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  第三章 妖獣 11  

 

白琳は寝ている翡翠の額に手をあてる。普段は平熱が低い翡翠であるが、触れたその手はじんわりと熱い。熱があるようだ。白琳が桶にはった水で布を濡らして、しぼっていると、翡翠の切れ長の目がうっすらと開いた。翡翠という名前の通り、まるで宝石のような綺麗な翠色の瞳が白琳を見たが、いつもの強い光はない。客観的に見て、綺麗な目だがそれだけだ。普段の彼は、もっと強い眼をしているのだ。翡翠は白琳に気づいたのか、ゆったりとした動作で上半身を起きあがらせた。いつもは、下の方で縛っている長い髪が、今はほどけてしまってる。それだけでずいぶん印象が違うと、白琳は思った。翡翠は髪が邪魔なのか、軽くかきあげてつぶやく。
「白琳……」
 翡翠の声は微かに掠れていた。
「明日、慶に出発することになりました」
「…それが良いだろうな。会わなきゃならないやつもいるしな」
「それもそうですが、翡翠様はかなり力を使いすぎています。ここでやれることは限界がありますから、設備が整った慶に言った方が良いと思いまして――死なない程度に応急処置はしましたが、肺と胃…あらゆる臓器がやられてます。あなたが翡翠様ではなく、それから治療したのが私でなかったら死んでたでしょうね」
「……それ、瑠璃と紅貴に言ったのか?」
「言ってません。瑠璃は心配症ですから」
 もちろんそれは本当のことだったが、瑠璃と紅貴に言わなかったのは、どちらかというと、翡翠が心配されるのが苦手だというのを白琳が知っていたからだった。白琳にしてみれば、瑠璃が心配するのは当たり前だと思う。それを素直に受け取れば良いと白琳は思うのだが、翡翠はそれをいつも拒む。
「桃華は気づいているだろうな…」
「桃華様にも詳しいことは言ってませんが、気づいているでしょうね。桃華はあれで、結構鋭いような気がしますから。といっても、翡翠様を気にかけるというよりは、慶名物の羊羹を早く食べたいとか言ってましたよ」
「あいつらしいな」
 そういうと、翡翠は微かに笑った。桃華も心配していないわけではないだろう。ただ、翡翠が心配されるのが苦手というのを桃華は知っているのではないかと、白琳は思っていた。それに、桃華は意外と現実的だ。心配しても何の解決にもならないと考えているような気がすると、白琳は思う。あれで案外現実的な解決策を考える性格だと、白琳は考えていた。そんなことを考えていると、翡翠が急に咳き込み始めた。反射的に口元を覆った左手の指の隙間から、紅い鮮血がぽたぽたと落ち、身に付けていた深緑色の着流しを濡らした。鮮やかな鮮血は、着流しの上では、黒い染みを作る。震える翡翠の背をなでた。
「くそ…」
 やがて、落ち着いた翡翠はバツが悪いのか、白琳から目をそむけてしまった。白琳は何か声をかけようとして手を伸ばしたが、なんと声をかけて良いか分からず、代わりに、床に置いてある盆を手に取った。盆上には湯のみと、薬が乗っている
「これ、飲んでください」
 翡翠は湯呑を手に取ったが、口はきゅっと結ばれたままだった。おそらく、薬を飲みたくないのだろうと、白琳は思った。
「変なものははいっていませんから」
「だが薬が紫色って明らかにあやしいだろう」
 その紫色の薬は、瑠璃がもらってきた羅雪から作った壮家の秘薬だ。
「その薬は、使いすぎると、死にいたりますが、一回なら大丈夫です。一時的に喀血を抑えることができます。このままだと、慶までもたないでしょう?それを飲めば、慶に着くまでは持つでしょうから飲んでください」
 翡翠は仕方ないというように、右手で紫色の薬をつまむと、そのまま水で流しこんだ。
「今はゆっくり眠ってください。明日は一日馬の上ですから」
「それぐらいなんともない」
 そう言って白琳から視線を外す。翡翠のことだ。弱っている姿を見られたくないのだろう。しかし、白琳が気になったのは、光のない瞳だった。鋭さがない翡翠はまるで翡翠ではないみたいだと、白琳は思う。
(そんなにこの状態が嫌なのかしら)
 もちろん、弱っている状態を見られて嫌なのは当たり前なのだが、何となくそれだけではないような気がする。しかし、そんな翡翠になんと声をかけて良いか、白琳はわからない。
「ゆっくり寝てくださいね?」
 白琳はなんとかそれだけ言うと、お盆を持ち、部屋を出た。

翌朝、紅貴が繋ぎ止めてあった馬の前に行くと、先客がいた。
「翡翠!大丈夫なのか?」
 今日、慶に向かうことは決まっていたが、昨晩翡翠のところへ行った時も、青白い顔で眠っており、今朝の朝食の席にも翡翠は姿を見せなかったため、紅貴は翡翠のことを心配していた。紅貴はどきどきしながら、翡翠の答えを待っていたが、口をきゅっと結んだまま、何も答えない。不機嫌な様子を隠そうともしていない。
「おやおや、そんなあからさまに不機嫌だと、紅貴君が困ってしまいますよ」
 穏やかな亮の声に紅貴は救われたような気がした。
「余計なお世話だ」
「子供の頃のことでも思い出していましたか?いけませんね〜。そんなことで周りに八つ当たりするなんて」
「……あのくそじじぃから何かきいたんですか?」
 すっと目を細めて亮を睨みつける翡翠を見た、紅貴はわずかに冷汗が流れるのを感じたが、亮は動じていないようだ。
「ちょっと、翡翠!お世話になった亮さんに何喧嘩売ってるのよ」
 旅支度を済ませた瑠璃が腕を組んで立っていた。この状態の翡翠に怒ることができるとは、さすが翡翠の妹だと、紅貴は思った。
「早く羊羹食べに行こう〜」
 間の抜けた少し高めの幼い声は桃華だ。まったく関係ない話をするところが桃華らしい。だが―そんな桃華の態度が今はちょうど良いと、紅貴は思った。翡翠をちらりと見ると、翡翠は亮を睨むのをやめていた。といっても、不機嫌なのを押し殺しているだけかもしれないが。とはいえ、気まずい空気から解放され、紅貴は安心して息を吐いた。
「慶の羊羹ってそんなにおいしいのか?」
 紅貴の問いに答えたのは、桃華ではなく、白琳だった。
「梅花堂の春の桜羊羹は桃華様の大好物ですよね」
 白琳が朗らかに言った。
「さてと、これで全員そろったわね」
 瑠璃が少量の荷をかけながら言うと、桃華と白琳も、それぞれの馬の横に行き、出発の準備を始めた。
「ちょっと待ってください!」
 子供のはっきりした声に、紅貴が振り向くと、走ってきたのか、少し息を切らした清風と、それを温かく見守る冬梅と覚信がいた。
「麒翠様目が覚めたのですね。あの、俺、お礼をみなさんにちゃんと言ってなかったから……その、本当にありがとうございました」
「少しでも約にたてたならよかったわ。もっとも、二将軍は、それが『仕事』だけどね。清風も禁軍兵士になってそんな存在になりたいのよね?」
 清風の声に真っ先に答えたのは瑠璃だった。言った後に、翡翠と桃華を見ているということは何か言えということではないだろうかと、紅貴は思った。それに気付いたのか、桃華がにっこりと笑って言う。
「清風は、この村を守りたくて、私たちを呼んだんでしょ?その気持ちを大事にすれば大丈夫だと思う。剣の筋も良いみたいだし、がんばってね」
「俺の剣見たんですか?」
 桃華が、少しだけ、というと、清風は恥ずかしそうに俯いた。
「俺もあれくらい強くなれれば良いんだけどな」
「大丈夫、私が鍛えるから」
「え、お兄さん、鳳華様に剣教えてもらえるの?いいな〜」
 清風がそう言うと、ずっと黙っていた翡翠がようやく口を開いた。
「冬梅や亮、覚信に囲まれてる方がずっと恵まれていると思うぞ。せっかく良い師を持ったんだ。せいぜい大事にするんだな」
「はい、ありがとうございます」
 そう言った清風は本当に嬉しそうだった。
(あいつ、翡翠にあこがれていたんだな。そういえば、俺もあれくらいの歳の頃、暁貴に憧れてたな)
「言い忘れていたが、李京で二将軍の名前を出して、適当に話せば湖北村の修理費と、その間の住居はなんとかなるだろう…… 妖獣を倒すためとはいえ、少しやりすぎた」
「言われなくてもそうするつもりでしたよ」
 亮にそう言われた翡翠は、チッと舌打ちをしていた。
「そうだ、最後に。この神社にある聖刀は本物だと思うの。だから大事にしてね。きっと、この刀がこの神社を守ってくれるから」
「ご忠告ありがとうございます。わたしからもすこし良いですか?紅貴君」
 まさか自分に声がかかると思っていなかった紅貴は亮に話しかけられ、少し驚く。
「昨日は少しきつく良いすぎました」
 実力がなければ救えないということだろうか
「ですが、紅貴君が、人を救える力を手に入れることができると、わたしは信じてます。だから頑張ってくださいね」
 そう言って笑んだ亮の笑みは、少し、紅翔に似ており、紅貴はおもわず、こくんと頷いた。

 この五人で旅を始めてまだ数日だが、ずいぶんと濃い数日だった。洸を救いたいという想いは本当だったが、剣一つまともに扱えない自分にはいかに無謀かということにも気付かされた。それでも、その想いが変わることはない。それが自分に課せられた責任でもあるからだ
(強くならなきゃな……でも今は)
 紅貴は前を走る翡翠の背中を見遣る。天馬の手綱をもつ翡翠の背中はいつもより頼りなく感じる
(口に出したら怒られそうだけど、翡翠、早く元気になれよ)
 あたりは日が沈みかけている。もうじき慶に着くだろう。

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