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  第6章 噂 1  

 

 最近では、道を行く人々は集団で歩いていることが多い。そう、宵汐(しょうせき)は思っていた。今のところ、大きな街が妖獣に襲われたという情報は入っていなかったが、それでもいくつの街が妖獣に襲われていると聞いた。実際、宵汐が王宮「碧嶺閣」を出てから、妖獣に襲われた街や村を何度も目にした。村ごと破壊され、亡骸が横たわる村。亡骸を抱き、身体を震わせている人々は、一様に灑碧(さいへき)の呪いのせいだと言っていた。
――もしも本当にそうならばどうすれば
 そう思いかけて、宵汐(しょうせき)は小さく首を振った。そんなことはありえないのだ。死んだ人間の恨みが呪いを引き起こして、それが妖獣の発生を招くなど。それに何より、あんなにも自分の責任をまっとうしようとしていた灑碧がそんなことをするはずがない。
「こんな馬鹿なことを考えている場合ではないわ」
 今、自分にはなすべきことがある。皇女である自分が恵を救う努力をしなければ、誰が恵を助けるのだろう。宵汐はそんなことを思い、目の前の粗末な木の家を見つめた。そこから視線をすこしずらせば、恵の都榛柳と、王宮碧嶺閣(へきれいかく)が一望できる。宵汐が今立っているのは、都のすぐ側にある山の上なのだ。
(まさかこんなに近くにいらっしゃるなんて)
 恵国の皇位継承問題。妖獣が人々を襲っている今、そんなことをしている場合ではないというのに、宮中では、皇位継承問題が浮上している。宵汐は皇位継承問題を解決してくれるための知恵を貸してくれそうな人物を探し、同時に、妖獣に襲われているこの国を救うために碧嶺閣を出たのだった。
 宵汐はこの家にいるはずの人物を想い、戸に触れた。粗末な木でできた戸は触れただけで崩れ落ちてしまいそうだった。
  こんな場所にいるべき人物ではないのに。そんなことを考え、小さくため息をつき、宵汐は静かに戸を叩いた。
「誰?」
 建物の内から聞こえてきた声は、女性のものであったが、その割には低い。その声に、宵汐の心臓の鼓動が早まる。記憶にある通りの声だったのだ。
「宵汐です」
「今、開けるわ」
 しばしの間の後で返事が聞こえ、戸が開かれる。戸を開いた人物を見て、宵汐は目を瞬かせた。目の前の人物は宵汐の記憶にある通りで、少しも変っていない。低い位置でしっかりとまとめられたく黒髪も、同じ女である宵汐から見ても色っぽく感じられるその人物の雰囲気も、宵汐の記憶にある通りだった。
「大きくなったわね」
「あれから何年も経ちましたから」
「そうね……ひとまず、中に入って」
 女に促され、宵汐は家の中に入る。靴を脱ぎ、床に上がると、奥に部屋があった。紙が茶に変色しかけている障子戸を引き、中に入ると、床は一面畳が敷き詰められていた。部屋の面積の半分ほどが書物で埋まり、部屋のわずかに空いている一角に、押し込められるようにして座卓が置かれていた。
「狭い家で悪いわね。そこくらいしかしか座れる場所ないけど、座って」
 女に部屋の一角を指差され、宵汐は座卓の前に座った。座卓の上に湯のみが置かれ、湯が注がれる。
「ありがとうございます」
 宵汐が礼を言うと、続いて、煎餅が置かれた。今にも崩れ落ちそうな家ではあるが、食事に困っているという風ではなかった。
「まさか碧嶺閣からこんなに近い場所に住んでいるとは思いませんでした」
「ここに越して来たのは最近のことよ。ところで、私に何の用かしら? 宵汐」
「相談があって来ました。灑碧が死んで、証をもった皇子がいなくなってから、ずっと誰が後を継ぐのかが問題となっていました。第二王子の挺明稜と第三皇子の檜悠が大きくなってからは余計に。檜悠の母親の陽春(ようしゅん)は光宮家の出身なものだから」
「今の皇后の明汐様は月宮家だからねぇ」
 呆れたというように女が言った。光宮家と、月宮家は、同じ華族である。宵汐が見る限り、陽春は、光宮家の権威のために、なんとしてでも、檜悠を次の帝にしたいようだった。皇族である宵汐が子をなせば、灑碧亡き今、皇位継承の証を持った子供が生まれる可能性がある。証を持った者は各国、同じ時代に二人まで存在する可能性がある。証はその時代の帝が次世代のものへ継がせた瞬間帝の地位を退いたものからは消えるが、今の恵では、現在の帝が位を維持していたとしても、灑碧が死んだ以上、もう一人証をもった者が生まれる可能性があるのだ。証を持った今の帝と、これから生まれるであろう証を持った者。それで二人だ。
 だが、やはりなんとしても檜悠を帝の地位に就けたいのか、宵汐に縁談の話が持ち上がるたびに、妨害をしていたほどだ。そういったことを繰り返され、ついには宵汐は子を成せない身体になってしまった。毒を盛られたのである。証拠は見つからなかったが、宵汐は、毒を盛ったのは陽春ではないかと思っていた。
「こんなことをしている場合ではないのですが。陛下に、皇位継承者を指名しないのですが、と聞いたら、いずれ証を持った者が現れるはずだから、皇位継承者を指名する訳にはいかないと言って……私は子を成せる身体ではなくなってしまったと言うのに」
「なるほどね」
 女はなぜか、笑いが混ざった声で言った。
「あの、私何かおかしなこと言いました?」
「いや」
 女はゆっくりと首を振り、茶を飲んだ。やがて、ことりと小さく音がして、湯のみが置かれた。
「それよりも、恵を襲っている妖獣の方が問題でしょう」
「はい。そうなんです。私はなんとしても、妖獣をなんとかしたいんです。でも、私の力では倒せない……!」
 宵汐は自らの服を握る。こんなことをしても仕方ないと分かっているのに、悔しさが溢れ出て来る。
「……それでも、ある程度の剣は使える。それだけで皇女としては十分よ。それで悔しいというのなら、かつての灑碧はどうなるの?それに、どちらにしても妖獣は、普通の人間には手に余るわ」
「……はい」
 静かに返事をしながら、宵汐は心を落ち着かせようと、そっと胸に手を当てた。目の前の人物の居場所を探し、今こうしてここに来たのは、こんなことを言う為ではない。宵汐は顔をあげ、女を見つめる。
「私は今から、嘉に行こうと思います。ですが、他に妖獣を倒す術を、知っていたら知恵を貸していただきたいと思いまして」
「嘉に行く。それで良いと思うわ。嘉で二将軍の助けを求めなさい」
「二将軍、ですか?」
 女は静かに頷く。
「あれは普通の人間の手には余るわ。だけど、二将軍だったら倒せるかもしれない」
「ですが、二将軍の手を借りたいだなんて……いくら、嘉と古くから友好関係があると言っても、そんなことが可能でしょうか」
 宵汐としては、恵では足りない分の兵を、嘉が貸してくれないだろうかと考えていたのだ。もちろん二将軍が来てくれるのならそれに越したことはないが、そう簡単に来てもらえるものなのだろうか。少し待っていてちょうだい、と言い、女は立ち上がった。本や巻物が積まれている一角の前で膝をつき、薄いが塗られた黒い文箱を取りだした。細い筆を手に盛ち紙にさらさらと字が書かれていく。少し離れた位置からその様子を見ていたため、内容まではわからなかったが、遠目で見ても相当な達筆であることが分かる。宵汐とて、幼い頃、目の前の女に字を教えてもらい、筆使いにはそれなりに自信があるが、目の前の女には敵わない。
 しばらくして、くるくると巻かれ紐で閉じられた紙が宵汐に差しだされた。
「これを嘉国の王に渡して。そうすればきっと二将軍は来てくれるわ。もっとも……」
 女は右手を口の前に置き、小さく笑って言葉を続けた。
「そんなものを渡さなくても、きっと二将軍は恵にくることになるわ」
 そんな簡単に来てくれるものではないはずなのだが、目の前の女が自信たっぷりにそう言うとそれで間違いがない気がしてしまう。思えば、宵汐が幼い頃からそうだった。
「あの、これにはいったい何が書いてあるんですか?」
「嘉国の王へのお願いよ。大丈夫よ、私はあの王とは古い付き合いだから」
 そう、口元で弧を引き女が笑う。嘉国の王と知り合いであったことに宵汐は内心驚くが、そんな驚くべきことでさえ、目の前の女であればありえることだと納得してしまう。目の前の女が嘉国の王の知人だというのなら、もしかしたらこの書状の中身は、親しい知人としてのそれなのかもしれない。嘉国の王は情に厚い人物だと聞いている。だとすれば、二将軍が恵に来てくれる可能性も高くなるのではないだろうか。
「あの……何から何までありがとうございます」
 宵汐は書状を受け取りながら頭を下げたが、顔を上げてちょうだいと、声がかかる。書状を胸の前で持ちながら、顔を上げると、女は少し困った様子で笑んでいた。
「自分の国のことだから放っておくわけにはいかないわ。それに、こうなった責任は私にもあるから」
 そう、彼女にしては珍しく、すこし悲しげな声色で、女は呟いた。幼い頃は悲しげな声に気づかなかったのか、それとも本当に悲しげな声色が珍しいのか。おそらく後者であろうと、宵汐は思った。



「恵は、嘉とはずいぶんと雰囲気が違うんだな」
「お固い国だからじゃない?」
 辺りを見回しながら言った紅貴に、桃華が軽い口調で答えた。昨晩は嘉の明陽の宿で止まり、今朝国境を越え、恵にやってきたのだ。国境を越えた瞬間街の雰囲気が変わった。明陽は雑多に人が流れていたのが、恵に入った瞬間、歩き方が決まっているかのように人が流れてている。恵の中心部に向かおうとする者は路の右側を歩き、恵から出ようとするものは左側をあるいている。道の中央は商人などが引く馬車が通っていた。
 建物の様子も、嘉とは異なっていた。嘉では街によって差はあれど、建物の形状は様々で、屋根も色とりどりであったのに対し、恵国の斉晏は、どの建物のも一様に、白く塗られ、屋根は紺色をしている。せいぜい建物によって異なることといえば、看板が店によって異なるくらいだった。
「変わっていませんね」
 白琳がつぶやくように言った。街並みを眺める白琳の目が、懐かしさからだろうか。わずかに細められた。
「白琳、恵の生まれだって言ってたけど、恵に来るのは久しぶりなのか?」
 紅貴が問うと、風になびく黒髪を抑えながら、白琳が微かに笑う。
「はい。実は、幼い頃に恵を出て以来です」
「でも、恵に入る人より、出る人の方が多いねぇ。やっぱり噂のせいかなぁ」
 桃華が白琳の言葉に続いて言うと、桃華の横を歩いていた瑠璃が辺りを見回した。
「確かに桃華の言う通りね」
 瑠璃が、桃華の視線を追いかけながら言ったその時だった。ちょうど、紅貴らが歩いているすぐ横の店の前に荷を下ろしている商人の会話が耳に入った。
「また妖獣にやられたらしい」
「またか? いったいこの国はどうなっているんだ……! 灑碧の呪いせいでなんで俺たちがこんな想いをしなきゃならないんだ!」
 怒りのやり場がないといった様子だった。拳をどこに打ちつければ良いかわからないとでも言うように商人の男は、震えている拳を固く握っていた。
「灑碧が生きている時から、妙な噂があったじゃないか。灑碧の周りで人がたくさん死んだってな。灑碧が死ぬ直前にも、妖獣が出てたが、灑碧が死んだら妖獣は現れなくなった。……きっと、灑碧そのものが呪われた存在なんだよ」
 商人の話を聞いているうちに、心臓の鼓動が大きくなる。紅貴は灑碧に会ったことがあるわけではない。けれど、それは紅貴の目の前にいる商人たちも同じはずだ。何もしらないのに、あたかも、全ての原因が灑碧にあるかのように言う。紅貴にはそれが許せなかった。それに、灑碧の友人だったという白琳は灑碧が優しい人物だと言った。紅貴にとっては、白琳の言葉の方がずっと現実味があるのだ。
「なんでそんなに灑碧のことを悪く言うんだ!」
 気づけば、紅貴は商人に向かってそう叫んでいた。二人の商人は、目を見開き、やがて、手に持っていた荷を地に叩き落とした。
「よそ者のお前らに何が分かるんだ!」
「そんなの関係ないだろう!」
「お前ら、どうせ嘉から来たんだろう? 恵まれている嘉の人間に俺たちの何が分かるんだ……!分かるはずないだろう!」
「確かに分かってないのかもしれない!けど、なんでも灑碧のせいなんて間違ってるよ!」
 そうして叫んでいると、紅貴族の肩を叩く手が合った。みれば、瑠璃が静かに首を振っている。瑠璃の顔を見ているうちに、完全とはいかないまでも、怒りが収まってくる。商人たちにどうやって言葉を返そうかと、考えていると、瑠璃が商人らの前に進み出た。
「みなさんの気持ちも考えないでこんなことを言ってしまってごめんなさい」
 深々と頭を下げた瑠璃を見て、商人たちが顔を見合わせる。やがて、商人らが、耳ではっきり聞こえるくらいのため息を落とし、地に落とした荷を広い始めた。
「……行きましょうか」
 白琳に促され、紅貴らは歩を進める。申し訳ないことをしてしまったなぁ。そんなことを想い、紅貴は前を歩いていた瑠璃の隣に並んだ。
「瑠璃、ごめん。俺、とっさに商人の人たちにああは言ったけど、どうしたらいいのか分からなくなって」
 瑠璃は首を振る。
「気にしないで。紅貴の気持ち、少し分かるから。白琳が優しい人だって言ってたんだから、灑碧は本当に優しい人なんだって思うし……でも、その灑碧を殺したのは翡翠なんだよね」
 瑠璃の声が沈み、同時に紅貴の胸も締めつけられたような感覚に陥る。けれど、辛いのは自分ではなく、翡翠の妹である瑠璃だ。そう言い聞かせ、紅貴は瑠璃を見つめる。
「きっと何か訳があるんだよ。……翡翠に話聞くんだろう?」
「うん……」
 不安げに呟いた瑠璃を、少しでも励まそうと、紅貴は極力明るい声を出そうと意識して声をかける。
「俺も、隣で一緒に話聞くから大丈夫だよ」
 瑠璃がはっとした様子でこちらを見た。そんな変なことを言っただろうかと不思議に想い、首をかしげると、瑠璃が小さく笑んだ。
「うん、ありがとう」
 瑠璃がそう言ったあと、桃華の声が聞こえた。
「ねぇ、お腹すいたご飯食べに行こう。私、ご飯食べるところでやりたいことがあるし」
 そう言い、駆けていった桃華を、紅貴と瑠璃、白琳は追いかけていたのだった。
 
 

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