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  第八章 止まぬ雨 2  

 

 灑碧が生まれた日の事は、未だによく覚えていた。女の歳は、まだその時十にも満たない子供だったが、だからこそ、その日の記憶は子供心に鮮明に残っていた。都で生まれた少女は、その日いつものように外で遊んでいた。「灑碧」が誕生したのは昼のことだった。外で友人と語らっていると、急に空から雲が消えていったのだ。それだけではない。冬に近い秋の空は確かに冷たかったはずなのに、まるで春風のように暖かくなった。不可思議な現象であるにも関わらず、不思議とそれに不気味さは感じなかった。それどころか、その現象に暖かな気持ちにになっていいくのを、少女は感じていた。
 異変を感じたのは、自分だけではなかった。その変化に、周りの子供も、驚いた様子で目を瞬かせていた。何か特別なことが起こっている。そう思いながら、周りの子供たちと共に辺りの景色を眺めていると、母親がやってきた。恵に「証」をもった皇子が産まれたのだという。都で暮らしてはいても、少女にとって皇族というのは遠い存在だった。遠いおとぎ話。あるいは神話の中の人物といった印象だった。
 けれど、こうして目に分かる変化があるのを見た少女は、初めてこの生まれ育ったこの地に皇がいるということを実感した。
 街に出れば、証を持った皇子の誕生に、人々は笑みを浮かべていた。皇子の誕生の影響か、秋には咲くはずがない花が咲き、それを摘んだ人々が、皇子の誕生を祝福するように街に飾っていた。
「証」を持った皇子は、いずれ皇になる人。少女にとって、皇子の認識はその程度であり、それがどういうことを意味するのか、難しくて分からなかったが、何かとても良いことが起こるような気がしていた。
 少女が認識した灑碧の記憶と言えば、その日のことだった。いや、少女だけではない。少女と同じくらいの歳の子供は誰もがそのはずだ。顔を見たわけでも、どんな性格なのかも分からない。だが、実際にあそこまで恵の景色が変わったのだから、きっと良いことが起こる。そう思っていた。それなのに、数年の月日が経った頃には、灑碧は恐怖の象徴になっていた。
 恵の各地に妖獣が現れたのだ。それがどういうわけか灑碧の責任にされていた。人間離れした、恐ろしい力を持った「灑碧」が引き起こしたのだと。少女の歳を過ぎ、大人になろうとしていた女は、その状況に違和感を覚えていた。女と同じ歳ごとの恵の民の何人かは、同じ違和感を抱えていたはずだ。大人たちはみな、灑碧への恐怖を口にし、子供もそれに影響されていたが、女にはそれが不思議だった。
 あの、灑碧が生まれた日のことを忘れてしまったのだろうか。まるで、恵という大地そのものが、灑碧の誕生を祝福するかのようだった。それなのに、どうして灑碧を怖れているのだろう。――得体が知れない恐怖を灑碧に押し付けているだけではないか。そう思ったが、女はそれを口にできなかった。
 誰もが妖獣を怖れていたのだ。原因が分からないままより、誰かの責任にした方が楽だ。そう思っているのかもしれない。女と同じ年頃の者たちは、時折、灑碧が生まれた日の事を話していた。他の世代は分からないが、女と同じ年頃の者たちは、妖獣発生の原因が灑碧であるという噂に疑問を感じていたのだ。
 だが、灑碧の死と共に、恵には妖獣は発生しなくなった。恵の人々は、そのことで、やはり妖獣の発生は灑碧であったと確信した。女も、違和感を残しながらも、一応はその認識に変わった。
 それからの数年後、女は別の噂を耳にした。灑碧を殺したのは、第二皇子挺明稜の母明汐だというのだ。灑碧がいなくなれば、第2皇子である挺明稜にその地位が回ってくるため、第一皇子を手にかけたのだと。だが、そうした噂が流れた後も、誰が皇位を継承するかは発表されなかった。そうしてさらに数年の月日が経ち、恵に妖獣が再び現れた。
灑碧の呪いなのではないかと、恵の人々は口にした。その恐怖と怒りは灑碧と、灑碧を殺めとされる明汐に向けられた。明汐が灑碧を殺さなければこうして自分たちが苦しむことはなかったのにと。一方で、率先して人々を助けたとされる第3皇子檜悠を称賛する声は日に日に大きくなっていった。
 檜悠が皇位を継ぐべきだという声が聞かれ、中には最初から檜悠が証を持っていれば良かったのにという者もいた。
 女としては、皇位を継ぐのは挺明稜でも檜悠でもどちらでも良かった。
 女が求めていたのは、恵を救ってくれる皇だ。今の皇が、恵を救おうとしているのは伝わってくる。その皇を助け、恵を平和な国へと導いてくれるなら、皇位を継ぐのが挺明稜でも檜悠でもかまわなかった。
 だが、やはり、あの日、灑碧が生まれた日のことを皆、覚えていないのだろうかと、不思議だった。
 灑碧が生きているという噂を耳にしたのは、妖獣が発生してからしばらく立ってからだった。それでもやはり、灑碧への恨みの声は強かったが、妖獣の原因は灑碧ではなく、灑碧が助けてくれるかもしれないと口にする者も現れた。
 けれど、ついに、都の榛柳にも妖獣が現れた。訳も分からず外に出ると、至るところから火の手があがり、人々の悲鳴が聞こえた。それに混ざって、武官の声も聞こえた。碧嶺閣なら安全だから、そこに逃げるようにと。だが、それすらも困難に思えた。あちこちに火が上がり、妖獣がいつ襲ってくるか分からない。足がすくんで動かなかった。
 恐怖のあまり、すぐ側に妖獣が近づいてきたことに、女は気づかなかった。気づいたのは、肩に激しい痛みが走ってからだった。狼のような妖獣に噛まれたのだ。このまま死んでしまうのだろうか。恐ろしさに、声すらも出なかった。
 だが、そうはならなかった。妖獣の苦しそうな声が聞こえたのだ。状況を認識できないまま、辺りを見回すと、一人の少女が、妖獣を倒していた。妖獣を斬ったその剣を振るい、血を払うと、少女はまっすぐにこちらを見た。
「ついてきて」
 そう、短く言うと、少女は後ろを向き、歩き始めた。女同様、戦う術を持たない人々を率い、妖獣を倒しながら碧嶺閣に向かっていく。少女が振るう剣は、その愛らしい見た目とは対称的に、鋭かった。決して、力強い剣ではなかったが、少女は簡単に妖獣をしとめていった。
 呆然としながら少女について行くうちに、女は碧嶺閣にたどりついた。
 碧嶺閣には皇の守りが及んでいるという話は本当だったようで、その敷地内に入った瞬間、妖獣の気配は途絶えた。
 礼を言うまもなく、少女は碧嶺閣の外に飛び出して言ってしまった。だが、同時に助かったのだという安心感も徐々にわいてきた。安心したからだろうか。一度は忘れかけていた肩の痛みも蘇り、女は奥歯を噛みしめ、広間に向かった。
 広間は避難してきた人々で溢れていた。痛みや苦しみの声とともに、やはり、灑碧への恨みの声も聞こえ、女は微かに胸が苦しくなるのを感じていた。
 灑碧がどんな人物かなど知らない。だが、だからこそ、こうして何もかも灑碧に原因を押しつけるのは妙だと思っていた。女にとって、灑碧に関する知識といえば、あの、灑碧が生まれた日の変化だけなのだ。
 呆然としているうちに、医者だという女性が女の前にやってきた。その女性の姿に女は人目で目を奪われた。白い肌にはうっすらと汗がにじんでいたが、淡く桃色に染まった頬には、同性でありながら、どきりとした。その白い肌と対称的な黒い髪は束ねられているものの、ところどこと、肩に落ちている。髪と同じ、漆黒の瞳がうっすらと細まり、柔らかそうな唇がうっすらと開いた。
「肩をやられたのですね」
「……あ、はい」
 柔らかい声が聞こえ、女は呆然としたまま頷いた。恐ろしく綺麗な女性だったのだ。その瞳も唇も、理想的に配置され、纏う雰囲気も柔らかい。その、ほっそりとした手が肩に当てられると、仄かに暖かさを感じた。痛みがどんどん引いていくのを感じる。柔らかい手が離れていき、再び女性の顔が自身に向けられる。
「これで大丈夫です」
 女性はにこりと笑い、その場を離れ、別の怪我人の手当に向かった。すぐ側にいた別の者も、女性の美しさに目を奪われたようだった。辺りは血の臭いが充満し、灑碧への恨みの声は途絶えない。絶望的な状況でありながら、その女性の存在は救いの光のように思えた。
 だが、その光に安堵したのはしばしの間のことだった。
「灑碧が姿を見せたらしいぞ。外の奴が捕らえたって」
「あいつのせいで俺達は!俺もいく」
 この一連の出来事は灑碧が引き起こしたと思われている。その確かな証拠がににも関わらず。だが、その一連の出来事で、家族を失った者もいるのだ。その怒りが確実に灑碧に向かう。そうなれば、どうなるのだろう――その先を想像すると、震えが止まらなかった。灑碧のことなど何もしらないのに、どうしてこんなにも胸が苦しくなるのだろう。
 女は辺りを見回した。すると、大多数が灑碧への恨みを口にする中で、おどおどとした様子で辺りを見回す者もいた。やはり、自分だけではなかったのだ。
 この、感情をどのように伝えれば良いのだろう。だが、そうして考えているうちに、それまでとまた違った感覚が女の身体を支配した。悪寒が全身を駆け上がる。それを感じているのは、自分だけではないのか、辺りの空気が張りつめていく。
 外の様子は分からないが、建物そのものが、恐怖に支配されたかのように微かに震えているように思えた。何が起こっているのだろうか。だが、外に出ようにも足は恐怖で動かなかった。
 その異様な恐怖が消えたのは、雨が建物に打ち付ける音が聞こえてからだった。ようやく足が動くようになり、女は状況を把握しようと立ちあがろうとした。だが、そうする前に辺りがざわついた。
「檜悠様だ……!」
 武官に囲まれた男の登場に辺りがざわついた。複数の武官に囲まれたたその男は艶やかな紺色の衣を身に纏っていた。先ほどまで外にいたのだろう。雨で濡れているが、細やかな刺繍がなされ、細やかな装飾が美しかった。腰にある剣は大きく、その剣の持ち主である檜悠の剣の腕は確かだと聞いている。たしかに、皇子らしい姿だと女は思った。
 その檜悠が、広間の中央――女のすぐ側までやってくる。ざわつく広間を見回した
檜悠がどこか悲しんでいるような表情で口を開いた。
「恵の皇、翡稜陛下が崩御された」
 その声にあたりのざわつきは一層大きくなった。中にはすすりなく声もある。外の天気が荒れているのは、碧嶺閣、宮殿に打ち付ける激しい雨の音で分かる。
 灑碧が生まれた時、恵の大地は祝福するかのようだった。であれば、皇がいなくなれば、その逆が起こる。そういうことだろうか。
 急激な悪寒は感じなかったが、指先からじわじわと冷たさが這い上がってくるのを、女は感じた。
「皆に言わなければならないことがある。皇を殺めたのは、あの灑碧だ」
 その言葉に、再び、灑碧への恨みの声が大きくなった。肩が微かに震える。横にいた年嵩の女も同じ心境なのか、女の手の甲に、そっと手のひらを重ねてきた。
「私は先帝の無念を晴らす。本来ならば、第二皇子である、挺明稜殿下が継ぐべきでしょう。しかし、挺明稜殿下は、灑碧が生きていると知るとすぐに、灑碧の肩を持った。……皇位を望んでいたにもかかわらず、自身の保身のために。そのような人物に任せてはおけない。このような状況で、偉大な先帝の後を継ぐことは心苦しいが、私が恵の皇になる。幾人もの、恵の民の命を弄んだ灑碧を私は許しはしない。挺明稜殿下の代わりに、私が恵を導く」
 そうだそうだ、と声が聞こえた。どうしてだろう。女の心には不思議と、檜悠の言葉が響かない。――本当に一連の出来事は灑碧によるものなのだろうか。そう、思っていたからかもしれない。
 なのに、皆が灑碧を許すなと声をあげる。その一方で、檜悠の言葉を簡単に信じる者がいる。それが、女には不気味だった。
 全てが不確かなのだ。なのに、どうしてこんなにも簡単に檜悠の言葉が信じられているのだろう。
「……いいえ、灑碧様は恵を救おうとしてくださっていたわ」
 得体の知れない違和感に心臓の鼓動が速まるのを感じていると、鋭い声がした。女は声がした方に視線を向け、目を見開いた。肩の怪我治した女性がそこにいたのだ。だが、先ほどまでとは違い、柔らかな雰囲気は消えている。やはり、息を飲むほどの美しい容姿だったが、纏う空気は張りつめていた。立ち上がったその女性が、優雅な仕草で歩き、檜悠の前に立った。
 女性の前にいるのは、皇子だというのに、その女性が畏れる様子はない。
「おい、おまえ!檜悠様に向かって!」
 女性に向けて、武官の剣が向けられる。だが、女性はそれでも檜悠から視線を逸らさなかった。
「皆様も聞いてください」
 女性がゆっくりと辺りを見回した。その容姿と、そのよく通る堅い声に、広間に集まった者たちの視線が女性に集まっていく。
 あの、柔らかい笑みを浮かべていた姿とはまるで別人だった。治療を受けていた時とは別の意味で、目を離せない。
「私が存じ上げている灑碧様は、恵を救うために、全てを捨てた御方です。その地位はもちろんのこと、命すらも。私は、命を落とそうとしたことを良しとは思いません。……ですが、灑碧様にとって、それだけ救いたかった存在なんです。恵は。ですから、もう、耐えられないのです……」
 淡々とした声色だった女性の声が震え出す。女のすぐ側で、手がきゅっと握られるのが見えた。痛々しいくらいに手に力を込めた女性が再び、檜悠に視線を向けた。
「あなたに、それだけの覚悟はおありですか? いいえ、言い方を変えましょう。私事ですが、灑碧様は、かけがえのない方なのです。その、灑碧様が守ろうとした恵を、壊そうとしたのはあなたではないのですか!」
「黙れ!おまえ、檜悠様に向かって」
 女性の両腕が、武官の手によって後ろ手に捕らえられた。見ているだけで痛々しい声だったが、それでも女性は声を発し続けていた。
「もしもあなたが、恵を救うために皇になるというのなら、灑碧様を貶める必要性がどこにあるのですか!……灑碧様は、例え皇にならずとも、恵を救おうとする御方。ですがあなたはその地位の為に、恵を利用するのでしょう!」
「黙れ!」
 檜悠が、鋭い声で叫んだ。その声に辺りが静まりかえった。それまでの檜悠の様子と一変したのだ。子供の癇癪にも似た声だった。
――あの女性が言ったことは事実なのではないか。
 そんな気がした。あの柔らかい表情を携えていた女性が、怒りを露わにしているのだ。事実であるという証拠はないが、心臓の鼓動が早くなっていくのを感じた。少なくとも、それだけ伝えたいことであったのではないか。
「この女は、灑碧に組みし、灑碧と共に、恵を混乱に陥れた女だ!捕らえろ!灑碧とともに、その命をもって罪をあながえ!」
 広間に集まる民の間に動揺が広まる中で、武官だけはすばやく動いた。
「あなたが、どう言おうと、灑碧様が、恵を救おうとしていたのは事実……!皇になるべきはあなたではなく……っ」
 武官の剣の柄が女の鳩尾にに打ち付けられ、女はがくりと崩れ落ちた。その細い首に、細い針が刺される。その瞬間から一層白かった肌がさらに色を失っていくのが目に見えて分かった。
 まさか、と思う。だが、その白い肌から生気を感じない。前の前の光景に、下腹部がぎゅっと締め付けられるのを感じる。
(まさか、本当に……)
 もう一度、助けてくれたことに礼を言いたかったのだ。女性の事を深く知るわけではないが、あの優しい笑顔は間違いなく、自分の力となった。
 がくりと力を失った女性が武官の手によって引きずられていく。
 暴れていたためだろう。結い上げられていた髪はとかている。着衣は乱れ、胸元が大きく開いてしまっていた。それでもなお、美しい姿であるのが、一層痛々しかった。
 誰かに、今起きたことを伝えなければと思った。


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