜がこちらを見た。手をきつく握りながら、灑碧と白琳を見比べ、やがて、挺明稜は灑碧の名を呼ぶのをやめた。



「私は、どうしても灑碧様を助けたかったんです。灑碧様は皇になることを望んでいて……そんな灑碧様が皇になる姿を見たいと思っていたんです」
「翡翠、自分には皇になる資格がないって言ってたけど、子供の頃は違ったんだね」
 ぽつりと言った瑠璃の声に、白琳は頷く。
「正直なところ、今、私は、翡翠さまに皇になって欲しいというよりは、ただ生きていて欲しいだけなんです。ですが、翡翠様にこの先、ずっと生きてもらうためには、皇になるしかないんですよね? 自分でも勝手だと思いますが、私は、翡翠様に生きてもらうために、皇になって欲しいんです」
皇になる重圧など想像できない。皇として生きるのは想像を絶するほど大変なのかもしれない。だが、それでも生きていれば良いことがあると、信じたかった。自分が翡翠を支えるからと、伝えたかった。
「それに、翡翠様は、自分が皇にふさわしくないって言ってましたが、そんなことないと思うんです。翡翠様が、名を変え、恵を離れることになったのはは、恵のためですよね? そんな決断をできる人が、ふさわしくないとは思えないのです。翡翠様が心から死を望んでいるとは思えないですし」
「……なぁ、翡翠が子供の頃、皇になりたいと思っていたのって、もしかして白琳のためじゃないか?」
 紅貴の言葉を飲み込むのに時間がかかった。その意味を理解して、白琳は口元にそっと手を当てた。
「私のため?」
「あ〜そうかもしれない」
 うんうんと、頷き、瑠璃の言葉が続いた。
「俺もさ、洸を救いたいと思ってる。でも、最初そう思ったきっかけって、俺にとって大切な人を守りたいと思ったからだからさ、翡翠もきっかけはそうなんじゃないかって」
 子供の頃の灑碧が、皇位を望む理由など、考えたことがなかった。漠然と、恵を守るためだろうと思っていたのだ。
「もしかして、紅貴にも好きな人いるの?」
「瑠璃が考えているような人じゃないよ。でも、俺、そいつらのこと守りたいから、そのためには洸をなんとかするしかないって思ったんだ。……俺が子供の頃にも大切な人はいたんだけど、俺、その人のことは守れなかった。だけどもう、そんな思いしたくないんだ」
 力強い言葉で紅貴が言った。翡翠だったらまず言わないような素直な感情を表した言葉だ。そのまっすぐな瞳が、皇になりたいと言った幼い頃の灑碧の姿に重なる。
「翡翠のやつ、白琳は傍にいるし、妖獣に襲われているといっても、恵という守るべき国はあるし、なにも失ってないじゃないか。なのに、なんで勝手に死のうとしてるんだろうな。白琳を悲しませるのはやれること全部やってからにしてほしいよな」
「いえ、私は……」
「俺はやっぱり、命を絶つって言ってる翡翠が許せないんだ」
「わたしも紅貴と同じ意見。白琳、私、決めた。何があっても、翡翠が死を選ぶなんて許さない」
 瑠璃も本当は不安で仕方がないのだろう。だが、少し震えながらも、力強い声で言った。自分だけではない。誰も翡翠の死を望んでいない。
「そうですね。わたしももう、あんな想いはしたくないです」


 嘉に来てしばたく経った時、「灑碧」の死を知らされた。白と黒の世界に塗り替わったような錯覚をし、涙すら出なかった。
 だが、生きていた。「翡翠」だと名乗った少年の瞳は、以前よりも輝きを失っていたけど、優しさは携えたままだった。また会えて、本当に嬉しかった。

 翡翠がいるこの世界をもう、二度と失いたくない。
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