決意の二度目

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  第1章 目覚めた場所は 1  

 

「セレナ……」
 これまでに何度も呼んできた女の名が、ひどく冷えた空気に溶けていく。その名を呼べば、いつだって彼女は頬笑みを返してくれるはずなのだ。なのに、何も声は返ってこない。
 彼女はただその虚ろな瞳を宙に向けている。深い海を思わせた青い瞳は、常であれば水面が反射するかのようにきらりと輝いて綺麗だったのに、今はただ闇を映すばかりだ。
 陰った瞳はもう、何も見ていないのだ。大好きだといったこの国も。そして、自分の顔も。
「セレナ!」
 もう一度女の名を呼び、今度は声が空気を切り裂いた。横たわる彼女の手をとり、きつく握りしめた。彼女の手から、冷たい音を響かせ、血糊がついたナイフが落ちる。握った彼女の手が冷たい。柔らかくて温かいはずの彼女の手がなんでこんなにも冷たいのだろう。
『シュウの手はいつも冷たいのね』
 そういって可笑しそうに笑っていたのに。

 灰色の石の床が、青味がかった闇夜の色に染まっている。窓から差し込む冷たい風が、床に広がった彼女の白い衣の裾を静かに揺らしている。月の輝きを持つ柔らかい金糸の髪が、赤い血とともに広がっていた。
「セレ……ナ……」
 どうかもう一度自分の名前を呼んで欲しいと願って――懇願して、声を振り絞った。すっかり色を亡くした唇は閉じられたまま動かない。
 シュウは力を失くしたセレナの身体を抱きしめた。何度も名を呼び、身を揺すり、目を開けて欲しいと叫び続ける。
 自分のせいだ。自分がセレナを殺したのだ。



 ぼんやりとした意識がゆっくりと浮上していく。何度か瞬きをし、視界が徐々にはっきりとしてきた。ゆっくりと辺りを見回し、そこがどこかの室内だということに気付いた。オレンジ色の光が室内を明るく照らし、すぐ傍にの窓をに視線をやれば、星明かりが見えた。
 どうやら今自分がいるのは宿屋らしいが、おかしい。夢でも見ているのだろうか。ここは、自分が知らない場所だ。
「あ、目覚めたんですね!」
 澄んだ明るい声が聞こえて、シュウは顔を上げる。日の光を思わせる柔らかそうな金の髪と、宝石のような明るい瞳が視界に飛び込んできた。頬にえくぼを作りながら笑みを浮かべると、肩よりも少し長い、柔らかそうな髪がふわりと舞った。
 茶のワンピースを着ている女は10代後半といったところだろうか。人懐っこい笑みを浮かべている。
「いったいここは……」
「あなた、街で倒れてたの。そのまま放っておくわけにもいかなかったから、連れてきたんだけど……大丈夫?」
「倒れてた? 俺が? 街で?」
 自分は昨晩、田舎の教会にいたのだ。
 今から4年前、19歳の頃に、なすべきことをなしてからは、ずっと田舎の村で暮らしていた。畑を手伝い、怪我をした老人や子供の手当てをし、家を持たないシュウは教会で寝泊りをしていた。昨晩も、教会の神父に夕飯を作り、それが終われば、村人に訳してほしいと言われた古文書を現代の言葉に改めていた。そうしているうちに、教会の長椅子で眠ってしまったのだ。それなのに、ここはどこだろう。
「そう。びっくりしちゃった。全身真っ黒な男の人が、倒れているんだもの」
 クスクスと笑う女の声を聞きながら、シュウは、自身の服に視線を落とした。確かに黒い。裾が長いゆったりとした衣を皮のベルトで止めている。ついでにシュウの髪と瞳も黒だ。
「セキート様が、降りてきたのかと思ったわ。あなたは人間だからそんなことあるはずないのだけど。でも、あなたを助けたら、セキート様のご利益を受けられるんじゃないかと思って」
 女が言った言葉に、シュウは耳を疑った。セキートと言えば、世界に闇をもたらすと言われている存在だ。人は皆、闇を司るセキートではなく、光の神、ビレダを崇拝している。この世界を創ったのがビレダだというのだ。――最も、シュウ自身はさほど信仰心が厚い方ではなかったけれど。
「ビレダではなくセキート?」
 『ビレダ』の名前を出した途端、女から柔らかだった笑みがみるみるうちに消えていく。目が大きく見開かれ、一歩後ろに下がった。
「あなたまさか……邪神ビレダを信仰してるんじゃ……! 光を奪う邪神を信仰してるなんて!どうしてそんなこと」
「冗談だよ」
 シュウはそう、軽い調子で言ってみる。だが、声の調子とは違い、心臓の鼓動は早い。やはり、何かがおかしい。田舎の教会で寝ていたかと思えば、見しらぬ場所で目が覚めることがまずおかしい。『ビレダ』の名を出すと分が悪いと判断して、とっさに目の前の女に話を合わせたが、このままでは状況が分からない。
「もう! 驚かせないでください! 最近、邪神を祀る教団が出来てるって聞いてたから、あなたもそうなのかと思った」
「ごめん、ごめん」
 軽い調子で言ってみるが、実のところ、シュウは自分がおかれた状況を整理するので精一杯だった。自分の身に何が起こったのかはだいたい想像できる。だが、それはあまりにもシュウが知る常識からはかけ離れてた。
(いや、そうでもないか)
 はぁ、と短くため息をついていると女がこちらに手を伸ばしてきた。
「私、セイラって言うの。よろしくね」
 シュウは、やれやれと笑みを浮かべ、セイラの握手に応じる。触れた手は暖かく、柔らかい。それが懐かしい人を思い起こさせ、一瞬、思い出に引きずられそうになった。だが、シュウはそれを振り払う。
 振り払うことに慣れていた。
「よろしく。俺はシュウ。ところでセイラ、この辺りの地図ってあるかな?」
「待ってて」
 部屋の隅に置かれた荷を、セイラが解く。それを見て、やはりここは宿屋なのだと再確認した。セイラの荷物は旅人のそれだった。華美なところがない袋はさほど大きなものではない。セイラが解いた荷の横には、剣が置かれていた。おそらくは護身用の剣だろう。
「ありました」
 両手で渡された地図を、シュウは左手で受け取る。さほど年月がたってはいなそうな紙をそっと広げ、シュウは今度は長く息を吐き出す。
「どうしました?」
「いや、なんでもないよ」
 そこに描かれていたのは、シュウが知っている世界ではなかった。

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