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  第七章 守りたかったもの 11  

 

 萩の家に戻るようなことはせず、瑠璃は赤く燃える榛柳を見つめていた。紅貴と白琳は怪我した人々を助けると言っていた。桃華は、具体的にどういったことをするかは口にはしていなかったが、剣が強いあの子のことだ。きっと多くの人を助けているのだろう。そして、翡翠は――
 瑠璃は胸の前で手を組んだ。
(どうか無事で……)
 ただ願うことしかできない。だが、そうせずにはいられない。なにか特別な技術や力があるわけではない。自分にできることといえば、みんなが無事帰ってきた時に笑顔を見せることぐらいだ。
 もう一度祈るように、手に力を込めると、肩に優しい手の感触を感じた。
「きっとみんな無事、帰ってくるわ」
 声をかけてきたのは萩だった。白琳のように、特別美人というわけではないが、声やしぐさから微かに色気を感じるその人は、今は優しい笑みを浮かべていた。その笑みに暖かさを感じる。
「はい」
 瑠璃が返事を返すと、萩は瑠璃の横に並んだ。榛柳にある一際大きな建物、碧嶺閣。そこだけは火は回っておらず、青白い光を発している。瑠璃にとってはにわかに信じがたい光景だった。
(皇に力が宿るって本当だったのね)
 おそらく、あの青白い光の正体は、恵の皇によるものだ。――あれと同じ力が翡翠にも宿っているのだと思うと、急に翡翠が遠い存在になったように感じられる。けれど、だからといって、翡翠が皇位から逃げて良いかと言えば、それは違う。
 実際に血がつながっているわけではないが、長い時間を家族として過ごして来たのだ。その翡翠が生きる為には皇位を継ぐしかないのだったら、そうしてほしい。
 みんな、無事で。そうもう一度心の内で強く願った時だった。突如悪寒が身体中を駆け巡った。
「な、に……?」
 その短い言葉すらもうまく発することができなかった。ただただ恐ろしい。瑠璃は恐る恐る顔を上げる。そして飛び込んだ光景に瑠璃は目を見開いた。
 星が輝いていた夜空は雲に覆われ、その中央に黒い龍が現れた。
――怖い
 妖獣は見慣れているはずなのに、その龍を見ていると震えが止まらない。もう、駄目かもしれないという気持ちにさせられる。瑠璃は視線を下ろし、再び仲間がいる碧嶺閣を見つめる。
 (みんな無事でいて、お願い……!)
 自身の早まる心臓の鼓動を聞きながら、瑠璃はもう一度強く懇願した。



 白琳と共に碧嶺閣で怪我人の手当てを行っていた紅貴は空気の変化に違和感を覚えた。つい先ほどまで聞こえていたのは、灑碧への恨みの声ばかりだった。だが、それが突如、沈黙に変わり、やがて「怖い」という声がさざ波のように広がった。
「何でしょうか……この違和感」
「うん」
 白琳の声に、紅貴は静かに頷く。ピリピリと張り詰めた冷たい空気が刺さり、身体の内側から悪寒がせり上がってくるようだった。この感覚に覚えがあった。もし、自分の嫌な予感が当たっていれば――
「白琳、俺、外の様子見てくる」
「怪我人の手当てはほとんど終わりましたから、私も行きます」
 紅貴は立ちあがって歩き出そうとした。だが、同様に立ちあがろうとした白琳は立ちあがった瞬間、膝を付いた。やはり、辺りを漂う空気が異様だ。紅貴は白琳に手を差し伸べた。
「ありがとうございます」
「うん」
 早足で広間を突き抜け、広い階段を登る。榛柳の様子を一望できる露台に飛び出た紅貴と白琳は目の前の光景に息を飲んだ。空を厚い雲が覆い、そこから黒い龍が産み落とされている。早まる心臓の鼓動を抑えることができない。指先が微かに震え、いっそ正気を保つことを諦めればその方が楽なのではないかとすら思える。
 紅貴は崩れ落ちそうになる身体をなんとか支え、冷たい汗が吹き出る手を堅く握った。
「妖龍の末裔……」
 発した声は僅かに震えた。
「あれが……」
 口元に手を当てた白琳が小さく声を発した。このままにしておくわけにはいかない。そう心の内で叫び、圧倒的な恐怖の前で逃げ出したくなるのをなんとか押しとどめようとしていると、脳裏を別の気配をかすめた。妖龍よりもはるかに小さく、身近な存在。管狐の梓穏だ。
「どうしたんだ? 梓穏」
 翡翠の後をつけさせた梓穏に問うと、その気配がいっそう強くなる。そして、次の瞬間、雲が広がってた恵の空に別の光景が映し出された。荒れ果てた石畳が見える。ゆらゆらと動き次に、碧嶺閣の宮殿が見えた。梓穏が見ている光景だろう。その梓穏の視線が動き、紺色の衣を身に付けた男が映し出された。滑らかな光沢を放ち、細やかな刺繍がなされ、いたるところに装飾が施されている。肩まで伸びた黒い髪が風に揺れ茶の瞳が静かに空を眺めていた。
 おそらく恵の第三皇子檜悠だろう。
「……灑碧兄上の仕業か」
 男が言ったその言葉に、静まり返っていた周囲の者たちが、再び灑碧への恨みを口にする。
「灑碧を殺せ!」
 狂気を孕んだ恨みの声が響き渡る。映し出されたのは目を覆いたくなる光景だった。一人の男が、人々に掴まれ引きずりだされ、蹴られ、石を投げつけられる。髪は茶色だが、瞳の色は灰色だ。――翡翠じゃない。
「――!」
 声にはならなっていなかったが、口が何か言葉を発しようとしていた。
――俺は灑碧じゃない!助けてくれ!
 その男が碧嶺閣宮殿の柱に縛りつけられようとしていた。恵の人々はみな、あのおぞましい龍の発生は灑碧のせいだと思っている。
「呪われた皇子を殺すんだ!」
 一人の男がそう叫べば、そうだそうだと声がする。目を逸らしたくなる光景だった。人々の怒りと狂気に紅貴は妖獣以上に恐れを感じた。怖い。だが、なんとかしなければ。あの男は灑碧ではないし、そもそもこれは灑碧の仕業じゃない。
(……あいつだ)
 瑛達だ。あの龍を呼べるのはあいつしかいない。紅貴は拳を振るわせ、ぎりりと、奥歯を噛んだその時だった。良く知った顔が現れる。
「翡翠様……」
 紅貴がその名を口にする代わりに白琳が発した。普段より高い位置で結んだ茶の髪が、夜の闇に静かに舞い、宝石のような翠色の瞳は、恵の人々が言う通り、『人間離れ』していた。そえは恵の民が考える意味とは別の意味だったが。見慣れた姿のはずだ。だが、その瞳に僅かに影が感じられるのはなぜだろう。
「私が恵 灑碧だ。そのような下民と私を間違えるとはな」
 翡翠が発した声に、紅貴の心臓が一際大きく跳ねた。全ての感情を捨て去ったような冷たい声に、人々からは悲鳴のような声があがる。家族を返せというもの、殺してやるというもの、恵の民も――恵の武官でさえも、怒りを翡翠にぶつけた。
 翡翠の元へ、群がるように、民が押し寄せる。
――戦えるはずだろう
 だが、その翡翠の腰には剣がない。身に付けた黒の着流しの袷が容赦なく引っ張られ、引きずり出される。半ば強引に後ろ手に縛られ、跪かされた翡翠の前髪を、一人の男が持ち上げた。
「これが私の妻を殺した男の顔……! 許せねぇ!」
 石を投げられ、蹴られ殴られる。顔にも肩にも傷が付く。だが、それでも恵の人々の怒りは収まらない。先程、灑碧と誤解された男が縛りつけられていた柱に、今度は翡翠が囚われる。妖獣に家族を奪われた恵の民に囲まれた翡翠が、顔を上げる。その口の端から一筋の血が流れ始める。
(まさか翡翠、舌……)
 このまま舌を噛み切れば、絶命する。紅貴の横で、大きな物音が聞こえる。梓穏が映し出した景色は消えうせ、膝を付いた白琳の姿が目に入る。顔を上げることもできず、細い肩を震わせる白琳を前に、紅貴は、ふつふつと胸に込み上げてくるものを感じた。
「翡翠の……馬鹿野郎!」
 怒りの声に、周囲の空気までもが震えるようだった。紅貴は前に進み、空を睨みつけた。ずっとあいつを呼ぶことを恐れていた。だが、このまま失うのはもっと怖い。絶望に沈む白琳を見るのは耐えられない。
 本当にあいつを呼ぶことができるだろうか、という迷いは消え去っていた。迷っている余裕などなかった。身体の熱が高まっていく。どくんどくんと脈打つ心臓もいつも以上に大きく聞こえる。
「紅貴……?」
 白琳の泣きだしそうな声を聞き、紅貴は息を吸った。そして、短くあいつの名を呼んだ。
「聖焔!」



 恵 灑碧はこの世でただ一人、自分だけだ。なのに、別の男が、自分の代わりに恵の民の恨みを受けている。それを受けるべきは自分だ。あの男はなんとしても救い出さなければならない。死ぬつもりはないが、助けなければ。
「証を持っているのが檜悠様だったら」
「灑碧のせいで私たちは……!」
 檜悠を称賛する声と、灑碧への恨みを口にする恵の民の声。もう聞きなれた言葉であるため、悲しみは感じないが、この状態で皇位を継承するのは骨が折れる、と思った。だが、逃げるわけにはいかない。
「君は本当に恨まれているね」
 突如声が聞こえたかと思えば、目の前に瑛達が現れた。顔を覆う布は取り払われ、その素顔を晒している。さらりとした肩まである赤い髪と、血の気がない白い肌。血のような赤い口元。そして何よりも目を引く、黄金の瞳。容姿の美醜に興味がない翡翠から見ても、美しい顔立ちだと分かるが、それ以上に得体のしれない不気味さを感じる。
 翡翠は、剣の柄に手をかけた。悔しいが、今の自分ではまだ、瑛達を倒すことはできない。だが、死ぬつもりはない。白琳を生きて守り続けると決めたのだ。
「こんなに自国の民に恨まれて……それでも皇になる気か?翡翠」
「あぁ」
 翡翠が即答すると、瑛達が口元を僅かに曲げた。翡翠にとっては瑛達のその反応が以外だった。
「やっぱり君のことが嫌いだ」
 瑛達を倒すことが出来ればと思う。だが、その力は今はない。今は、瑛達を振り切れればそれで十分だ。翡翠は、軽く目を伏せ、恵を吹く風に命じる。
 翡翠を中心に、風が渦巻く。それを瑛達に向けようとした瞬間、瑛達がうっすらと笑みを浮かべた。
「皇の力か。……良い考えだけど無駄だよ。それより面白いものを見せてあげるよ」
 翡翠が起こした風が、消し去られる。収束した風の中心で、瑛達は手を掲げた。クスリと声を漏らした瞬間だった。突如、空に厚い雲が立ち込めた。そして、そこから黒い龍が産み落とされた。恐怖と呼ぶのすら生易しい悪寒がせり上がってくる。
 あれは、この世界を滅ぼそうとするものだ。おそらく妖龍の末裔。翡翠は、握っていた剣に力を込めた。
「なんのつもりだ!」
「言っただろう? 面白
いものを見せてあげるって」
「瑛達!」
 翡翠は握っていた剣を引き抜き、刃先を瑛達に向けた。だが、次の瞬間感じたのは、肩の激痛だった。蛇のような妖獣が絡みつき、肩の付け根の部分を食い千切ろうとしている。痛みをなんとか耐え、翡翠は瑛達を睨みつけた。
「あーもう煩いな」
 そう、瑛達が言った次の瞬間、急に身体が軽くなった。蛇のような妖怪がほぐれたのだ。辺りを見回せが、静かに風が吹いていた。恵を吹く風が翡翠を守ったかのようだった。そして、翡翠が妖獣から解放された瞬間、風は急に鋭さを増した。
 瑛達に向かって風が吹きつけ、地に、翡翠の血が落ちる度に轟々と音を立てる。
「……皇を傷つける者を許さない、ね」
 瑛達が手をかざすと、風は消えうせたが、翡翠の血が地に落ちればまた風が沸き起こる。
「……言っておくけど、あれを止める手段は僕にはないから、懇願したって無駄だよ。呼びだすことしかできないんだ」
 瑛達はにこりと、楽しそうに笑う。
「本当は君一人死ねばよかったんだけど、その気はないみたいだからね。恵もろとも消えてもらうよ。あの龍は満足するまで消えない。大好きな恵と一緒に死ぬことができて本望だろう?」
「お前……!」
 肩の痛みなど、怒りで消えうせた。がむしゃらに剣を振るうが瑛達は軽やかにそれを避けていく。どうしてなんの罪もない恵がこんなにも苦しまなければいけないのか。この一人の男のせいでどれだけの民が苦しんだだろう。怒りを抑えられない。
 消えてほしい。だが、振るう剣は瑛達に届かない。
「お別れだ、翡翠」
 その言葉を最後に、瑛達は姿を消した。翡翠は怒りで震える手を地に叩きつけた。このままでは本当に恵もろともなくなってしまう。あの龍が満足すれば姿が消えるというが、それはいつのことだ。
 
 それまでに何人の人が死ぬ?
 ただ普通に生活したいだけの恵の民はどうなる?
 今、恵にいる仲間は――白琳はどうなる?

 耐えられない。守ろうとたした存在を失いたくない。でも、どうすれば――
 ポタポタと、涙のように零れ落ちる血に風が音を立てる。それを見て、翡翠は気づく。
 『証』を持った存在の血に、大地が怒りを露わにしている。翡翠は、きゅっと口を結び、手の平に新たな傷を作った。すると、石畳みの一部が音を立てて崩れた。
「俺の命……」
 それをすれば、白琳への約束を違えることになる。だが、これしかできることはない。
――もし『証』を持った灑碧に恨みが集まれば、どれだけ恵の地は怒るだろう。
 灑碧と間違われたあの男を助け、そして妖龍の末裔を消し去ることができるかもしれない。死ぬべきは、あの男ではなく自分だ。――恵 灑碧はこの世界にただ一人自分だけなのだから。
「悪いな……白琳」
 そんな言葉で許されるとは思わない。だが、きっと周囲にいる仲間が白琳を支えてくれるだろう。白琳は強い女性だきっと大丈夫だ……そう、言い聞かせる。
 自分が皇位継承者としてできることはこれだけだ。政によって恵を豊にすることは、自分以外にもできるが、命を対価に妖龍を倒せるのは自分だけだ。
 立ち止まっていれば、迷ってしまいそうだった。翡翠は歩みを進め、碧嶺閣宮殿前に向かった。
「翡翠……」
 碧嶺閣宮殿前で立ちつくす桃華を見て、運が良いと思う。――自分の勝手だが、想いを託せる。
「白琳に渡してほしい。それから……すまなかったと伝えてくれ」
 珍しく茫然とする桃華を見ながら、翡翠は歩を進めていく。

 視界の端に、柱に縛られた男の姿が写る。――何の罪もない恵の民だ。翡翠は軽く深呼吸をした。恨みをこちらに向けなければ意味がない。男を助け、そして民の恨みを利用するのだから。
 優しい声を発するより、ずっと得意だ。翡翠は、心を殺し、口を開く。
「私が恵 灑碧だ。そのような下民と私を間違えるとはな」
「私の家族を返して!」
「この!化け物が!」
 女の鋭い声が聞こえ、次々に憎しみの言葉が吐き出される。無数の手が翡翠に伸びてきて、地に押し倒される。ところどころ暴行は加えられるが、痛みなど、今の翡翠にはどうでも良いことだった。視界の端で、灑碧と間違われた男の姿を見つめ男が解放されるのを待つ。縄が解かれ、がくりと膝を付く。それを誰かが支え、男は涙を浮かべた。
 自分に突き刺さる恨みの声に、翡翠は無感動に耳を傾けていた。その声に、恵の空気が張り詰めている。翡翠の狙い通りだった。――白琳はきっと……
 翡翠はその先を考えようとして、無理やり振り払った。
 気づけば、翡翠は、碧嶺閣、宮殿の柱に縛りつけられていた。恵の民の灑碧への恨みは、深く、大きい。自ら手を下さずにはいられないだろう。だが、恵の民に手を汚させるつもりはなかった。武官でもない民が、人を殺めれば後悔するかもしれない。――幼少期、奴隷の自分がそうだったように。
 そうせずに済むならその方が良い。民の恨みを利用する自分がそう思うのはあまりにも勝手だが、どうか、『灑碧』という存在が消えた恵は安らかで穏やかな国で在ってほしい。
(……皇位継承者として俺にできることはこれだけだ)
 翡翠は歯を舌に突き立て、噛み切ろうとした。舌が切れ、口内に鉄の臭いが充満する。
(……その怒りで、妖龍を倒してくれ)
 そう、願い、舌を切ろうとする歯に力を込めようとした時だった。

「おいあれ見ろよ!」
 一人が空を指差し、周囲の者も次々と空を仰ぎ見る。翡翠も思わず視線を空に向ける。周囲の闇を晴らし、黄金の光が天に広がっていく。分厚い雲が晴れていく。ざわつく民から、怒りと恨みが消えていき、代わりに驚きで塗りつぶされていく。
 その光が徐々に形を成していく。
「……龍!」
 人々が声を上げる。
 妖龍と同じ形でありながら、不思議と恐怖は感じない。光を纏った龍は、鮮やかな赤い色をしている。優美な長い尾をゆったりと動かし、それに合わせ、星が散りばめられていくように、空に筋が描かれていく。その龍が徐々にこちらに近づいてくる。そして、その龍の背に乗る人物の姿を認め、翡翠は息を飲んだ。
 紅貴だ。だが、その紅貴はいつもと様子が違う。龍同様、全身に光を纏っている。黒い瞳は黄金に変わり、真剣な様子で口が結ばれていた。
「おい、近づいてくるぞ」
 灑碧を取り囲んでいた恵の民が散り散りになっていく。そして、空いたその空間に、龍が降り立った。顔だけで翡翠の上半身程の大きさがある龍が翡翠をじっと見つめてくる。その瞬間、翡翠を捉えていた縄が解かれた。突然のことに、地に膝を付いた翡翠の前に紅貴がやってくる。
「翡翠の馬鹿野郎!」
 そう、紅貴が叫んだ時には紅貴の姿は元に戻っていた。光は放っていないし、瞳はいつもの黒だ。だが、大きく開かれた紅貴のまっすぐな瞳を向けられ、翡翠は居心地の悪さを感じた。翡翠は立ち上がり何か何か言わなければと、口にする。
 だが、何も言うことができない。そんな翡翠に紅貴は勝ち誇ったような笑みを見せる。
「でも、賭けは俺の勝ちだからな」
 翡翠はすぐ傍にいる龍をもう一度見た。――聖焔。神龍の魂の一部を持つ龍。
「おい!坊主!灑碧を引き渡せ!」
「そうよ!そいつのせいでこの国は!」
 一度は沈下した怒りと恨みが、再び沸き起こる。だが、紅貴は怯えた様子は見せず、まっすぐな瞳を今度は、恵の民に向ける。
「聖焔、灑碧を、恵の民の恨みが及ばない場所まで運んで。……こんなの、間違ってる」
 恵の民に視線を向けたまま紅貴が言うと、次の瞬間、翡翠の身体から力が抜ける。そして、いつのまにか、聖焔の背にまたがっていた。おそらく、聖焔の力に依るものだろう。
「おい!何考えて……」
≪我が主の頼みだ。……お前も、『証』を持っているのなら、そう簡単に命を捨てるな。後が面倒だからな。……あいつが報われない≫
「だが、妖龍はどうする気だ!」
≪それはお前の父親が……≫
「それは……」
 どういうことだ、と問おうとしたが、声にならなかった。どういうことか分かってしまったのだ。前振りもなく、突如雨が降り出し、荒れ狂った風が吹きつける。未だ姿を保ったままだった黒い龍がその形を瓦解させていく。
 冷たい雨が吹きつける空を龍が舞う。
 口にするのはできなかった。ずっと、恵を守ってきた恵の皇が――
≪……面倒だ。しばらく眠っていろ≫
 その声に、翡翠の意識が落ちた。


「灑碧をどこにやった!」
「あいつを殺さないと、また恵が!」
 灑碧への恨みを口にした恵の民の言葉が刃のように紅貴の突き刺さる。どうすれば、分かってもらえるのだろう。誰よりも、恵を救おうとしていたのは灑碧なのだと。降り続ける雨を払うこともせず、紅貴はただじっと恵の人々を見つめる。
「おいお前、灑碧の回しもんなんだろう!灑碧のせいで俺たちは!」
 今度は、言葉の刃ではなく、剣が紅貴に向けられる。
「違う! 灑碧のせいじゃない! あいつは、守ろうとしたんだ!」
「14年前、恵は妖獣に襲われた!けど、灑碧が死んで、妖獣は現れなくなった!」
 鋭い剣を、紅貴はなんとか受け止める。
「だが、灑碧が復活したらまた表れたじゃないか! あいつを消さなきゃずっと俺たちは!」
 そうだそうだと言う声が聞こえ、武器を持った者たちが集まってくる。内心、まずいと思った。一人ならなんとか相手に出来るが、複数の人間を相手にするほど強くはない。刃がこちらに迫ってくる。
 これで命を落とすことがあれば、翡翠を笑えない。
 だが、刃が紅貴に向けられることはなかった。金属音が辺りに響き渡り、呆然としているうちに、人々が倒れている。
「峰打ちだから大丈夫!」
「桃華!」
 桃華が襲いかかってくる刃を次々と流していく。その、桃華が持つ剣には翡翠の物だった。
「結構、使いやすいね、これ」
 どこまでも、恨みの声が追いかけてくるような気がしたが、桃華が切り開いた道を賭け抜けていく。やがて、桃華は立ち止まると、指笛を吹いた。空から、白い天馬が舞い降りてくる。
「あの黒い龍も他の妖獣さんもいなくなったみたいだし、とりあえず一旦撤退。捕まって紅貴」
 先に天馬にまたがった桃華の手に引かれ、紅貴は天馬に跨る。あっという間に、榛柳が遠ざかっていき、碧嶺閣の姿が小さくなっていく。
「翡翠の行き先分かる? そこまで紅貴を届けたら、瑠璃と白琳も迎えに行くから教えて」
「分かった」
 紅貴は頷き、榛柳の遙西を指差した。



「……翡翠と檜悠の為、ねぇ」
 瑛達は息絶えた翡稜を無表情で見つめ、死ぬ間際の翡稜の姿を思い浮かべる。
 翡翠と檜悠を助けて欲しい、そして妖獣を倒す力を。そう、祈るように言い、翡稜は自身の喉に剣を突き立てた。翡稜の思い通り、恵の現在の皇を失った悲しみに、恵みの風と、大地、空が震え、妖獣は消し去られた。
「理解できないや」
 紛い物の皇でありながら、その『皇の使命』とやらに殉じる。そもそも、恵のために、わざわざ『証』を欲したという時点で、翡稜とは相いれないわけだが。
「ま、とりあえず檜悠は利用させてもらうよ。あの子は使いやすいから」
 母親に認めてもらうために皇位を望んだ檜悠。あくまでもそれが目的だった檜悠はその先のことは考えていないだろう。本人は無自覚のようだが、翡翠へ嫉妬が存在する。それを利用しても良いかもしれない。
「それにしても俊瑛のやつ……」
 愛しい弟の姿を浮かべ、瑛達は静かにその場を後にした。

 恵は皇の死で大騒ぎになるだろう。だが、その騒ぎに興味はなかった。
 


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