史書

戻る | 進む | 小説目次

  第七章 守りたかったもの 6  

 

 「報告が届いたのね。龍孫」
  柔らかな聞きなれた声を聞きながら、龍孫は手に持った報告書に視線を落としたまま頷く。丸みを帯びた文字は桃華の物だ。今は恵にいる桃華から、報告が届いたのだ。
「恵の皇位継承者、灑碧が生きていると公の場で明かしたそうだ」
「まぁ、本当に」
 龍孫が顔をあげると王妃清幟(せいし)が口元に手を当てて声をあげた。
「それでは、翡翠は皇位を継ぐ決意を?」
「いや、それはまだのようだ」
 桃華の報告書には、恵の様子が記されていた。妖獣が各地に現れていること。瑛達が生きているということ。妖獣の発生は瑛達が引き起こしたものではないかということ。――そして、恵の皇位継承者、翡翠のこと。桃華は、恵に、灑碧が生きていると明かしたが、当の翡翠は皇位を継ぐ気はないと言ったという。
「ねぇ龍孫、覇玄も言っていたけど、翡翠に真命は使わないの? 二将軍は嘉国の最高位の武官だけど、どんな命令でも逆らえないという真命の制約を受ける官。真命を使って皇位継承者として恵に戻るように翡翠に命じたら、逆らえないのでしょう。そういったことができるから、翡翠を二将軍にしたのだと思っていたわ」
「翡翠を二将軍にしたのは、剣の実力と、いざとなったら清幟が言う通り、真命を使えるからだ。だが、恵の皇位継承に関して、真命を使う気はない。翡翠に真命を使うとすれば、それは『死ぬな』という命だよ……それももう、必要なくなると思うけれど」
 龍孫は、剣の実力という部分に力を込めて言った。翡翠に真命を使えることが龍孫にとって都合が良かったことは確かだ。それゆえに、翡翠を二将軍にしようと考えたのもまた事実だった。だが、それでも、翡翠に剣の腕がなかったら、二将軍にはしなかっただろうと思っていた。
 きょとんした表情で一瞬目を見開いたかと思うと、すぐに淡い桃色の口元に笑みが浮かんだ。
「あの子たちのこと信じているのね」
 龍孫は頷く。
「恵から皇がいなくなれば嘉もどうなるか分からない。それでも私は翡翠を信じたい。――恵の姿を自分の目で確かめた翡翠が、そのまま放っておくとは思えない。死を選ぶこともできないはずだ。翡翠には大切な者がいるのだから」
「そうね。私も龍孫と龍清と一緒にいたいもの。ねぇ、龍孫、やっぱりあの子たちを洸に行かせたのは、途中で必ず恵を通ることになるから?」
 清幟が楽しげに笑うが、龍孫は静かに首を振る。
「それも確かにあるが、私は、この世界の仕組みに従っただけだよ。他の誰でもない、あの子たちが洸に行く必要があったのだよ。翡翠はずっと、恵の皇になることを拒み続けていた。そんな時に、あの子供、紅貴がやってきた。洸を救ってくれとな。それが偶然だとは思えなくてな。来たるべき時が来たと思ったのだよ.。親友であったあいつ――紅翔の願いを叶える時が」
「そういえば言ってたわね。あの子たちを洸に向かわせると決めた時、その決断は単なる私情なんじゃないかって。でも、それだけではないのでしょう?」
 自分の気持ちを言い当てたように清幟が言った。清幟はいつもそうだ。あの4人を紅貴と共に、洸に向かわせると決めた時だった。それが王としての決断ではなく、単なる私情ではないかと、思い悩んでいた。けれど、それは王としての決断が私情と重なってしまっただけだと、清幟は言った。たしかに清幟の言うとおりだった。自分以上に、清幟は自分のことを分かってくれている。そう、龍孫は思っていた。
 だからこそ、清幟の前では本音で話せる。嘉の民の前では当然のように作り上げる王としての顔を見せたころで、どんな本音も見抜く清幟の前では無意味だ。
 龍孫は本音のまま清幟に言う。
「このままでは、そう遠くない未来に双龍国の国々は洸に呑みこまれるだろう。洸と凛河の盟を結んでいる嘉もな。だが、ただ洸の王を倒せば良いわけではない」
「そのためにあの子たちを行かせたのね」
 龍孫は頷き、一瞬の間のあとで、慎重に口を開いた。
「そうだ。だが、翡翠が恵の皇位を継がなければそれも無意味になる」
「それでも真命を使わないなんて、本当に信用しているのね。あの4人のこと」
「清幟、翡翠が15になった年のことを覚えているか?」
 龍孫が問うと、清幟はその細い指先を顎にそっと当てた。懐かしそうに目を細め、口元に優しげな笑みが浮かぶ。
「えぇ。覚えているわ」
「私は、翡稜の気持ちを尊重したいのだよ」
 


 翡翠が15、年齢の上では成人を迎えた年、嘉と恵の間で会談が設けられた。国境を接している嘉と恵だ。その二国の会談は一年に一度は行われていた。会談が行われる場所は嘉と恵交互であり、翡翠が15になった年は、嘉で行われた。
 嘉と恵の流通、洸の動きや小国群などの一通りの話を終え、煌李宮の廊下を、妃の清幟、恵の皇、翡稜と並んで歩いていた龍孫は、王の顔を崩し、友人としての表情を見せ、言った。
「翡稜、成人した翡翠の顔を見ていくか? ちょうど今、翡翠が煌李宮に戻ってきていてな」
「いや、いい。だが、あの黒天馬だけは、翡翠に渡してくれ……私の名は伏せてな」
「成人の祝いか」
 微かに笑いが混ざった声で龍孫が言うと、翡稜はため息をついた。母親似の翡翠は見た目こそ、翡稜に似せいないが、性格の方はそっくりなのではないかと龍孫は思った
「……あの天馬は灑碧が子供の頃に大事にしていた天馬の仔だ。肝心の親の方は仔を産んで死んだが、あの天馬も、ここにいた方が幸せだろう」
 それがどこか言い訳のように聞こえ、龍孫は声を立てて笑った。政の話とは別に、最近の嘉や恵の様子を報告しあいながら、龍孫は、翡稜を煌李宮の庭園を見渡せる位置まで連れて行った。
 開けている渡り廊下はひんやりとした空気で満たされている。
 今は止んでいるが、珍しく雪が降ったため庭園は一面真っ白だった。白い地面に日の光が降り注ぎ、眩しく輝いている。
「今年の冬は寒いわね」
 清幟がそう言った時だった。静かな足音と共に声が聞こえた。
「なぁ〜翡翠、剣の相手してくれよ」
「何度も言ってますが、龍清様と剣を交えるつもりはありません」
 「翡翠」という名前に、翡稜は柱の陰にそっと、隠れた。だが、視線はしっかりと翡翠の方に注がれている。音にこそならなかったが、その口元が、「翡翠」という名を紡いだ。
「どうせ翡翠が剣の相手してくれないのって、寒いからとか、雪の中で剣を振るうのが面倒だからとかだろう! せっかく雪降ったんだ。剣の相手してくれよ」
 龍清が翡翠の着物の袖を引っ張って言った。翡翠は龍清を引きはがそうとしていた。だが、なかなか離れようとはせず、ため息をついた。
「一度だけですよ」
 龍清はにっと口元を横に引き、持っていた二本の木刀のうちの一本を翡翠に手渡した。翡翠の方はそれを面臭そうに受け取り、ため息をついた。龍清が翡翠から距離をとり、向かい合ったところで、ようやく翡翠は顔をあげた。
 冷たい空気を切り裂くように、龍清が動き出す。まだ龍清は子供だが、その動きは剣の心得がある者の動きだ。鋭い剣が翡翠に向かって繰り出されたが、翡翠の方は、右足を一歩後ろに下げただけで、龍清の剣を受け流した。
 続けて繰り出される剣も、子供にしては鋭いものだったが、翡翠はその場からほとんど動くことなく、龍清の剣を流している。翡翠の周囲の地に足跡はほとんど増えていない。
 隙がないのだと、龍孫は思った。その癖、おそらく翡翠の方は、本気ではない。なんだかんだで、龍清に合わせて剣の打ち合いを長引かせているようだ。一方で、龍清の方は、歳の割には剣の腕があると言っても、隙だらけだ。まだまだ伸び白はあるな、と思い、龍孫はそっと微笑んだ。
 やがて、雪の地に静かに、龍清の木刀が落ちた。
「翡翠、もう一度だ!」
 龍清はすぐに木刀を拾い、再び、翡翠に剣を向けたが、翡翠は木刀を持つ右手を下げたままだ。
「一度だけだと言ったはずですが」
「そういうこと言って、俺に負けるの怖いんだろう! 勝負しろよ!翡翠!」
 翡翠はため息をつき、木刀を地に落とし、腕を組んだ。
「……おっしゃる通りです。龍清様に負けるのが怖いので、今日は私の勝ち逃げとさせてください」
 まったく感情がこもっていない様子で言い、翡翠は龍清に視線を合わせて腰を落とした。
「それより、書庫に行くと言ってませんでしたか? 今日中に亮様のからの宿題を終えないと、また叱られるのではないのですか?」
「そうだった。行こう、翡翠」
 龍清が再び翡翠の着物の袖を引き、歩き出す。翡翠の方は、面倒だというように、ため息をついていたが、龍清に引かれるままに歩いていた。
 龍清と翡翠が庭園から去ったあとで、翡稜が、柱の陰から出てきた。
「翡翠、大きくなったな。最後に翡翠を見たのは、8年前のあの日だったが……」
 翡稜が目を細めた。そこに浮かぶのは、自分の子供が成長したことへの喜びか、それとも近くでその成長を見れなかったことへの後悔だろうか。その両方かもしれないと、龍孫は思った。
「……話には聞いていたが、翡翠が剣を扱えるようになっているとはな」
「父親の才能を受け継いだようね」
 清幟が声を弾ませながら言うが、翡稜は首を振る。
「翡稜、このまま翡翠を恵に連れて帰ったらどうだろうか」
「……いや」
 翡稜が庭園に降りて行き、龍孫と清幟もそれについていく。翡翠がつけた足跡のすぐ横に立ち、翡稜はそれをじっと見つめた。
「龍孫、あいつは恵の皇になる決意をしたか?」
「それは……」
 龍孫はその先を言えなかった。龍孫が翡翠に「恵」のことを話そうとすると、自分には関係ないと言って、聞く耳を持たなかった。無理に話を続けても、同じだった。
「翡翠が恵に戻る時。それは翡翠が恵の皇位継承者としてでなければならない。……皇位を継ぐ気がない翡翠が碧嶺閣に戻ってきたら、命を差し出す真似をするかもしれない。もしも「灑碧」が生きていると知ったら、の存在を消したい者は恵にたくさんいる。今の翡翠が、その者たちを跳ねのけてまで生き続けることを選択するだろうか。翡翠が恵で生きるためには、皇位を継ぐしかないが、今の翡翠がそれを選ぶだろうか。……「灑碧」の命を脅かそうとすることは許さないと宣言することはできるが、それでも翡翠が、確たる決心をしなければ限度がある。……皇位を継ぐ気がない翡翠が恵に来れば、命を落とすことになるかもしれない。それは恵の皇としても、翡翠の父親としても受け入れられない」
「……「灑碧」は怖れられているのだったな。生きていると知られれば、月宮家にとっても不都合、か。……分かった。翡翠はまだしばらくは嘉で預かろ」
「すまない。私が、恵で翡翠を守りきれないばかりに。……だが、ひとつ勘違いしないでほしい。私は、翡翠を信じている。あいつはいつか必ず自らの意思で恵の皇になる決意をする。だから、それまでの間、頼む」
 そう、強い口調で言った翡稜の表情は、子の幸せを願う、父親のそれだった。



「……恵から皇位継承者がいなくなれば、嘉もどうなるかわからない。それでも、翡稜が信じているのだから、私も信じたいのだよ」
「そうね。翡翠ならきっと大丈夫よ。なんといっても、翡稜と祥玲の子供で、あの萩が育てたようなものですもの。それに、翡翠の周りには桃華に紅貴に瑠璃。そして、白琳がいるもの」



 部屋の外が少し騒がしいと、思いながら、紅貴は木の戸の先を見つめる。
 萩の家にきて数日過ごし分かったことだが、萩の家には、昼過ぎ、子供が学問を学びに来ていた。恵には学校はあるが、その後の時間でさらに勉強したい子供たちが萩の元で学問を学んでいるという。貴族の家などであれば、講師を家に招き入れるらしいが、萩が教えているのは、そういった家の子供ではない。
 貴族ではないが、恵の武官や文官になりたい子供に対し、学校での勉強だけでは足りない部分を補う形で教えてるという。とはいっても、ずっと勉強しているわけではない。
 その日の勉学を終え、日が沈む数刻前になると、遊び始めるのだ。少年らは木刀の打ち合いをし、少女たちはそれをはしゃいだ様子で見つめる。恵でも嘉でもこういうところは同じだと紅貴は思った。ただ、違うとすれば、恵ではそれがどこか不自然に感じられるところだ。子供が笑う。だが、それは恵が妖獣に襲われている事実を忘れようと無理して笑っているように見えた。
「紅貴入るよ〜」
 戸が開き、桃華と、10歳くらいの少女が入ってくる。
「桃華、碧嶺閣から戻ってきたのか?」
「うん。さっきね」
 榛柳に来てからというもの、桃華は碧嶺閣と萩の家とを頻繁に行き来していた。
「お兄ちゃん、目覚めた?」
「いや、まだだよ」
 少女が言うお兄ちゃんとは翡翠のことだ。紅貴の答えに、少女が花を両手に持ったまま俯く。
「お兄ちゃん、大きな怪我をしたんだもんね」
 紅貴は少女に近寄り、少女の頭を優しく撫でた。
「お兄ちゃんなら大丈夫だよ。白琳も言ってただろう?」
「うん! あのね、これお兄ちゃんに持ってきたの起きたら渡してくれる?」
 紅貴は少女から花を受け取り、頷く。少女が部屋から去ったあとで、花瓶に花を差した。花瓶にはすでに他の花が飾られている。萩の元に学問を学びにやってくる子供たちが、すでに何度か持ってきたのだ。
「翡翠は変わらず?」
 桃華が紅貴の横に座り、尋ねる。
「うん。見ての通りだよ」
 紅貴が向けた視線の先には眠る翡翠がいる。数日前よりはいくらか顔色がよくなっているが、目覚める様子はない。白琳が大丈夫だと言っていたのだから実際大丈夫なのだろうが、なんとなく落ち着かない。
 翡翠の口から聞きたい言葉があるのだ。
「なぁ桃華、俺、どうしても翡翠に死んで欲しくないんだ。桃華はどうなんだ?」
「私も。いや、ちょっと違うかも。私は翡翠に生きていて欲しいというより、翡翠に恵の皇になって欲しいの」
「……そうだよな。証を持つ王を失った国は、滅んでるもんな。貧困に苦しんだり」
「それもそうだけど、恵から皇がいなくなれば、嘉もどうなるか分からないから。私は、嘉の武官である以上、嘉を守らなきゃいけないもん」
「双龍国で最初に出来た国。それが恵だもんな」
 桃華は頷いた。
「妖獣が支配をしていて人が住める世界ではなかった世界に、妖拳士の巓(てん)一族と、妖術使いと、妖刀使いの煌桜家が生まれて、少しは妖獣に対抗できるようになった。けど、それでも完全じゃなかった。そんな世界に人が住める国を創ったのが恵の初代皇。3つの一族を従えて、地と契約して、皇としての力を得たのんだよね。で、恵が出来て以来、恵の中であれば、人が住めるようになった。夜になれば妖力が強まるっていうものやその他にもいくつか決まりはあったけど」
「恵の次に出来たのが嘉だっけ?」
「うん。人が住めるようになったとは言っても、それは恵の中だけだったから、もっと住める場所を増やそうとしたんだよね。その時、双龍国にすむ全ての人が恵に救いを求めてやってきたけど、それを全て支えるのは無理があって」
 桃華が言っているのは『史書』の中身の話だ。内容としては間違っていないはずなのだが、実際の『史書』にはもっと堅い文で書かれている。桃華が言うと、同じ『史書』でも別のものに感じられる。
「なんだか桃華が言うと、『史書』の話をしてるって忘れそうになるよ」
「内容は合ってるんだから良いでしょう?」
「恵の皇に力を分けてもらう形で嘉の王が誕生して、嘉ができた。最終的には諸国を放浪するようになった巓(てん)一族も、この時は、嘉に付いていったんだよね。それで嘉にも人が住めるようになった。同じようにして、双龍国に次々と国が出来た。……ようするに双龍国の仕組みを創ったのは恵の皇。もしもその皇がいなくなれば、嘉もどうなるか分からない。だから、恵の皇位継承者が恵を放棄するのは許せない。――皇位を継承できなくて、自分は命を絶って次の皇に託すっていうなら、それも一つの手だと思う」
「桃華!」
 予想外の言葉に、紅貴は思わず声を荒げた。
「……でも、私ね、翡翠と長く付き合いになっちゃったし、瑠璃も白琳も翡翠がいなくなったら悲しむの分かってるから、死んで欲しくないの。嘉の武官っていう立場を忘れれば、そういうの嫌だし」
「……そっか」
 桃華が、翡翠が命を絶つことを否定したのを聞き、紅貴はそっと肩を撫でおろした。そう、呟くように声を漏らした時だった。翡翠がうっすらと目を開けた。ゆっくりと身体を起こし、ぼんやりとした視線が紅貴に向けられる。
「白……」
 白琳は?と言おうとしたのだろう。だが、翡翠は途中で言葉を止め、視線を紅貴から逸らした。桃華が立ち上がり、冷ました湯を湯呑に入れて持ってきた。それを翡翠に渡しながら、紅貴は言う。
「白琳なら榛柳に行ってる。あぁ、宵汐様直属の武官がも一緒に行ってる」
「……あれから何日たった」
「3日かな」
「……3日もか」
湯呑を床に置き、 ため息交じりの声で翡翠が言った。
「妖獣は相変わらず発生してるのか?」
「うん。でも、妖獣発生時の対策は宵汐様中心に打ってるし、恵の人も皇の守りが及ぶ榛柳に来てるから。……言っておくけど、今の翡翠が妖獣と戦ったところで、紅貴以下の戦力だと思うの。だから、白琳が言うこと聞いた方が良いわ」
 きっぱりとした口調で桃華が言い、翡翠は深くため息をついた。
「じゃあ私、子供たちを家まで送ってくる。そろそろ夕暮だし」
 桃華が立ちあがり、部屋を出ていく。翡翠と二人だけになった部屋で、紅貴はぼんやりと正面を眺めている翡翠の横顔を見つめていた。本当に翡翠は恵の皇位を継ぐ気がないのだろうか。だが、子供の頃の翡翠はそうではなかったと白琳が言っていた。
 それに翡翠が白琳を大事に思っているのは間違いない。本当にこれっぽっちも皇位を継ぐ気はないのだろうか。疑問が自然と声に漏れてしまった。
「なぁ、翡翠、本当に恵の皇位を継ぐ気はないのか? 死ぬって本気か?」
「……あぁ」
 明らかな嘘だと思った。こちらを見ずに言い、強い意思も感じられない。
「だとしたら、俺は翡翠が許せない」
 翡翠が嘘をついていると感じながらも、紅貴は言う。
「洸には「証」をもった王がいない。だから正直、俺は嘉や恵が羨ましい。だけど、その恵の証を持った奴は、命を絶つなんて言って……八つ当たりみたいなもんかもしれないけど、納得できない。翡翠は恵のことなんてどうでも良いのか?」
 どうでも良いはずがないと知りながらも言うと、翡翠の手が堅く握られるのが見えた。
「そんなはずないだろう。ここは一応生まれ故郷だ」
「じゃあなんで、恵を捨てる真似するんだよ」
「恵を捨てる?」
 翡翠の顔が紅貴に向けられ、翡翠の瞳が細められる。
「だってそうだろう? 証を持った人間がわざわざ命を絶つってことは恵を捨てるってことだろう?恵も白琳も傷つけて何がしたいんだよ」
 堅く握られた手がさらに強く握られ、血管が浮き出る。感情を押し殺しているようだった。
「……恵を救うためには、俺が命を絶つしかないと言ったはずだが?俺がいる限り、恵は不幸になる」
「恵が妖獣に襲われているのは翡翠のせいじゃなくて、あいつ、瑛達のせいだろう? 恵をこんな風にしている瑛達を許せなくて、本当は白琳が悲しむ顔も見たくないんだろう? だって白琳が涙を流している時、翡翠は……」
 瑛達の名を出すのも正直、嫌だったが、紅貴がはっきりと告げると、翡翠が俯く。
「俺は確かに子供の頃は恵の皇になることを望んでいた。だが、望んだ結果がこれだ……俺が皇になれば恵には災いが起きる。分かりきったことだ」
 その声が微かに震えている。聞きながら、紅貴の中で、湧き上がってくる感情があった。翡翠と同じ想いを自分は知っているような気がする。

――俺が妖獣を呼べば、みんな苦しむ……! だからもう、妖獣は呼ばない!

 数年前、紅貴は確かにそう叫んだ。それ以来、紅貴は妖獣を呼ぶことはなかった。だが、瑠璃、白琳、桃華、翡翠とここまで旅をしていくうちに、大切なモノを守りたいと思った。だが、同時に自分の無力さも知った。だから、本来ならば扱えるはずの力――妖獣の力を使ったのだ。
 けれど、数年前に抱えた想いが完全に消えたわけではない。だからこそ、翡翠の気持ちが分かる。

「翡翠、もしかして皇になることを恐れているのか?」
「……そういう問題じゃない。俺は王の器じゃない。本当に俺に皇の資格があるなら、最初からこんなことになってないだろう。恵がこんなことになってるのは、俺にその資格がないからだ」
「それを言うなら、最初から翡翠は、恵家に生まれてないだろう? なぁ翡翠」
 紅貴は口元を釣り上げ、笑みを作る。もう、一歩も引く気はなかった。
「俺と賭けをしないか?」
「……は?」
 紅貴は笑みを携えたままで続ける。
「俺はある妖獣の主なんだけど、そいつ、どうしても俺の呼び声に応じてくれないんだ」
 それが何だ、と言うように、翡翠の眉間の皺が深くなる。
「その妖獣の名は『聖焔(せいえん)』」
 翡翠の瞳が大きく見開かれた。ずっと陰っていた翡翠の瞳に驚きの色が浮かんだ。知っているのだろう。『聖焔』がどういう妖獣か。
「俺が『聖焔』を呼べたら、翡翠は恵の皇位を継げよ」
 笑みを消し、翡翠の視線を射ぬき、宣言した。
「お前が妖獣を呼べることと、俺の生き死には関係ないはずだ」
「いや。そんなことないよ。恵がこんなことになってるのは、翡翠が皇の器じゃないからって思うんだろう?だったら、俺はいつまでも聖焔は呼べないはずだ」
 紅貴は再び笑みを浮かべた。
「知ってると思うけど、聖焔はこの世界の力そのものだ。今、俺は聖焔を呼ぶことが、翡翠が恵の皇だという証明になるって宣言した。そう宣言した状態で、本当に、聖焔を呼べたら、翡翠がまぎれもなく恵の皇だ。――あいつのことだ。俺たちのやりとりは見聞きしてるよ。もし聖焔が翡翠が皇だと認めないなら、俺の呼び声には応じないはずだ。それだけじゃない。あいつが翡翠を皇と認めないなら、姿を見せなくても、翡翠の命を奪うころだってできる。あいつにはそれぐらい造作もないはずだ。望み通りだろう?」
「お前……」
 翡翠の手から力が抜けている。茫然とした様子でこちらを見る翡翠に、紅貴は言う。
「俺はさ、桃華も瑠璃も白琳も悲しむなんて嫌なんだ。だから、俺はもう妖獣使いの力を恐れない。正直、今まで自分の力を恐れてたけど、もう迷わないよ」
 それだけ言い残し、紅貴は部屋を出ていく。そろそろ夕食の準備がある。

 まだ、恵を襲う妖獣の問題が解決したわけでも、皇位継承問題が解決したわけでもない。だが、少し気持ちが軽くなるのを紅貴は感じた。
 


 
戻る | 進む | 小説目次
inserted by FC2 system