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  第八章 止まぬ雨 4  

 

 倒れた翡翠を、煌桜家の一室――かつての煌桜家当主、つまりは桃華の父親の私室だった場所に寝かせた。時折、この地へ訪れていたという桃華が、整えていたのかもしれない。埃は払われていた。
 だが、桃華が部屋の様子を眺めて呟いた一言は以外なものだった。
「……びっくりした」
「どうしたんだ桃華」
 紅貴が尋ねると、桃華はどこか呆然とした様子で静かに口を開いた。
「思ったより綺麗だったから。何年も誰も使っていないから、もっと埃だらけだと思ったのだけど……」 
「桃華がやったわけじゃないのか」
 桃華は言葉より先に頷いた。そして、少しの間の後、再び口を開いた。
「私がこの部屋に入ったのは、あの日……煌桜家が滅んで以来よ」
 その言葉を聞いた瑠璃の瞳が伏せられていく。どんな言葉をかけて良いか分からない様子だった。
「……やっぱり、生きてる?」
桃華が、ぽつりと付け足すようにつぶやいた。瑠璃の瞳が不安げに揺れる。だが、そんな瑠璃の表情を察したように桃華は静かに笑った。
「ごめん瑠璃、私、これに関しては、もう大丈夫だから。良い思い出とはいえないけどね。それより今は……」
 桃華は一度、寝台に横たえた翡翠に目線をやった後、紅貴に視線を戻した。
「私、一度嘉に戻るわ」
 そう、宣言した声ははっきりとしていた。相談などではなく、そう決めたと言う、決定事項を伝える声だった。
「どういうこと!?」
「せっかくここまで来たのにか」
 紅貴と瑠璃の声が重なり、二人は互いに顔を見合わせた。
「心配しないで。用が済んだら、またすぐにここに戻ってくるから」
「でも、恵は……白琳はどうするんだ?」
「白琳を助けるために、嘉に戻るの。……恵の皇が崩御した以上、本来は翡翠がその後を継ぐはずでしょう。でも、恵は翡翠じゃなくて、檜悠が……。宵汐様と挺明稜様の居場所もわからないし。けれど、そんな状態でも、檜悠が支配している国こそが、対外的には「恵」でしょう。そんな状態で、白琳を助けるためとはいえ、嘉の武官である私が、独断で「恵」に手を出したらどうなる?」
 紅貴は腕を組み、恵と嘉の関係を考えた。翡翠の父である翡綾が皇であったのなら、こんなことは起こりえなかった。だが、檜悠は違う。「皇」であると自称し、その皇である檜悠に、楯突けば――
「……下手したら、嘉と恵の戦争になる、か」
 瑠璃が口許を手で押さえ息をのみ、桃華が静かに頷いた。
「本当はそうなる前に、恵をなんとかできればよかった。でも、こうなった以上、そうも言ってられない。そのために、嘉に行く必要があるの。……嘉の民である白琳に手を出されて、武官である私が、助ける。それは当たり前のことではあるけど、それで嘉と恵が戦争になるなんて、白琳は望まないと思うの。本来、倒すべきは檜悠だけで良いけど、檜悠は嘉に対して何をするか……それにしたって、嘉の武官が恵の皇に手を出すなんて大問題だけど。だから、龍孫様と色々と話すことがあるの」
「どんなことを話すんだ」
「いくつか考えはあるけど、一つは、私が武官をやめるって方法。武官もやめて、嘉の籍からも抜ける。そうすれば、嘉とは関係ない人間が、恵の皇に手を出したってことになるから、恵が嘉を襲う理由にはならない。それで、恵が嘉に手を出せば馬鹿を見るのは恵よ。……そもそも嘉はそんな簡単に負けないしね。それから、私が嘉と関係ないとなれば、かえって私は自由に動ける」
「けど、桃華前に言ってたよな。大切な人を守るために嘉に仕えるって。もし武官をやめたら……」
 紅貴は、桃華が自身が「煌桜家」であると、告げた日のことを思い出していた。煌桜家は、本来恵家に仕える一族だ。それでも、桃華が仕えたいと思うのは、嘉の王族、嘉燎家であり、嘉燎家のためならどんなこともやると言っていた。
 普段は年より幼く感じられる桃華だったが、あの日語った凛とした声の響きが忘れられない。それが正しいことかどうかは分からないが、桃華の意志にはただ、圧倒されたのだ。
「……本当に良いのか?」
「そうよ。私知ってる。嘉の武官って、桃華がなりたかったものじゃないの?」
 紅貴と瑠璃の言葉に、桃華は口許をつり上げて笑んだ。紅貴にはそれが、異質な反応に思えた。桃華は少なくとも、弱い女性ではないと思う。剣の腕にしろ、精神面でも。だが、それにしても、桃華が見せた表情は、意外だった。
「紅貴には、前に話したことがあるけど、私が武官になったのは、私が一番得意なのが剣で、剣を振るうことが一番嘉燎家の役に立てる方法だったから。……今、一番役に立つ方法が、武官をやめて、嘉の籍を抜けることなら、それでいいわ。方法なんてなんでも良いもん」
「桃華……」
 呆然とした様子で瑠璃が呟いた。だが、そんな瑠璃に桃華は一瞬、いつものヘラリとした、幼い笑みを見せた。
「そんな気にしなくても、私、大丈夫だから。それに……」
 桃華の声色が再び堅いものに変わった。先ほどと同様、口許を釣り上げる。普段は年より、幼く感じられる桃華なのに、この表情の時は、ずっと大人びて見える。
「白琳を救う方法として、私が武官をやめないっていう手段もあるから。で、こっからが本題」
 桃華が今度は、ニコリと笑みをみせた。くるくると表情を変える桃華に圧倒されながら、紅貴は同時に、背筋が冷たくなるのを感じた。とても愛らしい笑みのはずなのだが、不思議と胃の方もきりきりと痛む。
 何か、嫌な予感がするのだ。
「嘉に戻るにしても、普通に天馬に乗って帰るんじゃ、時間がかかるでしょう。けれど、幸い紅貴がいる」
「俺……?」
 紅貴が自身を指さし、尋ねると、桃華は大きく頷いた。
「正確には聖焔の力だけど……嘉に道をつくって欲しいの。さっき恵にやったみたいに。嘉は、紅貴が行ったことがある場所。つまり『知っている』んだからできるはず」
「あぁ。……でも、できるのかな。俺……結構距離あるし」
《今の主ではただでは無理だろうな》
 突然、ポンと音がしたかと思えば、手に乗るくらいの大きさになった、聖焔が、紅貴の肩の辺りにいた。聖焔の言葉に、紅貴はやっぱり、と息を吐き出した。いくら、聖焔が本来、強い力を持っているのだとしても、その力がどれだけ発揮できるかは紅貴次第だ。
 だが、その記憶が新しく、距離もそう離れていない恵ならともかく、嘉までは距離がある。ただ、願えば道ができるとは思えなかった。
「けど、私が初めて紅貴が出会った時、紅貴が嘉にいたのって、聖焔の力じゃないの?」
「そうなのか!?」
 これには、紅貴自身が驚き、思わず声を荒げてしまった。そんな紅貴の様子に呆れているのか、桃華は呆れた、というように首を振っていた。
《桃華の言うとおりだ。主は洸で、嘉に行くことをずっと願っていた。だが、あの時の主には、自力で嘉にいけるだけの力はなかった。……それは今もだろうが》
「おい、聖焔……」
 付け足された言葉に、紅貴は言葉を入れ込むが、聖焔はそれを気にした様子はなく、笑いまじりの声で言う。
《だから、主の願いを叶えてやった。自分の実力も知らず、洸を飛びだしし、嘉にむかうとは馬鹿にもほどがあるからな。……自力で、洸を出ようとした時、主は本気だったようだが、あのまま洸を飛び出していたら、無事だったかどうか……仕方なく嘉まで道を作り、運んでやった後は、主の記憶の通りだ》
「……俺、気づいたら、嘉の道ばたに倒れていたんだけど、そういうことだったんだな。親切な人がその日は家にとめてくれて、地図もくれて……その後、道に迷ってたら翡翠に会って……単に運が良いだけだと思ってたけど、違ったのか」
 今思えばあの時、「運が良い」で片づけていた自分がどうかしていたと紅貴は思った。妖獣使いということから、幼少期から不思議なことをたびたび経験していたため、気づけば、嘉にいたのも、その一つだと思っていたのだ。
「紅貴、前に私に、すごい仲間ばかりだっていってたけど、紅貴もなかなか大物だわ」
 どこかおかしそうに瑠璃が言い、桃華もつられたように笑った。
「本当にね。まぁいいわ。とにかく、紅貴の力で嘉への道は作れるみたいだから、よろしくね」
「ちょっと待ってよ。桃華、聖焔の話聞いてなかったのか? 今の俺じゃ無理って言ってただろう」
「ただでは、って言ってたでしょう?」
 楽しげな笑みをそのままに、桃華は軽く首を傾けた。その視線を、紅貴ではなく、聖焔に向けていた。
《嘉への道を作れば、数日寝込むことになるかもしれないな。湖北村で妖獣を捕まえた時のようにな。まぁ、大丈夫だろう。久しぶりに運動して、筋肉痛になるようなものだ》
「じゃあ決まりね」
 桃華の言葉に、紅貴はため息をついた。桃華が一度嘉に戻るための道を作ることに異論はないが、あまりにも扱いが酷すぎるのではないだろうか。
「……もう、行くのか、桃華」
 自然と、自身の声が低くなってしまったのを感じながらも、桃華に尋ねると、桃華は首を振った。
「その前に、まだここで確かめたいことがあるから。でも、それが済んだら嘉に行きたいから、よろしくね」


 確かめたいことがあると言い、煌桜家の屋敷を出た桃華と共に、紅貴は並んで歩いていた。相変わらず、雨はやまない。分厚い雲が空を覆い、一時よりは落ち着いたとはいえ、ざあざあと雨は降り続けている。
 この雨の原因を考えると、胸が痛くなる。
――ずっと、力を制御できなければ、翡翠はどうなるのだろうか
 その先を想像し、紅貴は首を振った。力を押さえることができないと告げ、桃華の手刀で、半ば強引に翡翠が眠らされて以来、ずっと抱え続けている想いだ。おそらく、桃華も瑠璃も、同じ想いを抱えているはずだ。
 その先は、恐ろしくて口にできない。翡翠も白琳も一緒に笑う日がくる。それ以外の可能性は考えたくない。
「着いたわ」
 目の前の光景に、紅貴はこくりと息を飲んだ。山の麓近く。大きく開けたその場所は、元々開けていたというよりは、元々木々があったにもかかわらず、それが薙倒されて出来た空間のようだった。そうして出来た空間には、生き物の気配が感じられない。
 草花は生えず、本来ならば土にいるはずの虫もいないのではないだろうか。息が詰まる。そんな中で、地面に突き刺された剣が異質な光を浴びているように見えた。
 いや、剣が光を発しているのだ。鏡のように透き通った刃は恐ろしい程に美しい。その白い柄には、細やかな銀の石のようなもので、桜の紋が描かれている。そのすぐ側に横たわる鞘は、おそらくその剣の為のものだろう。
「これは…?」
「煌玉。煌桜家を象徴する剣の一つ」
 そう言った桃華は、腰に差されている、黒い剣の柄にそっと手を触れさせていた。聖刀『煌玉』と対をなす、妖刀「桜玉」だが、桃華の手はそれをおそれている様子はない。そんな桃華が視線をやるのは、煌玉の後ろの何もない空間だった。
「父が、命と引き替えに、妖龍の魂の一部を封じたけど、やっぱり解かれたみたいね」
 桃華は言いながら、煌玉の前に立った。日の光はない。だが、桃華がそれを手にすることで、剣が放つ光が一層強くなった気がした。桃華は地に落ちている剣を手に取り、剣を納めた。
 その動きが、紅貴には神聖な儀式のようにも思えた。
「これは私の過ちではあるわ。実をいうと、私の煌桜家としての力が弱まっているって、ここ最近感じていた。一時的なことだと思っていたけど、瑛達が、封じていた妖龍の魂の一部を解放しようとしていたからみたいね。……もしも、気づいてすぐに、ここに来ていれば……」
 桃華は何か言い掛けて静かに首を振った。
「……いえ、一人じゃ、やられていたわね。とにかく、悔やんでいてもしかたがないわ。ねぇ、紅貴、ここ……煌桜家の地に封じられた妖龍の魂の一部が、今は解放されている。これが何を意味するかわかる?」
「えっと……」
 桃華の問いの意図が分からず、言葉を詰まらせていると、桃華が軽く目を伏せて静かに口を開いた。
「本来、この場所は煌桜家が、許した人しか入れないの。でも、ここに封じられていた妖龍の魂が解放されているってことは……」
 体内を駆け回る血が急激に冷えていく心地がした。言葉を紡ごうとするが、唇がうまく動かず、声にするのに時間がかかる。
「瑛達は、この場所に入れるのか?」
 ようやく言葉を口にした紅貴族に、桃華は頷く。
「嘉に行く前に、ここをなんとかしたいの」
「でも……どうやって……」
 微かに震える声で言った紅貴に桃華は笑う。口許をつり上げて笑うその表情は、あの、大人びた表情だ。
「煌桜家の力は、妖刀を扱える、だけじゃないわ」
 そう言うと、桃華は軽く目を閉じた。桃華の気配がまた変わる。桃華よりも――翡翠や白琳よりも、ずっと大人びて、落ち着いた気配だった。

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