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  第六章 噂 12  

 

  もう、二度と見たくないと思っていた男が生きていた。それだけはあってほしくないと思っていた。だが、脳裏に焼き付いたその姿を見間違えるはずはない。
 紺色の着物の上からさらに黒い布をかぶっているため、顔はほとんど隠れてしまっているが、あの黄金の瞳を持つ人間は翡翠が知る限り、一人しかいない。目の前にいる男はまぎれもなく『瑛達』だ。何度瞬きしても男の姿は消えることがなく、静かに笑みを浮かべ、翡翠を見つめてくる。血のような赤い唇が弧を描く様に、自身の指先が微かに冷たくなるのを感じる。
 けれど、目の前の男を見逃して良いはずはない。瑛達が生きているなど信じたくはないと思っていたのは事実だが、生きているというのならば、このままにしてはおけない。14年前の悲劇を繰り返すわけにはいかないのだ。――命に代えても
「妖獣に恵を襲わせたのはお前か」
 瑛達は何も言わずに、笑みを濃くした。肯定の意味だろう。
(ふざけるな)
 声にはならなかったが、心の内で、翡翠はそう叫んだ。14年ぶりに来た恵で、苦しむ人々を見た。
 住む場所を妖獣に奪われた。母を、娘を、妖獣に殺された。恵の人々の嘆きがはっきりと聞こえる。人々が悲しみと憎しみを吐き出し、それでも失われたものが帰ってくることはないのだ。目の前の男は、14年前同様、恵の人間の苦しみを考えようともしないのだろう。
 もしかしたら、目の前の男はそういった種の感情を持ち合わせていないのかもしれない。だが、翡翠にとっては男の事情などどうでもよかった。14年前も、そして今も、目の前の男が原因で、恵の多くの人間が絶望を味わった。目の前の男がいる限り、恵は――
「こうなったのは翡翠が約束を守らなかったからだけど?」
 男が静かに言った。翡翠は目を細め、叫びそうになるのを何とか抑え、静かに口を開く。
「……14年前、お前に言われたとおり、俺が恵の皇になることはない。約束を違えたのは……」
「僕は14年前に言ったはずだよ?皇位を捨て、その場ですぐ命を絶つか、恵には関わらず、修で一生を過ごすか選べと。翡翠、君はあの時、修に行くことを選んだ。なのに、翡翠は嘉で生きていた。その上、今君はこの地にいる」
 瑛達が翡翠の言葉を遮り言った。
「だが……」
「言い訳はいいよ。君が恵にいる。これが事実だ。君に僕を止める権利はないよ」
 気づけば手が動いていた。瑛達が言葉を言い終えるか言い終えないかのところで、翡翠は刃を瑛達に向けた。辺りに刃と刃がぶつかり合う音が響く。その固い音に、翡翠は眉をひそめた。つい先ほどまで瑛達の腰には剣はなかったし、手にも武器は握られていなかった。なのに今、瑛達の手には、黒い柄の刀が握られている。
 黒い布が落ち、瑛達の肩より少し長いくらいの赤い髪が揺れ、瑛達黄金の瞳は、14年前のあの日同様、まるで妖獣のように見える。瑛達が何を考えているか、瞳からは伺えず、黄金の瞳は無慈悲な輝きを放っているように見えた。剣を握る自身の手が震えそうになるのをなんとか抑え、翡翠は瑛達と視線を交わしたまま剣を合わせ続けた。
 不意に、瑛達の口元が楽しげな笑みが浮かんだ。翡翠は咄嗟に後ろに身体を引かせる。次の瞬間、翡翠の前から、瑛達の姿が消えた。
(なんだ……?)
 時間としては一瞬の間だったのかもしれない。だが、翡翠は、一瞬とはいえ、瑛達がいる位置がわからなくなった。
「っ……」
 翡翠の右手に刃と刃がぶつかり合う振動が伝わってくる。瑛達が繰り出した突きを翡翠は鍔で受け止めた。翡翠の頬に薄く一筋の線がつき、微かに血が流れる。翡翠が瑛達の剣の位置を捉えたのは、耳の横で、瑛達の剣が風を斬る音を捉えてからだった。あと一歩遅ければ、自身の首が斬られていたかもしれない
「剣をまったく使えなかった君が、ここまで扱えるようになるとはね」
 瑛達が笑みを浮かべたままで言い、次の瞬間には再び瑛達の姿が翡翠の視界から消える。
 瑛達の剣と何度もぶつかった。そのすべてが、急所を突かれるぎりぎりの位置だった。
(剣では分が悪いな……)
 汗ばんだ手で、自身の剣を握りながら、翡翠は瑛達との圧倒的な実力の差を感じていた。翡翠の剣は速さで相手を翻弄する剣である。だが、それが、瑛達には通用しない。速さには自信があった。なのに、翡翠以上に、瑛達の動きは速いのだ。普段であれば、相手の剣の勢いを利用して、自身の剣の動きを変化させることも多い。だが、瑛達の先の動きを読むことができず、それもできない。
 動きの速さで負け、瑛達の動きを捉えることすらできない。だが、瑛達の表情は笑みを浮かべたまま変わらない。これだけの力の差があろうとも瑛達は本気ではないのだろう。
『なんでお母さん死んじゃったの?灑碧の呪いのせい?』
『灑碧のせいで……妖獣のせいで……妻が……!』
 これまで見てきた恵の人々の嘆きが聞こえる。恵の民は悪くない。なのに、目の前の男がいる限りは、ずっと、恵の民は苦しむことになる。例えどんなに力の差があろうと、目の前の男はなんとしてでも消さなければならない。
 翡翠は剣を地に突き立て、柄から手を放す。瑛達への怒りを抑えることなく感情のままに右手を突き出す。怒りに震える手から、紫色の光が溢れてくる。
「身を滅ぼす力を使うとはね」
 どくんどくんと、心臓が脈を打ち、身体の熱が高まってくる。瑛達が言うとおり、これは身を滅ぼしかねない力だ。本来人間が扱える力ではないのだから当然だ。
――翡翠様
 悲しげな白琳の声が聞こえる。もしも、力を使いすぎ、命を失うことがあれば、もう、白琳の笑顔を見ることはできなくなってしまう。
 それが耐えられず、今までは自ら命を絶つことができなかった。自分が死なない限り、次の恵の皇が誕生しないにも関わらず。
 だが、瑛達が生きていた。瑛達が生きている限り、失うものは白琳の笑顔だけでは済まない。本音を言えば、白琳の笑顔を優先したいという気持ちがないわけではないが、「灑碧」の名を捨てたとはいえ、自分は確かに皇位継承の証を持って生まれたのだ。その素質も資格もあるとは到底あるとは思えないが、恵を守る責任はある。恵の人間は好んで、「灑碧」を皇位継承者に選んだわけではないのだから。
 白琳の笑顔を守ってくれる人物ならば他にいるはずだ。恵の皇位継の証を持った人間としても、嘉国の武官としても中途半端な自分ができることではない。
 今、自分にできることは、この身と引き換えに、瑛達を倒すことだけだ。
 翡翠は、紫色の光を放つ右手を地面に突き立てた。その瞬間、地に亀裂が走る。周囲の木々が倒れ、砂塵が舞う。瑛達を再び正面から見つめ、翡翠ははっきりと告げる。
「恵はお前には渡さない」



「ねぇ桃華、そろそろ知っていること全部話してくれても良いんじゃない?」
 碧嶺閣に用意された客間に戻ってきてすぐに、瑠璃がそう言った。恵の皇后明汐に、桃華は灑碧が生きていると告げた。灑碧がすでに恵にいるとも。そして、灑碧自身は、恵のどこで、妖獣が発生しているのか、いち早くわかるのだから、妖獣に対抗する手段を打てるかもしれないと言った。桃華のその言葉に、瑠璃は目を丸くして驚いていたのだ。
「なぁ、桃華、もしかして灑碧って、翡翠のことか?」
「翡翠が? それ、どういうことよ。そうなの? 桃華」
 瑠璃が声を荒げて言った。桃華は椅子の上で足をぶらぶらと揺らしながら、頷く。
「うん。紅貴が言うとおり、翡翠が灑碧」
「でも、私、翡翠が灑碧を消したって聞いて……それってどういうことなの?」
「推測でしかないのでなんとも言えませんが、翡翠様自身が自ら灑碧様自身を死んだことにしたのではないでしょうか。その辺りは翡翠様に話をきかないとわかりませんが……ところで瑠璃、その話はどこで?」
「曙鵬の宿屋で聞いたの。ほら、あの晩みんないなくなって一人になった時あったでしょう? その時に、たぶん男?だと思うんだけど、男が一人やってきて、言ったの。灑碧を消したのは翡翠だって。その時私、翡翠が灑碧を殺したんだって勘違いしたんだけど、そういうことだったのね」
「それを瑠璃に言ったのってどんな奴だったんだ?」
 紅貴が尋ねると、瑠璃の顔がみるみる青白くなっていく。
「顔ははっきりとは見ていないんだけど、瞳は黄金で……なんだか、不気味な雰囲気だった」
(「瑛達」だな)
 紅貴は瑠璃の言葉を聞きながら、軽く腕を組み、「瑛達」のことを考える。できれば、かつて、紅貴にとってかけがえのない人物を殺した「瑛達」がまだ生きているなど認めたくなかった。だが、黄金の瞳を持つ不気味な雰囲気な人物など、「瑛達」以外、考えられない。それに、恵で起こっている妖獣の発生。それが、瑛達の仕業だとしたら、すべて説明できる。
 瑛達は紅貴とは比べものにならない程の力を持った妖獣使いなのだ。紅貴は自然と、自身の衣を握る。あの、黄金の瞳を思い浮かべるだけで、身体が震えそうになる。瑛達の笑みに、恐ろしさを感じる。だが、瑛達に恵を壊されることろは見たくない。何もできなかったあの頃のようにはなりたくない。
 今度こそ、自分ができることをしたい。
「ねぇ紅貴、もしかしてその人のこと知ってるの?」
 瑠璃に問われ、紅貴は頷く。
「俺なんかよりはるかに強い妖獣使いだ」
「じゃあ、もしかして恵の妖獣の発生って……」
 瑠璃の声に、紅貴は再び頷く。
「多分、そいつ――瑛達がやったことだ」
「そっか。ところで桃華、翡翠の正体知ってたならどうして教えてくれなかったの?」
「一応、翡翠自身から言ったほうが良いって思ってたし、それに……」
 桃華は珍しく言葉を詰まらせ、顔を俯かせた。
「桃華、もう全部話しちゃえよ」
 少しの間の後、桃華は静かにうなずき、周囲を見回す。瑠璃、紅貴、宵汐、そして白琳を見まわしたあとで、桃華は口を開いた。
「私が、翡翠の正体を知っているってことを、翡翠に伝えちゃったら、翡翠、命を絶っちゃうんじゃないかと思って」
「命を絶つ……? 翡翠何考えてるの……?」
 桃華が椅子から飛び降りる。右手を腰に当て、表情を顔を映さずに瑠璃を見つめている。
「証を持った皇位継承者は、各国、同時代に二人までしか存在できないの。今、恵には、現在の皇と、翡翠、その二人がいる。でも、翡翠が皇位を継ぐ気ないのだとしたら、翡翠が死なない限り、次の皇は誕生しない。当然だけど、今の皇が亡くなれば、次の皇が生まれるまで、恵の皇位は空位になる。それを避けるために、死ぬ気なんじゃないかと思って」
 桃華がそう言うと、その場にいる全員が押し黙った。それぞれが険しい表情で俯く中で、紅貴は着物の袖を固く握った。
(馬鹿だ。翡翠は)
 どうして、自分も他人も悲しむ方法を選ぼうとするのか。他に選択肢があるのに、どうしてそうなのだろう。悲しさというよりは、怒りが湧き上がってくる。
「やっぱり、翡翠は馬鹿兄よ」
 紅貴が思っていたことと同じことを瑠璃が言った。
「瑠璃……」
 桃華が、小さな声で名前を呼んだ。瑠璃は固く握った手を胸の前に当てる。ぶつけたい怒りを無理やりねじ伏せているように、紅貴の目には映った。
「だってそうでしょう。翡翠が何考えていたか知らないけど、この歳まで生きてるってことは、本当は死にたくないってことじゃないの?」
「そうね……灑碧は馬鹿ね。今まで、死んだと思っていたから、灑碧の思い出が美化されていたけど、相変わらず馬鹿なのね。自分の妹の瑠璃ちゃんにこんな顔させるなんて、大馬鹿よ」
「妹?」
 瑠璃が問うと、宵汐が困ったように笑う。
「灑碧、ずっと、嘉の瑠璃ちゃんの家で育ったんでしょう? だったら、瑠璃ちゃんは灑碧の妹よ。それから、瑠璃ちゃんが灑碧の妹ということは、私の妹でもあるってことよね。あとで、瑠璃ちゃんに、灑碧の昔の話聞かせるわ」
 瑠璃は、それには首を振った。
「いえ。大丈夫です。馬鹿兄の昔話は、翡翠から直接聞きますから」
「そうね、それが良いわね」
「それから、私、翡翠を一発殴ってやろうと思います。昔から馬鹿だと思ってたけど、ここまで馬鹿だったなんて」
「そうですね。私もそうします」
 ずっと黙っていた白琳が瑠璃に続けていった。白琳らしくない言葉に、紅貴はぱちぱちと目を瞬かせる。
「ずっと見ているだけ、見守るだけでいたら、翡翠様は何をしでかすかわかりませんから。私はもう二度と翡翠様がいなくなるところを見たくありません」
 揺るぎない口調できっぱりと言った白琳に紅貴は自然と頷いた。



「つっ……」
 地が裂け、木々が倒れ、周囲嵐が過ぎ去った後のようになっていた。だというのに、その真ん中で佇む赤い髪の男は、傷一つない奇麗な姿のまま、笑みを浮かべ、佇んでいる。
 特別な力。それを用い、翡翠は瑛達を倒そうとする。だが、いかなる攻撃も瑛達は避けてしまう。翡翠瑛達を見つめ、地を蹴り上げる。瑛達との距離を一気に詰め、瑛達の心臓があるはずの位置に手を伸ばした。だが、その手は空を切った。ゆらりと後ろを向くと、瑛達は変わらぬ笑みで、佇んでいる。
 「力」を使っているために、剣で戦っていた時よりも、遥か速く動けている。けれど、それでも、男を捉えることができない。なんとしても、瑛達を消さなければならない。なのに瑛達に触れることすらできない。翡翠は紫色の光を纏う右手を、地に突き立てようとした。だが、それは突如胸をせりあがってきた痛みに阻まれた。
 咳とともに、口から血が吐き出される。地に崩れそうになったのだけは何とか耐え、揺らいだ視界で、瑛達を睨む。手の甲で口元の血を拭い、再び、力を放出させようとする。全身に痛みが走る。うまく呼吸ができない。苦しい。
 だが、そう感じるうちは大丈夫だろう。まだ生きているのだから、戦える。翡翠は再び、瑛達との距離を詰めようとする。しかし、突如肩に痛みが走った。「力」を使ったことにより引き起こされる痛みとは別の痛みだ。
 肩に熱い痛みを感じる。何かに貫かれるような痛みだ。揺らいだ視界で辺りを見回そうとして、翡翠はようやく自分の状況に気付く。右肩を、瑛達の剣で貫かれ、そのまま地面に縫いとめられているのだ。うつぶせの体制のまま、翡翠は、立ち上がろうとする。地に指を突き立て、左手で、肩に突き刺さった剣を抜こうとする。だが、その手が突如動かなくなる。
 左手が瑛達に踏まれたのだ。そのまま瑛達がしゃがみ、翡翠を見下ろしてくる。
「いずれ君を消すけど、今は消さないよ」
 瑛達の口元からは笑みが消えている。翡翠にだけ届くような静かな声で瑛達が言った。
――あの時と同じだ
 14年前とは違う。そう思っていたが、結局何も変わらない。剣すらまともに扱えなかったあの頃と、何も変わらない。結局、「証」を持っていながら、自分は何もできないのだ。怒りと悔しさのままに、何とか立ち上がろうとした時だった。
 突如、あたりに、紫色の炎が現れた。14年前に見た炎だろうか。そう思いかけて、すぐに違うと気付いた。あの時みた炎は赤い色だった。
「紅貴……」
 瑛達の口が小さく動く。そして次の瞬間、妖獣の高い声が辺りに響き渡った。炎が消えうせ、黄金の狐が、翡翠の視線の前で身をくねらせている。
(紅貴の妖獣が見せた幻影か……)
「紅貴にずいぶんと慕われているみたいだね」
 瑛達がそう言った直後だった。周囲に風が沸き起こった。翡翠の「力」が引き起こしたものとは違う種のものだ。力強くも、暖かい、どこか優しさを感じる風だった。しゃがんでいた瑛達が立ち上がり、翡翠から距離を取った。その間に割って入る影があった。翡翠の前に立つその後ろ姿は、幼い頃、ずっと翡翠を守ってくれていた人物だ。
「ここは恵よ」
 翡翠の前に立ち、女が低い声で言った。風が止む。同時に瑛達の姿が消え、翡翠は立ち上がり、手を伸ばそうとした。だが、腕に力を籠めることすら敵わなかった。女が翡翠の方へ顔を向け、近づいてくる。
「ずいぶんと腑抜けたものね。灑碧」
 「萩」がそう言ったのを聞き、翡翠の意識は沈んだ。



 碧嶺閣の一室で、紅貴は目を大きく見開き、顔を上げた。紅貴のその様子に、周囲は不思議そうに紅貴を見つめてくる。
「紅貴、どうしたの?」
 桃華に尋ねられ、紅貴は言う。
「翡翠の居場所が分かった。行こう」
 紅貴の声に、瑠璃、紅貴、宵汐、白琳が頷いた。翡翠に言いたいことがたくさんある。その想いを共有していた。

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