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  第八章 止まぬ雨 3  

 

「あの女の妄言に惑わされるな。所詮、あの呪われた皇子の肩を持つ女の言葉だ。皇位には私が就く」
 そう言い、檜悠は広間を去っていった。残った武官が、しばらくは碧嶺閣の外に出ることを禁じた。武官は、妖獣がまだいる恐れがあるからだと言ったが、女は違う、と感じた。
 あの女性が言った言葉が広まるのはまずいからではないかという気がした。女がちらりと、女性が先程までいた床に視線を向けると、女性の髪を飾っていた簪が目に入った。女は簪をそっと手に取り、広間の出口に向かった。
「外に出ることは禁じられている。まだ、妖獣の驚異が……」
「子供が、子供が家に閉じこめられているのです!一緒に連れてくることができず……!」
 子供がいるというのは嘘だった。だが、その言葉に武官の力が緩む。女はその隙に、広間を飛び出た。武官が数人追いかけてきたが、女性の姿を思い描きながら、必死に走った。
 必死になり、碧嶺閣を抜け、外に出ると、空は分厚い雲で覆われていた。そろそろ日の出のはずだが、日の光はなく、大粒の雨が、まるで天が泣いているかのように降り続けていた。
 女はとぼとぼと、榛柳の町を歩き続けていた。辺りの景色は様変わりしていた。屋根の色が統一さえ、整った町並みだった榛柳の建物は崩れ落ち、広いかった道も、その瓦礫に塞がれていた。よろめきながら歩き、人影を探していると、女の正面に人の姿が見えた。3人いる。十代後半から二十代前半くらいに見える娘が一人と、その娘よりの一回り年が上の女性が一人、そして、もう一人は女が見たことが会る少女だった。
 女を碧嶺閣まで連れてきてくれた少女だ。
 女は呆然としたまま、少女の前まで歩いていった。
「あなたは、私を助けてくれた……」
 少女は、小首を傾げた後で、ぽん、と手を打った。こうしてみると、妖獣を倒していた時とは一変、年相応の少女に見える。実際少女の年を知るわけではないが、まだ成人はしていないだろう。
「良かった、白琳に肩治してもらったのね」
「白琳?」
「私たちの友人。とっても美人なお医者さんで、どんな傷でも癒すことができるの。あの傷が一瞬で治ってるってことは白琳が治したと思ったけど、違うの?」
 おそらく、少女が言う「白琳」こそが、自分を救ってくれた女性なのだろう。話し方から、少女と白琳と呼ばれた女性との仲の良さが伺われた。あの女性の身に何が起こったか、話すべきだ。だが、その前に話すべき人物がるのではないかと思った。あの女性は、灑碧をかけがえのない人物だと言っていた。
 勘でしかないが、あの女性は灑碧に特別な思いを抱えていたのではないかと思った。あの女性の声は、その場にいる誰もの心に響いたはずだ。全員がそうだとは限らないが、あの声で、灑碧に恵に戻ってきて欲しいと願う恵の民も生まれたはずだ。これは自分の勝手だが、できることなら、まずは灑碧に伝えたい。――あの女性の気持ちを自分ごときに伝えられるかわからないが、灑碧に届いて欲しい。
「失礼ですが、灑碧殿下をご存じですか?いいえ、変な言い方になってしまいましたね。あの、灑碧様と近しい間柄なのではないですか?」
「えっと……」
 少女がおどおどとした様子で顎に手を当てた。女はそれを肯定だと受け取った。気づけば、女は少女の肩に両手を乗せていた。
「お願いです。どうか、灑碧様に会わせてくれませんか? 無礼は承知です。ですが、どうしても伝えたいことがあるのです。どうか……なにとぞ……!」
 そのまま、懇願するように身体が地に落ちていくのを感じた。そうしていると、少女の手のひらが、女の手の甲に乗せられた。剣を扱っているためだとうか。少女の手は、見た目よりも堅かった。その少女の視線が、女の手を見つめ、一瞬止まった。
 女が持っている物に気づいたのはもしれない。あの、綺麗な女性――白琳が差していた簪だ。
「分かったわ。まずは立ってくれる?私に着いてきて」
 立ち上がろうとした女を支える手が合った。無意識に手を伸ばしたその手は少女のものよりも柔らかかった。顔を上げると、吸い込まれそうな青の瞳と目が合った。少女よりも年が上に見えるその娘は少しだけ笑った。
「あなたは翡……灑碧様が怖くないんですか? 恨んだりしないんですか?」
 女は首を振った。
「怖くはないですし、恨みもありません。灑碧様がどのような方が実際のところ、どういう方がわかりませんので、あんな風に怖れられていることの方が不思議でした。……でも、今は、知らなかっただけで、ずっと恵を守ろうとしてくだっさったのではないかというう気がしています」
 簪を持つ手に力がこもりそうになったが、女はその手に力を込める代わりに反対側の手を握った。あの、柔らかい雰囲気を持った女性の空気があそこまで張りつめ、そうまでして周囲に灑碧がどんな人物かを伝えようとしていたのだ。女にとっては、檜悠の声よりもよっぽど大きくその声が響いた。
――灑碧様はまだ知らないんでしょうね……
 胸が酷く苦しい。だが、これをどうしても伝えなければならないと思った。
「……良かった」
 ぽつりと娘がつぶやいた声からは安堵の色が伺われた。
「翡……灑碧様は気にしないって言うんだろうけど、やっぱり私はそんな風に言われるの嫌だったから。こんな風に思ってくれる人がいて安心した」
 娘の声が微かに震えている気がした。泣くのを耐えたような声に女は、自身の胸がますます苦しくなっていくのを感じた。
「着いたわ」
 しばらく歩き、たどり着いたのは、都の門を出た先だった。そこには、見たことがない白い天馬がいた。
 少女が天馬の横に並び、小さく、開いて、と口にすると、そこには信じられない光景が広がった。光の道ができたのだ。
「この先に灑碧がいるわ」
 女は頷き、少女らと共に、光の道に足を踏み入れた。眩しい光に目を細め、何度か瞬きをし、気づけば女は知らない場所にいた。先ほどまでいた都の外とは異なり、日の光がのぞいていた。やはり、日の出は迎えていたのだ。そしてその日の光の下に、その人物がいた。
 鮮やかな赤い髪の少年の隣の人物。まるで宝石のような緑色の瞳を持った人物こそが灑碧に違いない、と女は思った。
 彫像のように整った容姿をした人物だった。檜悠とは異なり、皇族らしい格好をしているわけではなく、身につけているのは、粗末な黒の着物だったが、珍しくも綺麗な瞳に、目が奪われそうになった。静かに佇むその男が、あの女性が言うとおり、恵を守ろうとしてきたのだとすれば、その綺麗な瞳はどんな景色を見ていたのだろうと思った。
 心臓の鼓動がますます早くなるのを感じながら、女は地に指を突き立てた。
「灑碧様を信じ、命を落とした女性がいます」
 ぽつりと冷たい滴が落ちたかと思えば、先ほどまでの晴れ間が嘘のように、雨が降り出した。ざあざあと振る雨の音を聞きながら、女は広間でみた光景を灑碧に伝えた。
「……顔を上げて欲しい」
 全てを話終えると、再び、そう灑碧に言われた。女はおそるおそる顔を上げる。すると、再びあの緑の瞳を目の当たりにすることになった。その目の位置が先ほどよりも近いのは、灑碧が女の視線に合わせ、膝を付いていたからだ。
 表情が見えない。だが、顔色は失っているように見えた。
「話してくれたこと感謝する。……その簪、預かっても構わないか?」
「え、えぇ……もちろんです」
 女が呆然としたまま答えると、灑碧がそっと手を伸ばしてきた。武人の手だと、女は思った。堅い手だ。女は女性の簪をそっと灑碧の手のひらに乗せた。簪が灑碧の手のひらに包み込まれ、灑碧は立ち上がった。
「……おそらく、白琳は無事だ。安心すると良い」
 そう言い、灑碧が女に背を向けた。高い位置で結ばれた髪が揺れ、首の付け根の証が女の視界に映る。呆然としたままそれを眺めていると、少女が目の前にやってきた。
「都でもいろいろあってつかれたでしょう? ここ、私の庭みたいなもので、まぁちょっと荒れてるけど家だけはいっぱいあるから休んで。こっちこっち」
 少女に手招きをされ、女は空き家の一つに案内された。必要なものはあとで持ってくるから、と言い、少女が去った後で、女は手を再び堅く握った。
 女は自身の怪我を治したあの女性について詳しく知っているわけではない。だが、もしも望みがあるのならどうか無事であって欲しいと思った。


「嘘でしょう」
 紅貴らは、無言のまま、桃華の生家である屋敷の広間に集まっていた。常であったならば、広間を飾っていたらしい装飾品の数々と――崩れ落ちた調度品に目を奪われていたのだろうが、誰もが女が伝えた言葉に、何も言えなくなっていた。その沈黙を破ったのが、瑠璃だった。
 瑠璃の震える声に、紅貴は返す言葉が思い浮かばなかった。だが、その瑠璃に声を返したのは、以外にも翡翠だった。
「……いや、白琳は生きている」
 腕を組んだ翡翠が、視線を斜め下に向けたまま言った。
「でも……」
「白琳を殺めることで、檜悠が得られる利点はないはずだ。……檜悠の狙いは、皇位だろう。なら、そう簡単に殺めることはない。……実際に、ただの女である白琳を殺めたとなれば、それはそのままその場に集まった民への恐怖になる。せいぜい、捕らえる程度だろう。あれだけ支持を集めた檜悠が、いまさら、それを失うような行動には出ないはずだ。……これで納得したか?」
「その言葉、信じても良いのね?」
 瑠璃がおそるおそると言った様子で言い、ずっと顔を伏せていた翡翠が、顔を上げた。
「あぁ……白琳を救う手だてを考えたい。しばらく一人にさせてくれ」
 翡翠は、そう言うと、広間から出て行ってしまった。紅貴自身も、翡翠の言葉を信じたいと思っていた。だが胸騒ぎを感じていた。翡翠や瑠璃が悲しむところを見たいわけではもちろんない。だが、こんなにも淡々と答えた翡翠に不思議と、違和感を覚える。
(……たしかに、感情的になる方じゃないけど……でも)
 胸の前で手を組む瑠璃の手が震えている。もしかしたら、紅貴と同じ違和感を感じているのかもしれない。そんな瑠璃の前に、萩がやってきた。少し瑠璃より背が高い萩がそっと瑠璃を抱きしめた。
「無理しなくて良いのよ」
「えぇ…ありがとう。でも、大丈夫。……きっと白琳は……っ」
 瑠璃の声がそこで途切れ、頬に筋が描かれていくのが見えた。――大丈夫だといった翡翠の言葉を信じたい。なのに……
「私もちょっと考えたいから、ちょっと外の空気吸ってくる」
 桃華がそう言い、広間を出ていくのを紅貴は追いかけていった。ぴたりと並んだ紅貴に桃華は何も言わない。だが、その桃華が微かに怒りを発しているように感じられた。いつの間にか外の天気はますます荒れ、大粒の雨が地に打ち付け強い風が吹いていたが、紅貴はそれに気を止めず、桃華に付いて、歩いていたった。屋敷を抜け、複雑な道を歩いた先で辿り付いたのは、屋敷の裏の山の前だった。その山の前で翡翠が背を向けて佇んでいた。
「翡翠」
 桃華が堅い声で名を呼ぶが、翡翠は振り返らなかった。だが、少しの間の後で、声が返ってきた。
「……半々だな」
 その言葉に、一際大きく自身の心臓が跳ねるのを感じた。
「白琳を殺めることで、檜悠に利点はないが、生かしても利点はない。あいつが、力で皇位を奪うつもりならな。……白琳だけじゃない。あの話が本当なら宵汐と挺もどうなってるか」
「……そんなこと、説明されなくても分かってるわ私は。……自分でも嫌な癖だと思うけど、色んな可能性を考えるのは身にしみた癖だから。でもね、一つ言わせて。その下手な嘘は瑠璃を余計に苦しませるだけよ。翡翠が自覚してるか分からないけど、白琳のことじゃ、翡翠、嘘つけないんだから」
「……だったら、ありのまま話すのか? 皇でも武官でもないあいつに」
「まだ、そんなことにこだわるのか?そんな区別、俺も瑠璃も望んでいないよ」
 思わず、口をついて言葉が出ていた。すくなくとも紅貴は、一方的に気遣われるなんてことを、望んでいない。正直なところ、白琳が命を落としているとしたら耐えられない。短い付き合いであったが、挺明稜と宵汐のことも気になる。つい最近まで当たり前のように言葉を交わしていたのだ。それなのに、その人物がいなくなる。紅貴は幼い頃もその消失感を味わっていたが、二度と味わいたくないと思っていた。だが、少なくとも生きている可能性はあるのだ。ならば、その可能性にかけて助けたいと思う。その想いは同じはずなのだ。なのに、なぜそこに区別をつけるのだろう。
もしも白琳が命を落としていれば――
そんなこと考えたくもない。いや、それが可能性の一つにすぎない以上、生きているという希望にかけたい。
(俺がそうなんだ。翡翠はきっと……)
 どうしようもなく、胸が苦しい。その苦しみを、武官である桃華と、そして翡翠にだけに背負わせるなんて嫌だと紅貴は思った。ただ、守られるだけの対象になるなど、冗談じゃない。
「まぁ、気持ちは分かるけどね……そんな周りくどいことしなくたって……いいえ、どんなことが起こっても、白琳の願い叶えるつもりではいるんでしょう。……翡翠に皇になって欲しいという白琳の願い。ところで翡翠」
 ため息混ざりの声だった桃華の声が再び堅いもになった。
「この雨と、酷い風は皇位継承者としての力? それとも別の力?」
「……察しが良すぎるのも考えものだな」
 翡翠の答えに、桃華の顔が一瞬歪んだ。泣きそうな表情に見えたのだ。だが、すぐに口が引き結ばれ、再び静かに口を開いた。
「……止められないの?」
「本当に……妙なところで察しが良いな。……さっきから、押さえようとしてる。だが……っ」
 次の瞬間、翡翠の肩が大きく揺れた。濁った咳の音が聞こえ、翡翠が膝から床に沈みそうになった。紅貴がぎりぎりのところで支えたが、翡翠の荒い息づかいも、激しい咳も――辺りの激しい雨と風も止まらなかった。
 翡翠の母方の血筋巓一族。その力は莫大な力をもたらすが、その身で代償を払うことになると、他でもない翡翠が言っていた。
 その力の制御の難しさはどれほどのものかは分からない。だが、少なくもこれまでは、その力を使う時は、翡翠の意志によってだった。だが、今引き起こされてるこの力は力が制御できなくなった結果だという。このまま制御を失い続ければどうなるのだろう。その先を想像し、心臓を掴まれたような恐怖を感じた。
そんなのは嫌だと、心が悲鳴を上げる。
「こんな姿を晒す気は……」
 なかったと続けるつもりだったのだろう。だが、翡翠のその言葉は咳に阻まれる。赤い液体が口から吐き出され、咄嗟にそれを抑えようとした手を汚した。風も雨も強くなる一方だった。
「馬鹿野郎!そんなこと言ってる場合かよ!止めろよ、その力!」
 止まらない、と呟いたその声が酷く弱々しく思えた。翡翠に向かって、叫ぶように声を上げていると、紅貴の横で桃華が動いた。翡翠の首筋に手刀を入れられた。翡翠の意識が落ち、雨と風も弱くなった。
「桃華!」
「少し強引なやり方だけど……翡翠が力を制御できなくなったのは、その感情が制御できないからでしょう。巓一族の力程難しくないけど、煌桜家の妖刀を操る力も同じだから……怒りと悲しみは「力」の恰好の糧よ」
 そう言うと、桃華は腰に差していた剣を取り、ぎゅっと抱きしめた。
「……翡翠には悪いけど、翡翠にこんなことで死なれちゃ、白琳を助け出すことが出来た時、白琳に顔向けできないもん」
 先ほどよりも弱くなった雨に打たれながら、桃華は横たわる翡翠の横に膝を突いた。翡翠の掌には、白琳の簪が載せられていた。その手を、桃華が翡翠の手ごと握る。
「翡翠の悲しみも、怒りも、悔しさも分からないわけじゃないけど……挺明稜様にも宵汐様にも……翡翠にも白琳に死なれるわけにはいかないの。……私が一番大切な人の為にも。……妖獣使いの紅貴を、白琳を救うための戦力として数えるわ。良いでしょう?」
 手を握ったままで、桃華が顔を上げた。普段の幼さがなくなり、こちらを射抜く強い瞳に、紅貴は頷く。
「うん。その為の力だ」
「私もいる……!ごめん、途中からだけど話聞いちゃって……」
 瑠璃がゆっくりと歩き紅貴の隣に並んだ。堅く握られた手が震えているのが分かる。
「白琳は、翡翠を置いてなんか行かない。そうでしょう?」
 瑠璃の言葉に、桃華が頷く。瑠璃のその言葉を聞き、紅貴は空を眺めた。先ほどよりも弱くはなったが、季節に似合わず冷い雨だった。
 早く、晴れないだろうかと、紅貴は思った。晴れた空をみんなで眺めたい。――幼い頃に感じた喪失をもう、二度と味わたくない。一度は絶望しか産まなかったその力。だが、その妖獣使いの力を誰かの為に使えるのなら、本望だと思った。
 

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