史書

| | 小説目次

  もっと強く  

 

「はあ〜」
 紅貴は大きな声でため息をついた。慶にやってきてから、紅貴は本格的に桃華に剣を見てもらうことになった。そうして気づいたのは、やはり自分は弱い、ということだった。桃華は嘉国随一の剣の腕を持つと言われる二将軍だ。その桃華と剣を打ち合い、勝てるはずがないのは分かっている。だが、やはりこうも勝負にならないのは悔しいと思ってしまう。
 桃華と剣を打ち合っている時は、ただただ桃華の剣が恐ろしく、「悔しい」という感情よりも恐怖が勝る。だが、こうして剣から離れる時間になると、悔しさがこみ上げてくるのだ。負けるのは、桃華だけではない。龍清にだって勝てやしないし、今、紅貴が寝泊まりしている匠院義塾を見学してみれば、紅貴より歳下の子供でさえも、紅貴よりもずっと剣の扱いがうまかった。
 自分の剣の実力がないのは分かっていたが、それを改めて思い知らされた気がした。
「とりあえず、巻物届けに行くか」
 紅貴は、巻物を手に持ち立ち上がる。翡翠にに巻物を届けて欲しいと覇玄言われていたのだ。

 道に迷いそうになりながらも、紅貴は翡翠が療養している養生所に辿りついた。だが、さすがに同じ部屋が並ぶ養生所内部の配置までは覚えられず、翡翠の部屋まで案内してもらった。翡翠が寝泊まりする一室の前まで辿りつき、紅貴は戸を引く。部屋の内部では、翡翠が寝台の上で身体を起き上がらせ、なにやら書物を読んでいた。
「翡翠」
 紅貴が静かに翡翠の名前を呼ぶと、翡翠の視線がゆっくりと動いた。紅貴は翡翠の元に歩いて行き、寝台のすぐ横にあった台に巻物を置いた。
「これ、覇玄様に頼まれたから持ってきた。ここ置いて置くから」
「あぁ」
 礼は言われず。短く返答が返ってきて、またすぐに翡翠の視線は書物に戻る。礼くらい言ってくれても良いんじゃないかと思ったが、翡翠のこの反応は、すでに慣れた反応だった。とにかくこれで用事は済んだ。あまり長居をするのも良くないだろう。部屋を出ようとして、ふと、書物を持つ翡翠の手が、紅貴よりも大きいことに改めて気づいた。
 歳は翡翠の方が上だし、翡翠は日頃から剣を扱っている。その翡翠の手が紅貴の手より大きく堅いのは当たり前なのだが、自分との差を感じた
「翡翠は昔から剣が強かったんだろう?」
 そんなこと言うつもりはなかったのに、気づけばそう、翡翠に言っていた。返ってくる答えなど分かっている。「当たり前だ」「お前よりはな」そう、返ってくるに決まっている。なのにどうしてこんなことを言ってしまったのだろう。そうして自分が言った言葉を後悔していると、翡翠が書を置いた。そして何か考えるように腕を組んだ。
「……いや」
 それはあまりに意外な答えだったものだから、翡翠が言った言葉を理解するのが遅れた。何度か目を瞬かせていると、翡翠の視線が紅貴に向く。
「餓鬼の頃は弱かった」
「そうなのか?」
「あぁ……今も、この状態だしな」
「翡翠……?」
 翡翠が言った言葉にひっかかりを覚えた。
「悪い、今のは忘れてくれ」
 翡翠がそんなことを言うのは珍しいと思った。だが、紅貴はうまい言葉を見つけられない。「気にしない方が良い」と、紅貴が言うのは何か違う気がする。逆に、どうしたのかと問いただすのも正しいとは思えなかった。
「弱いって言っても、俺よりは強かったんだろう?」
「どうだかな。まぁ、お前も桃華と剣を打ち合っていれば、それなりに剣を扱えるようになるんじゃないか?」
「うん、そうだよね……ありがとう翡翠。じゃあ俺、戻るから」
 翡翠が再び書物に手を伸ばした。再び書を読み始めたのを見届け、紅貴はそっと部屋を出た。


「紅貴さん?」
 部屋を出たものの、同じ部屋が並ぶ療養所内で、紅貴は迷ってしまった。そうして療養所内を歩き回っていると、通りかかった白琳に声をかけられた。
「あ、白琳! あのさ、翡翠に巻物を届けたんだけど、この建物から出られなくなって……出口まで案内してもらって良い?」
 白琳がクスクスと笑う。
「はい」
 白琳と一緒に廊下を歩きながら、紅貴は先程の翡翠の話について考えていた。昔は弱かったと言う翡翠。最初は誰しも剣が使えないというのは当たり前なのだが、それを翡翠が素直に認めたことも、翡翠が昔は弱かったと言うのも、紅貴にも信じられなかった。
「なぁ白琳、翡翠が昔は弱かったって本当か?」
「翡翠様がそれを言ったんですか?」
 白琳の声が驚いた様子で微かに跳ねる。
「うん、そう言ってた」
「翡翠様が昔のことを素直に話すなんて珍しいですね。もしかしたら、紅貴さんには不思議な力があるのかもしれませんね」
 そう言い、白琳は可笑しそうに笑った。
「う〜ん……そんなことないと思うけど。それで、翡翠が言ったことって本当なのか?」
「そうですね……たしかに、翡翠様も最初から剣が強かったわけではないと思いますよ。あぁ見えて、人一倍努力して、それでようやくあれだけ剣を使えるようになったんだと思います。ですから、紅貴さんも努力すれば強くなれますよ」
「うん、だといいな」
 今の自分はまだまだ弱い。だけど、桃華や翡翠ほどではないにしても、もっと強くりたい、強くなろう。そう、紅貴は思った。龍清も、匠院義塾にいる紅貴よりも歳下の子供もきっと最初から強かったわけではないだろう。それは当たり前のことなのだが、今になってようやくその事実を納得することが出来た。
 きっと、自分は努力を始めるのが遅かっただけだ。今はとにかくやれる努力を精一杯やるしかないのだろう。


 紅貴を出口まで送り届けた白琳は翡翠が眠る一室に向かった。戸を横に引き、翡翠がいる寝台を見ると、翡翠は書を布団の上に置き、腕を組んだまま何か考えている様子だった。
「考え事ですか? 翡翠様」
「いや……」
 そう言い、翡翠は布団の上に置かれた書物を手に取った。
「先程廊下で紅貴さんに会って、紅貴さんを出口まで送って来ました」
「あいつに会ったのか」
「はい。紅貴さんから聞きました。昔は弱かったという話を翡翠様がしたと」
 翡翠が気まづそうに視線を落とし、ため息をついた。
「紅貴さんの気持ち、分かったんですね」
 翡翠は何も言わなかった。だが、こうして何も言わないのは肯定の意味だと、白琳は知っている。
「翡翠様、翡翠様は強いと思います。剣の腕は一流だと言う自覚が翡翠様にもありますよね?……今、こうして休んでいるからと言って、翡翠様が弱いことにはならないと思います」
「だが……」
 何か言いかけて翡翠が口を噤んだ。
「翡翠様、今休んでいるからと言って、翡翠様が弱いことにはなりませんよ。たまたま今翡翠様がやるべきことは休むこと……ただそれだけのことだと私は思います」
 翡翠が、手に持っていた書を寝台の横の台に置く。
「少し寝る。客が来たら起こしてくれ」
「はい」
 すぐに静かな寝息が聞こえてきた。翡翠と紅貴。一見、共通点がないように見える二人だが、案外似た者同士なのかもしれないと白琳は思った。


| | 小説目次
inserted by FC2 system