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  第八章 止まぬ雨 5   

 

  姿形は変わらないのに、桃華が纏うこの空気は何だろうか。桃華は自分とそう歳が変わらないはずだ。だが、遙か年齢が上の人物と対峙している心地になる。
 軽く目を閉じた桃華の姿を見ながら、紅貴はざわつく自身の心臓の鼓動を聞いていた。やがて、目を開いた桃華を目の当たりにした紅貴は小さく息を呑んだ。茶の瞳が、普段よりも濃い色を映しているように感じられる。その目から、視線を逸らせない。
「煌桜家が、この地を恵家をもらった時、恵家と契約を交わしたようね……」
「契約?」
 桃華の声は、こんなにも落ち着いたものだっただろうかと思いながらも、紅貴が尋ねると、桃華は腕を組んだ。
「えぇ。……紅貴も真命って知っているでしょう」
「嘉や恵には、真命を下せる存在がいるんだっけ。その命には絶対に逆らえない、だっけ?」
「そう、その真命。それが、この契約の正体。例えば、嘉では二将軍がそれにあたるわ。それが、真命だと宣言されて命を下されれば、私はそれに逆らうことができない。……恵の皇はかつて、煌桜家に、何人たりとも進入を許さない安らかな地を与えるという真命を煌桜家に与えたのよ。命という言葉だから一方的に思われがちだけど、真命正体は、いわば、皇がこの世界の与えることができる、理になりうる契約よ」
「……それなら、なんでこの地の力が弱まっているんだ?」
「それは……つっ」
 桃華が突如眉をひそめた。ずっと張りつめていた空気が緩み、小さな時が漏れた。急に片手で頭を押さえ、膝を着きそうになった桃華を紅貴はなんとか支えた。
「桃華……!」
 桃華が手にが持っていた剣、『煌玉』を地に突き刺し、自身の足で立ち上がる。数度息を吐いた後で、乱れた呼吸が収まっていく。そうして、再びこちらに向けられた桃華の瞳からは、あの、張りつめた色が消えていた。いつもの桃華だと、紅貴は思った。
「桃華、大丈夫か?翡翠みたいに……」
 自身の声が、微かに震えるのを感じる。翡翠の巓家の力は、使うほどに命をすり減らすことになる。その先を口にできないながらも、静かに問うと、桃華は首を振った。どこか、幼さを感じさせるものだ。いつもの桃華だと、紅貴は思った。
「私の力は、翡翠のものとは違う。身を犠牲にするものじゃないわ」
「なぁ桃華、俺、いまいち桃華が何やったかわからないんだけど、いったい」 
 桃華が、地面に突き立てた剣を引き抜き、両手で抱えるように持ち上げた。
「過去をね、覗いたの」
「過去……?」
 確かに、桃華が語った言葉は、過去の出来事だ。だが、やはり桃華が言う「過去を覗く」ということがどういうことなのかがわからない。今更、桃華がどんな力を持っていても驚きはしないが、うまくその力を認識できない。
「これが、煌桜家のもう一つの力。といっても、何でもかんでも見れるわけではないんだけどね。かつて煌桜家に生きていた人……ご先祖様の誰かの記憶を持って生まれるの。普段はその記憶は閉じられた場所にあるんだけど、それを覗こうと思えば覗くことができる」
「もしかしって、桃華が持っている記憶って……」
 大きく目を瞬かせた紅貴の前で、桃華が大きく頷いた。
「恵に力を貸すと決めた、煌桜家の当主の記憶。煌桜家自体はもちろんその前から存在していたけど、妖刀を扱うその一族が煌桜家と名乗ったのは、正確には恵に力を貸してからね。……今はいないけど、私の父も母も、他のみんなも、それぞれ記憶を持っていたわ。その記憶を覗いた話を、いくつか聞いたことがある」
「それなら、見た記憶をみんなで話したら、過去のことが色々わかるってことだよな。何も、歴史書を読み解かなくても」
「うん。そういうこと。運が良かったわ。私が持っている記憶がこの時の記憶で」 
 時折、桃華に感じていた違和感。桃華がこの世界の在り方を話す時、一点の迷いもないというのを紅貴は感じていた。桃華がそのような性格といえば、それまでだが、それだけではないとずっとどこかで思っていたのだ。その記憶を持っていたのだ。または、身近な者から、聞いた。桃華の態度にもようやくこれで納得ができたと紅貴は思った。
 けれど、それに反して、胸に渦巻く、しこりが大きくなっていく気がした。翡翠の巓家の力は、その身を代償として払っている。白琳だって、癒しの力を得る代わりに、恵の者達から忘れ去られた。ならば、桃華はどうなるのだろう。
「なぁ、桃華、本当にその力使って大丈夫なのか?」
「大丈夫って言ってるでしょう。と言っても、あんまり使う気はないんだけどね。過去のことがあれこれ分かっちゃうって言うのも面白くないでしょう」
 そう言い桃華は無邪気な笑みを覗かせた。けれど、その笑みはこちらを安心させる為に向けたものではないかという気がした。幼そうに見える年が近い目の前の少女は、役者ではなかっただろうか。
「それより今は、ここをなんとかしなきゃ。もう誰にもこの地を荒らさせはしない」
 桃華の口元がつり上がる。無邪気な表情が強気な笑みへと転じた。
「幸い、ここには恵の皇がいる。行きましょう紅貴。かつての恵の皇と、わたしのご先祖様がやったのと同じ事をすれば……」 
 二つの剣を持ち、さっと歩き出した桃華の後ろを紅貴はついていく。桃華の話に集中していたため今までは、さほど気にならなかったが、やはり雨はやまない。早く、雨がやんで欲しい。この雨は、桃華が言った、恵の皇の哀しみそのものだから。
 再び、翡翠の元に戻ると、翡翠が身体を起こしていた。その翡翠の顔にぞくりと背が震えるのを感じた。翡翠の無表情は見慣れている。だが、その存在が希薄に思えたのだ。青白いその顔が歪み、翡翠が咳込む。その、背を、萩が撫で、瑠璃が胸の前で手を握りしめ、眺めていた。数度咳込んだ後で、ようやく落ち着いたらしい翡翠が、こちらを見た。
「さっきは悪かったわ」
 無理矢理翡翠の意識を落とした桃華が謝罪をすると、翡翠が小さく「いや」と口にした。 
「さっそくだけど、少しだけ私に協力して欲しいの。……この地は、煌桜家が許した者しか入れないようになってる。けれど、この地の守りが弱くなってるせいで、進入できる人がいるの」
 桃華のその言葉に、翡翠の眉が僅かに潜められた。
「叡達よ……そんな風にしたのは私の責任だけど」
「地の守りの力が弱まっているのはお前の責任ではないだろう?……恵の皇族の元を離れ、嘉燎家に誓いをたてた。この地の守りの力が弱まっているのは、そのためだろうが、元々それは恵の皇族がお前を守ってやれなかったからだ」
「ううん……」
 桃華が首を振る。
「嘉燎家に誓いをたてたのは、ほかでもない私の意志。……自分でも都合が良いことだって分かってるけど、嘉燎家に誓いをたてた事は後悔してないし、これからもずっとそうしていくつもり。けど、やっぱりそれでこの地の力が弱まるのはだめでしょう?……勝手だけど、翡翠を利用するわ」
「俺の……恵家の血か?」
「いいえ、灑碧が持ってる証よ」
 そう言うと、桃華は突如、持っていた煌玉を引き抜いた。白く光を発しているように感じられる刃に、桃華は細い指先を這わせた。刃に人差し指が触れ、一筋の赤い血が、ゆっくりと桃華の指を這い、落ちていく。ほっそりとした手で、刃の部分を両手で、そっと支える形で持ち替えた桃華はそのまま片膝を付き、まっすぐに翡翠に視線を向ける。紅貴の側からは、桃華の表情は見えない。だが、見慣れた無邪気さが潜め、ひやりとした朝の空気にも似た凛とした気配を感じた。
 寝台の上で身体を起こしている翡翠の顔を盗み見る。やはり、その顔は無表情だった。だが、桃華の顔を映しだしているその瞳にわずかだが、感情の揺らめきが浮かんだように感じられた。その正体までは分からなかったが、桃華が翡翠に剣を捧げているように見える。そして、凛とした空気の中で、桃華の声が際だって響いた。ゆったりとした詩のような音に聞こえる。その音が古語だと気づいたのは、桃華が数語を発し終えてからだった。澄んだその声が余韻を残したまま、とぎれると、それよりも低い翡翠の声が、返ってきた。
 古語の意味は分からない。だが、目の前の光景と相まって、不思議な調べを聞いている気分だった。言葉がとぎれ、翡翠を見ると、紅貴にとっては意外な反応がそこにあった。
 翡翠が眉間に皺を寄せていた。
「翡翠?」
 紅貴が問うと、翡翠が呆然と、感情を吐露する様子で静かに口を開いた。
「……勝手に言葉が出た」
「でしょうね」
 どこか楽しげに桃華が言い、小さく笑い声が漏れた。
「なんて言ったんだ?」
「単純に、今の言葉に置き換えることはできないけど……『我が名と力を恵の皇に』
「……『ならばそなたに安らぎの地を 我が庇護の元に』
 桃華の澄んだ声に続いて、確かめる様子で、翡翠の声が聞こえた。翡翠が恵の皇なのだから、当然だと、桃華は言った。だが、翡翠の方は、桃華から逃れるように視線を逸らした。
「とにかくこれで、この場所は大丈夫だから、安心して一旦嘉に戻れる」
「……この地の守りを強くする方法を知っていたのはなぜだ? 確かに、この世界のことを考えれば予測はできる。だが……」
 楽しげな桃華の声とは対称的に、翡翠の声は微かに震えていた。感情を押し殺しているようにも聞こえる。
「煌桜家の力を使ったって、桃華が」
 その力の正体を知っていたのだろう。そう思わせる反応だった。桃華から視線を逸らしていた翡翠が再び、桃華に視線をむけ、静かに言葉を詰まらせていた。
「……あまり、その力を使うのは感心しない。代償を払わない力はありえない」
「それを、翡翠が言うの?」
 呆れた、と言うように桃華が言い、ため息をつく。
「心配しなくても、これ使ったからと言って、寿命が縮むことはないわ。だいたい、私は翡翠のような死にたがりじゃないし、一応長生きしたいしね。龍清が皇になるのを見届けないで死ぬなんてお断り。……だから翡翠、今はしっかり自分の命をつなぎ止めることに集中して。恵の皇の存在が揺らげば、嘉……龍清だってどうなるか。何より、白琳を悲しませるのは本意じゃないでしょう」
 翡翠が視線を掛布に落としていく。やはり出会った当初より、存在が希薄だと、紅貴は思った。初めて出会った時は、翡翠が嘉の武官であることは知らなかったし、ましてや恵の皇になる人物だとは思わなかった。だが、知らなかったあの時よりも、今の方が、翡翠の気配が薄い。白琳だと思った。これまでのやりとりで分かっていたが、それだけ、翡翠にとって白琳が大切なのだと、改めて実感した。
 白琳も、翡翠も失われるなんて嫌だ。張り裂けそうな苦しみと共に、そんな声がわき上がる。失う苦しみを知っている。だからこそ、余計に嫌だと紅貴は思った。
「桃華の活躍に期待だな。あと、俺の妖獣使いとしての実力も」
 意識して、明るい言葉で言ったが、翡翠からは声はない。
――おまえの実力はたかがしれている。聞き慣れたはずの翡翠のそんな言葉がないのが、苦しい。そして、言葉の代わりに、翡翠が咳込む音が聞こえた。耳を澄ますまでもなく、雨の音はやまない。波打つ翡翠の背中を萩が撫で、一方で、掛布を握る翡翠の手には堅く力がこもっていた。
「紅貴の実力じゃあねぇ…けど、自信あるって言ってる紅貴に協力してもらって、嘉に行ってくるから。私が言ったこと、忘れないでね、翡翠」
 そう言い、桃華が翡翠に背を向けた。やはり、その声は明るかったが、こちらを振り返ったその瞬間、桃華の瞳が悲しみの色で伏せられるのが見えた。それは一瞬で消えたが、ぎゅっと胸がいたくなるのを、紅貴は感じた。桃華と共に部屋を出た紅貴は、そのまま屋敷の外に出た。
「嘉までの道をお願い」 
ざあざあと降り続ける雨の中で、紅貴は頷く。
「聖焔」
 紅貴の声に、一度は姿を消していた龍が再び、紅貴の前に現れた。名を呼ぶだけで、こちらの意志は通じたらしい。その一言で、聖焔は、赤い炎を吐き出した。炎と言っても、熱があるわけではない。だが、不思議なその炎が、雨を溶かしていくように見えた。何もない空間に、光りの道が出来上がる。本当に、この雨を全て消し去ることができれば良いのに。そんな想いが湧き上がる。
 光りの道が出来上がった瞬間、がくりと膝が落ちそうになったが、それをなんとか踏み留め、紅貴は桃華に視線を向ける。
「気をつけてな」
 こくりと頷いた桃華が、光の道に身体を滑らせた。桃華の背中が見えなくなるまで地に踏みとどまっていたが、なけなしの矜持もそれまでだった。地に吸い寄せられるように膝をついた紅貴はため息をついた。
「筋肉痛だったか?」
『あぁ。だが、その程度で済むとは中々やる』
「けど、なんか聖焔まで小さくなってないか?」
『主と我は連動している。……かつては、いや、最近までは主が我を避けていたから、関係なかったが、強くなれば、我は主の影響を受ける』
「……それって、あまり良いことじゃないんじゃ……だって、聖焔が弱くなるってことだろう」
『今の主には分からないだろうが、そうでもない。主との結びつきが強いということは、我が、双龍国の国々を消し去る可能性もなくなる。それに、主の力が強くなれば、それだけ我の力も確固たるものになる』
「消し去る気なんて、元々ないだろう。でも、まぁいいや聖焔がそう言うなら、悪いことじゃないんだろうし。けど、妖獣使いの力を使う度にこうなるんじゃあなぁ」
『それだけ喋る元気があるのなら、今はそれで上出来だろう。いずれ、慣れる……立てそうか?』
「なんとか」
 多少の強がりを含めて、そう声にし、紅貴は強引に立ち上がり、屋敷に戻っていった。



 考えを整理したい。そう、言い訳するような心地で翡翠が眠る一室を出た瑠璃は屋敷の外に出た。一時より落ち着いたものの、雨はやまず、屋根がある場所に立っていても、跳ねた雨水が、瑠璃の衣を濡らした。
 白琳が命を落とした可能性がある。そう、聞かされても、現実感がまるで伴わない。だが、力を制御できない翡翠を見れば、否応なしに、その可能性を思い知らされる気がした。
 翡翠を支えなければ――
 そう思うのに、思考力がまるごと奪われたかのように、空虚な音ばかりが脳裏に響く。桃華のような武官でも、紅貴が持つような力があるわけでもない。だからせめて気が利いた言葉の一つでも言えれば良いのに、それすらも翡翠に言えなかった。
 いつも通りに翡翠に接する。そうして、桃華の帰りを待つ。それが今の自分にできることであるはずだが、いつもはどんな態度を取っていただろうかと、瑠璃は思った。
白琳の死の可能性を語る翡翠に確かに自分は『私もいる』と言った。口先だけの存在になりたくない。胸の前に当てていた手に、自然と力がこもった。これは、自分に対して苛立ちだ。軽く目を伏せれば、雨音がより大きくなったように感じられた。
「こんなところにいたら風邪ひくよ」
 久しぶりに聞く声に、瑠璃は目を見開いた。声に誘われるように呆然と顔を上げる。雨の中にあっても、肩まである、柔らかそうな黒の髪の印象はそのままだった。だが、視線の先にあった、漆黒の瞳に、覚えがない。
「……駿」
 雨に簡単に消えてしまいそうな音で、声が漏れた。この人はこんなにも冷たい目をしていただろうか。感情が見えない駿の黒の瞳に、自身の心臓が嫌な音を立てた気がした。

 

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