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  第四章 星の願いは 5  

 

えぇーと……俺はなんでこんなところにいるんだろう
 数歩分先に対峙する少女、桃華を見ながら、紅貴はそんなことを考える。昨夜は、瑠璃、桃華、龍清、覇玄と食事をした後、匠院義塾に戻り、そのままそこに泊まったのだが、夕食後、桃華はどこかにいってしまい、その後、姿を見ることがなかった。もしかしたら、紅貴が寝た後にここに戻ってきたのかもしれない。今日はその桃華に起こされたのだ。しかし、その時刻が問題だった。紅貴が起こされた時、起きている生き物の気配は、鳥だけだった。桃華に無理やり連れて行かれるような形で、外に出ると、辺りはやわらかな朝もやに包まれていた。春とはいえ、日が覗いてから、そう時間がたっていない早朝は、少し肌寒かった。
 この場で起きているのは紅貴と桃華だけなのか、辺りは鳥の鳴き声を除けば、静かだった。もっと、辺りを見渡せば、綺麗な光景が見られたかもしれなかったが、とにかく眠い紅貴は、眠たい眼をこすりながら桃華についていくので精いっぱいだった。しばらく歩いて着いたのは、匠院義塾の敷地内にある道場だった。かつては、真っ黒だったであろう灰色の瓦の屋根が歴史を感じさせた。桃華が道場の木でできた戸を引き、紅貴は促されるようにして、中に入った。桃華は、立てかけてあった木刀を桃華に投げてよこして、にっと笑った。そうして今に至る。
 開け放たれた道場の戸から入る、早朝の鈍い光が桃華を照らしている。いつもはお団子の髪は、今は高い位置で、ひもで括られているだけだ。髪はくるくると丸くなっており、桃華の幼さをより強調しているようにも見える。着ているのは、上下でつながった淡い桃色の服で、袖はふんわりと丸い。とても、武官には見えないが、その手には少女の見た目には不似合いな木刀が握られている。
「あの……桃華?」
「剣教えるっていったでしょう?」
 眠い紅貴とは違い、桃華の明るい澄んだ声が言った。
「でも、いくらなんでも朝早すぎないか」
 現に、紅貴と桃華以外の人影はない。
「こういう誰もいない時間に剣で汗をかいて、井戸の水をかぶるのが気持ちいんでしょ?ってことでいくよっ!」
(早い!)
 正確には、そう思ったのが先か、紅貴が、かろうじて桃華の剣を受けたのが先か分からない。気づいた時には、桃華の剣を受けざる得ない状況に陥っていた。剣にびりびりと震動が伝わり、握りしめた剣の向こう側の桃華と視線が交わる。大きな茶色の瞳は、可愛らしいはずなのだが、その鋭い視線に射抜かれた。木刀を持った手からは汗が吹き出す。視線の先の桃華の桃色の口が笑顔を作ると、姿が消えた――ように見えた。その一瞬の隙、紅貴の心は恐怖に支配された。背からのぞくりとした気配に、後ろを振り返るが、桃華の姿を捉える前に、木刀が飛んでくる。紅貴がとらえられたのは、左耳を掠めるヒュッという鋭い音だけだった。なんとか、態勢を整えようとするが、間に合わず、木でできた床に押し倒される。ひんやりとした床の冷たさを背で感じながら、視線だけ動かして、左を見ると、木刀が首の横に当てられていた。
「本物の刀だったらいつでも首取れるね」
 桃華の声が降ってくる。桃華が、木刀を外し、仰向けに倒れる紅貴を見下ろしてくる。紅貴は、なんとか起き上がるが、何も言うことができない。どきどきと脈打つ、いつもより早い心臓の鼓動を聞きながら、木刀を持って立ち上がると、背を冷たい汗がつたった。しかし、なにも今紅貴が感じている寒気は、汗のせいというわけではないだろう。紅貴は、木刀の先に見た桃華を思い出す。床に倒れる前に、紅貴の視線の先に見た桃華の鋭い視線に、捕らわれて、時すでにあの時負けていたのかもしれない。
「紅貴ってまったく剣の素人ってわけじゃないんだね〜」
 紅貴にとっては場違いな明るい声に不意をつかれ、桃華を見る。先ほど、恐れた鋭い視線はなく、どこにでもいる16歳の少女の瞳に戻っていた。
「子供の頃は剣をちゃんと教えてもらってたんだ。もう何年もちゃんとした稽古はしてないけど」
「紅貴に剣を教えた人って結構強かったんじゃない?」
「……うん。見た目は全然そう見えないんだけど、すごく強かった」
「紅貴、その人のこと本当に尊敬してたんだね」
「わかる?」
 桃華はにこりと笑って頷いた。
「なんか、紅貴嬉しそうだもん。紅貴が弱いのは、経験不足だからみたいだね。実戦が足りないっていうのかな?」
「そうかもな……」
 実際紅貴は自分自身が敵と闘うことはなかった。旅をしている時も、守られていたのだから。いや、その後もか。
「というわけで、わたしが毎日剣の相手してあげる」
「毎日……?」
「実戦がたりないんだから、私が毎日剣の相手すれば、剣を使えるようになるんじゃないかな?」
それは正論なのだが、毎日あの剣を受けると思うと、恐ろしい。
「え、でも桃華毎日は……それに、おれはどちらかっていうと型とかを教えてもらえたら……」
「剣の型なら、その尊敬してた方に教えてもらったんでしょ?それは、紅貴一人でも確認できるだろうし、戦った方がいいわ。ってことで毎日試合ね」
 桃華は笑う。一見可愛らしい笑顔だが、その笑顔は、強制力を持っていると紅貴は思っていた。

 紅貴が朝食を食べ終わった頃、白琳が匠院義塾に覇玄に連れられてやってきた。
「あれ?白琳、髪下ろしちゃったんだな」
 昨夜、簪で止められていた黒髪は下ろされていた。髪が肩にかかり、白い着物との対比が綺麗だったが、紅貴は少し残念に思った。
「翡翠は白琳が髪型変えた所見たの?」
 桃華の質問に、白琳は、考えるようにして答える。
「見ていないと思いますけど」
「それは翡翠……惜しいことをしたな」
 龍清がつぶやいた言葉に、白琳は不思議そうに首をかしげている。
「ところで龍清様、翡翠も交えて話したいことがあるのですよね?」
 瑠璃の言葉に、龍清が頷く。
「翡翠様でしたら、今は起きてますからお話できると思いますよ」
「じゃあ、翡翠のところへ行こうか。これから恵に行くなら、どうしても知ってもらいたいことがあるんだ」

 昨夜、翡翠が寝ていた部屋に着くと、翡翠は寝台で体を起き上がらせ、巻物を読んでいた。
「翡翠、大丈夫か?」
 紅貴が翡翠に尋ねると、翡翠は巻物を置き、こちらを見る。
「別にお前に心配される必要はない。ところで紅貴、その怪我どうしたんだ?」
 一瞬、なんのことだろうと、紅貴は思ったが、桃華と剣を打ち合った時、木刀が頬をかすめ、避け方を失敗し、少し切ってしまったのを思い出した。本当に大した怪我ではない。
「今日、桃華に剣の相手をしてもらった時に、一回目は剣を受けることができたんだけど、二回目は失敗しちゃって」
「……お前が、一回でも受けることができたなんて、桃華は相当手を抜いたんだな」
「本気でやるわけにいかないでしょう?」
 どうやら、朝のあれは本気ではなかったらしい。紅貴にしてみれば、本気ではない桃華でもずいぶん恐ろしかったのだ。桃華の本気はいったいどんなものなのだろうと、興味が沸いたが、それが見たいか見たくないかどっちかと問われれば、どっちとも言えない気がする。想像はできないが、きっと物すごく恐いだろう。
「で、龍清様、俺達に何の話があるんですか?」
 翡翠は龍清にたいして敬語を使っているが、なんとなくぎこちないと紅貴は思った。
「恵国に行ったら、大変な噂を聞いたんだよ。妖獣がたくさんいて、恵国の街や、村が襲われているらしいんだ」
 龍清の言葉に、紅貴は耳を疑った。湖北村の妖獣だけでも十分あり得ない話だったのだが、恵国にはそれがたくさんいる。それはいったいどいうことだろうか。
「その原因についても噂が流れてたよ。『呪い』だって」
 ――呪い。紅貴は、そんな曖昧な事象で、妖獣がたくさん発生するはずはないと思っていたが、不思議と、龍清の話の続きに引き込まれていった。

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