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  第四章 星の願いは 4  

 

 今、ここにはいないはずの気配に、翡翠は目を開けた。体を起き上がらせ、気配のする方――さきほどまで閉じられていたはずの硝子の窓の前をみると、そこに立っているのは、翡翠の部下でありながら、親友でもある駿だった。
「将軍が情けない醜態をさらしているって聞いたんだけど、本当だったんだね」
「てめぇ喧嘩うってるのか?」
 辺りは夜の闇で支配されていたが、部屋に差し込むわずかな月明かりが、駿の姿を浮かびあがらせていた。窓から入ってくる夜風が、遊ぶように駿の黒髪をなびかせていたが、それをさして気に留める様子はない。代わりに、月明かりは、駿の別の表情を映していた。翡翠にとっては、意地の悪い、別の見方をすれば不敵な笑みともいえる表情だ。
 やがて、駿は、窓を閉め、音を立てずに翡翠に近づいてきた。翡翠が寝ている寝台の横に座ると、意地の悪い笑みをいっそう濃くした。
「喧嘩売ってるのって質問だったけど、翡翠に喧嘩を売るのは俺の趣味みたいなものだからね」
 駿の答えに、翡翠は思はず溜息をつく。疲れた時に出る種のものだった。
「まぁ、今の翡翠が情けないと思うのは事実だけどね」
「……てめぇ」
「冗談だよ。……よくわからないけど、気にしない方が良いよ。誰にだってこんなことはあるんだからさ。それに、 翡翠はこんなこと初めてじゃないだろう? 学生時代にも確かこんなことあったよな? 今更気にすることはないよ」
「お前、やっぱり喧嘩売ってるだろう」
 駿はただ笑うばかりだ。意地の悪い笑みは消えていたが、楽しそうに見えるのはなぜだろう。そんな駿を見て、翡翠は再び溜息を吐いた。
「だいたい、なんでお前がここにいるんだよ」
「少し気になることがあってね。今まで恵国に行ってた龍清様に、話を聞きたかったんだ。龍清様が、慶にいるっ聞いてねぇ、俺は これから弄国に行くんだけど、その前にここに寄ったんだ。あぁ、そうだ、漣も連れてきたよ。龍清様の話を一番聞きたがっていたのは、漣だからね」
「漣は?」
「天馬で、李を発ってから、一度も休まずにここまで来たから、今は疲れたみたいで宿で寝てるよ。漣、運動不足なのかな」
 翡翠は呆れてため息をついた。たとえ武官であっても、李京から一度も休まずに、ここまで来たとしたら、疲労は溜まるはずだ。文官の中では、珍しく、天馬に乗れる漣だが、普段は天馬に乗らない連なら余計にそうだろう。翡翠にしてみれば、一度も休まずに、おそらく一度も寝ることもなく天馬に乗り続け、疲労の色ひとつ浮かんでいない駿の方が異常だった。だが、この男は昔からそうだった。どういうわけか、いくら徹夜しようと、どんな訓練をうけようと、常に涼しげともいえる表情でいられるやつだ。
(そういえば、こいつの体力には覇玄も驚いていたなぁ)
 そんなことを考え、異常なのは駿の体力なのだと再確認する
「瑠璃……瑠璃ちゃんは元気?」
 不自然に変えられた話題に、一瞬驚いたが、駿がわざわざこの部屋まで来た目的は、これなのかもしれないと、翡翠は思った。
「元気だ」
「それなら、良かった。――ちゃんと危険から守ってくれてるみたいだね」
「……そんなに気になるなら、直接会いに行けば良いだろうが」
「会わないよ」
「は?」
「会うと決意が揺らぎそうだからね」
 外から僅かに入る夜風にかき消されてしまいそうな小さな声だった。
「お前一体何考えて……」
「邪魔したね。ゆっくり休めよ」
 翡翠の言葉を遮るようにそう言うと、駿は窓から、外へ出て行ってしまった。駿がさったこの部屋は、静寂と闇が包み、わずかな月明かりがかろうじて、部屋を灯すだけだ。
 ――あいつは、やっぱり光より闇のほうが似合うな。
世間では若き天才などと呼ばれ、その容姿なども手伝い、何かと目立つ華やかな存在だが、本質は闇に近いのではないかと、翡翠は思う。そう、ちょうどこの部屋のような。具体的にどういうことだと聞かれても、答えられないだろうが、ただ、なんとなく、そう感じるのだ。――その駿が何かを企んでいる。
(やっかいなことにならなければ良いが……)
 再び落ちたため息は、静かに闇に溶けていった。

 駿が、宿、正確には宿として借りている部屋の一階の食堂に着くと、客がいた。
「久しぶりだね。桃華ちゃん」
 駿が声をかけたのは、ちょうど、漣が桃華の湯のみに茶を注いだ時だった。桃華は、湯呑を両手で大事そうに持ち、駿の方を見た。
「駿、久しぶりっ」
 そう、無邪気に見える笑みで言った。同じ地位に就きながら、先ほど会ったもう一人の二将軍、翡翠とは大違いだと、駿は思った。
「俺たちの居場所よくわかったね」
「天テンが見つけてくれたの。今ね、ちょうど漣から可憐の話を聞こうと思ってたところ」
 駿も、桃華と漣が囲む円卓に着く。それを待っていたかのように、漣が話し始めた。
「可憐はやっぱり恵から来た子だ。全部鳳華の言った通りで、可憐は恵の華族、月宮家の出身だった」
「やっぱりそうか〜」
 口調はのんびりしているが、桃華の顔からは笑顔が消えていた。
「可憐ちゃんに、紅貴君を捕まえるように言ったのは檜悠様だってね」
 駿の言葉に、桃華は、湯呑を置くと、考え事をするように、手を顎の下に当てた。
「可憐は、やっぱり、恵国の皇位継承争いに巻き込まれちゃったんだね。……皇位継承の『証』を持って生まれた第一皇子灑碧(さいへき)様が亡くなちゃって恵国も大変だよね。実質、あそこには皇位継承者がいないんだもん」
「でも、皇子ならあと二人いるだろう?月宮家から嫁いだ妃の子供、第二皇子の挺明稜(ていめいりょう)様と、同じ華族の光宮家出身の妃の子供、第三皇子の檜悠(かいゆう)様。いや、同じ華族出身の妃から生まれた皇子同士で、歳もそう変わらないから、継承者争いが起こるんだろうけど」
「正確には、本来、そのどちらにも皇位継承権はないわ」
桃華のきっぱりとした口調に、漣は驚いたように、桃華を見ていた。
「本来、『証』が無いものに、継承権はないわ。理由はどうであれね」
「でも、『証』をもった皇子が亡くなった以上、どうしようもないんじゃないか?嘉国がそこまで気にする必要ないだろう。 可憐に、紅貴を捕まえるように命じたのは確かに檜悠様で、それが月宮家の地位を貶めるのが目的なのは明らかだ。だけど、本来それだって、嘉が気にする必要はない。気にしなきゃいけないのは、可憐を引き渡す時のことだ。こっちで、可憐が刑を受けた後、当然、可憐を恵に引き渡すことになるけど、その時に、可憐が言ったことを恵側に言わなきゃいけない。つまり、可憐が紅貴を狙ったのは、檜悠様に命じられやったってことを。でも、可憐を利用して、皇位継承を狙うような皇子が、それを素直に認めるとは思えない。当然、皇族大事の恵国では、檜悠様のことを信じるだろう。そしたら、大変なことになるよな。檜悠様が本当のことを言ってくれれば良いんだけど……」
 漣は、一旦言葉を切り、お茶を飲むと、再び言葉を続ける。漣がお茶を飲んでいる間も、桃華の表情は硬かった。何か難しいことを考えているようなその表情は、剣を振り回す武官というよりは、朝廷における文官のようだと駿は思う。
「……中丞(ちゅうじょう)としての俺の役目はほとんど終わったようなものだけど、この後、法の執行を司る廷尉に引き渡して、それと並行して典客に、檜悠様が本当のことを言ってもらうように頼んでもらう……本当にそれで良いのかなって気はする」
「…… この件はもっとややこしいと思うわ。まず、法の執行を司る廷尉が、刑罰を行うのは良いわ。ただ、典客に、恵国、いえ、檜悠様の交渉を頼むのはどうかしら。たしかに、本来外の国から来た人の相手や、外交一般をするのは、典客って役職の仕事だけど、それは一般的な場合。典客は檜悠様……恵皇室の皇子相手に何かいえる地位ではないわ。そもそも、国の成り立ち、歴史を見ると、恵と嘉の関係は……これは、この話には関係ないわね。とにかく、嘉の典客では恵国の皇室に物は言えないわ。それから、漣は、檜悠様が本当のことを言えば良いって言ったけど、そうでもないの。たとえ、檜悠様が本当のことを言ったとしても、嘉に良いことはないわ」
「どういうことだ?」
「逆に聞くけど、檜悠様が可憐に命じたことを認めたらどうなるの?」
「第二皇子挺明稜様の地位が確立して、檜悠様は地位を失うんだろう。ある程度仕方無いんじゃないか。どちらにしても恵国の民にしてみれば、皇位継承者がはっきり定まった方が良いだろう」
「ううん。そういうことじゃないの。確かに、皇位継承者ははっきり決まった方が良いだろうけど、証を持った人物が、皇位を継承しないと意味ないのよ」
「でも、証を持った皇子はいないんだろう?」
「極端なことを言えば、もし、檜悠様が本当のことを言わないで、それを理由に嘉に何か言ってきて……例えば、戦をしかけてきても、嘉が負けることはまずないから、そう言う意味ではまず問題ないわ。どうして、嘉が負けることはないかって話は今は置いておくけど……」
桃華が出した戦という単語に、漣は少し驚いたようだった。
「話を戻すわ。檜悠様が可憐に、紅貴を捕まえるように命じたことを認めたら、結果的には、間接的とはいえ、挺明稜様の皇位継承権の確立は、嘉がきっかけってことにならない?檜悠様のことを暴いて、結果的に、檜悠様の地位を失わせたのは嘉だから」
「確かにな。でも、それがなんの問題があるんだ?」
「嘉が、証を持たない皇子を認めたことになるのが問題なの。 ……歴史を見る限り、『証』を持たない者が、王位に就いた国は、荒れるか、時には滅びることさえあるわ。『証』もたない挺明稜様が皇位を継承して、恵が荒れれば、それは、嘉が、『証』を持たない皇子を継承者として認めたのがきっかけだった……なんて、あとの歴史書に書かれかねないわ」
「でも、証を持たなくても、うまくいくかもしれないだろう?」
 桃華は、ゆっくりと首を振った。
「言い方を変えれば、うまくいくかいかないかなんて関係ない……皇位継承者は、『証』を持ったものじゃなきゃいけないのは、この世界の理なの」
 駿から見て、円卓の右と左、向かい会う桃華と漣を見ながら、駿は思う。桃華の思考は16歳のものではないと。漣は、駿と同じく、21歳だが、これだけ若ければ、『理』といわれて、納得する者の方が少ないだろう。顔立ちは幼く、精神年齢も一見幼いのかもしれないが、その思考は16歳のものではない。ふと、「それが理だからね」そういって笑う師、遥玄の顔を思い出し、駿は、二人に気づかれないように、心の中で笑った。
「じゃあ、俺はどうすれば良いんだよ」
 悟られないようにしているつもりだろうが、漣の声はわずかに低くなっており、桃華に対し、少し棘があるのを駿は感じた。
「可憐を廷尉にも引き渡さないで、恵に渡すこともないように、引き止めてほしいの。この件に関しては、私ができるだけなんとかしてみるから、お願いっ」
 漣は、府に落ちないといった様子で腕を組んで桃華を見ている。漣の黒い眼は、細められ、桃華が言ったことに納得していないことは明らかだった。
「……武官は、だいたい、文官の決定に従って動くんだよね。武官に、あらゆる決定権を持たせちゃうと、暴走するから」
 駿が、言葉を発すると、漣の眉が潜められた。
「武力を有するとともに、あらゆる文官がもっている決定権までもってる唯一の官ってなんだっけ?」
「……二将軍?」
 あまり、その単語を出したくないというように、漣が言葉を発するまでに一瞬の間があった。
「そう。二将軍。二将軍は、決定権と、実際に動くための武力があるから、緊急性があってすぐ動かなきゃいけない時とか、どこの官の管轄か分からない問題なんかで動くのに便利だよね。ようするに、何でも屋みたいなもんなんだから、こういう面倒な問題は押し付けちゃおうよ」
「わかったよ。鳳華に任せれば良いんだろう」
「ありがとう、漣。龍清からの報告によってはどうなるか分からないけど、これから恵国に行くから、その時に、なんとかしてみる。……嘉に悪いようにはしないから、安心してね」
 先ほどまで無表情だったはずだが、桃華は笑顔になっている。いつもの、無邪気に見える、可愛らしい笑顔だ。しかし、無邪気に見えるだけだ。本当の無邪気な笑みというのは、瑠璃が見せる笑顔のことだろうな、と駿は思った。
(あの笑顔は見たいけど見たら決意が揺らぐんだろうな……)
「駿、どうしたの? 急にぼんやりしちゃって」
 桃華の言葉に、駿は、何ごともなかったかのように、にこりと笑顔を作る。ふと、桃華の見せる笑顔と、自分が作る笑顔は、似ているのではないだろうかと、駿は思った。
(桃華ちゃんと俺は、やっぱり似たものどうしなのかな?)
 再び見た桃華は、やはり楽しそうで、16歳の年相応の少女そのものだった。

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