史書

戻る | 進む | 小説目次

  第四章 星の願いは 8  

 

 慶に来てから数日、慶誕祭の朝、紅貴は桃華について行くようにして歩いていた。
「すごいな〜」
 辺りを見回しながらつぶやいた紅貴に、横を歩いていた龍清が弾んだ声で言う。
「このあたりは、いつも静かなのになっ」
 紅貴が数日間滞在していた匠院義塾の周りは、慶の東に比べ、人通りも少なく、静かだった。しかし、祭りの日が近づくに連れて、次第に辺りの様子は変わっていった。祭りの今日、笛や太鼓の楽しげな音楽が聞こえ、路にはぎっしりと露店が並び、通りを歩く人々はそれを嬉しそうに見ている。金魚すくいに、りんご飴。そのどれもが、見たことないものばかりだった。紅貴が、何も知らなかった頃――まだ、何も知らず、紅翔のことを純粋に尊敬していた頃の話だ。紅翔は、綺麗な花が咲くところや、幻想的な氷が見られる場所へ連れて行ってくれた。連れて行かれた場所で見る景色はいつも初めて見るものばかりで、子供だった紅貴は素直に嬉しかった。まるでその頃のように、はやる気持ちをおさえられない。
「龍清、店に飾ってある花、あれなんだ?」
 どの店にも飾ってある、白や赤の小さな花を指して聞く。
「あれは月蛍って言うんだよ」
「つきほたる?変わった名前の花なんだな」
「蛍……あぁ、洸じゃあんまり見ないかな? 嘉では、夏になると蛍っていう虫を見ることができるんだけど、この花はその蛍に似てるからそう呼ぶんだ」
「この花が虫?」
 丸い花びらをつけた可愛らしいこの花が虫に似ていると言われても、信じられない。そんな紅貴の気持ちを察したように、瑠璃が後ろを振り返って言う。
「蛍っていうのはね、夜になると光る、とってもきれいな虫よ。この花は、夜になると、蛍みたいに光るからそう呼ばれるの。とってもきれいだから、夜を楽しみにしていると良いわ」
「うん」
「そういえば、龍清様もこれから始まる武術大会にでるんですよね」
 瑠璃に言われた龍清は頷く。
「豹馬に反対されたけど、どうしても出たかったんだ。たまには桃華にいいとこみせようと思ってさ」
 紅貴は、これから始まる武術大会のことを考え、息を吐く。桃華に初めて稽古をつけてもらった日から、毎朝桃華と打ち合ってきた。我ながら、よく耐えてきたと思うが、桃華以外と剣を交えるのは初めてだ。それを思うと気が重い。
「緊張してるのか?」
「龍清はしないのか?」
「俺はあんまり。それより、どんな奴と闘えるのか楽しみだ」
 そう言って、白い歯をのぞかせ、いたずらっぽい表情で笑う龍清が剣を扱えるのはなんとなく意外な気がしていた。もちろん、王族の嗜みたしなみとして、剣を扱えるのは当然なのだろうが、それでも龍清が剣を使うところは想像できなかった。
(でも俺よりは強いんだろうな〜)
「紅貴と闘うこともあるかな?」
「そういえばそうだな。そうなったらやだな〜」
「俺は楽しみだけどな」
 そう、好戦的な笑みを浮かべる龍清に、紅貴は何と言っていいかわからない。だが、ちょうどその時、瑠璃の声が聞こえた。
「武術大会の会場に着くわ」
瑠璃の声を聞いて、一瞬、身をこわばらせた紅貴だったが、毎日木刀を握って来た手を軽く握って気持ちを切り替える。武術会場の広場を映す紅貴の瞳には、静かな闘志が宿っていた。

 祭りの朝、ようやく養生所を出た翡翠だったが、あいさつもそこそこに、匠院義塾の書庫に籠ってしまった。白琳は、そんな翡翠が気になり、書庫に向かった。
(そいえば、ここ数日ずっと何か調べてましたわ)
 養生所にいる間ずっと、寝台の横に積まれた書物を読んでいた翡翠だったが、どこか険しい表情をしていた気がする。翡翠は、基本的にあまり表情が顔に出ず、常に不機嫌そうにみえると言われればそれまでなのだが、それとは違うと、確信に近い形で白琳は感じていた。そんなことを考えながら書庫の戸を開けると、そこは一面、書籍と巻物の山だった。棚と棚の間を縫うようにして奥に進むと、そこに翡翠はいた。椅子に腰かけ、左手で巻物を開き、筆を持つ右手は、さらさらと字を綴っていた。白琳は、翡翠にそっと近づき、翡翠が字を綴る紙に視線を落とした。いつもは剣を持つ手は流れるように動き、書かれた字は流麗で、書の手本のようだった。
「紅貴の剣術大会を見にいかないのか?」
 視線を変えず、手を動かしたままで聞かれる。
「行くつもりですけど、まだ少し時間がありますから。翡翠様は?」
「俺は、調べたいことがあるからな」
 祭りで人は出払っているのだろう。今、この場所にいるのは白琳と翡翠だけだった。外から、わずかに笛や太鼓の音が聞こえるが、ここの書庫だけ、祭りから切り取られたように静かだ。けれでも、不思議とその静けさに悪い気はしなかった。
「白琳」
 翡翠に話しかけられ、少しだけ首を傾ける。翡翠の目線は相変わらず巻物に向けられていたが、筆を動かす手は止まっていた。
「夜になったら、調べものも片付いていると思う。良かったら祭りに一緒にいかないか?……花火とかそういうの好きだろう?」
白琳は、嬉しくなり、にこりと微笑もうとした。――喜んで。そう言おとしたのだが、翡翠の言葉が続く。
「……紅貴は……たまにはあいつと離れたいからな。桃華は龍清一緒に行くだろう?妹の瑠璃と一緒に行くのもな。だから……」
 なぜだか、まるで、翡翠が言い訳する子供のように思えて、おかしかった。笑みは声になって零れた。
「いいですよ。翡翠様と二人でどこかに行くなんて久しぶりですし」
 それに、と、白琳は、再び筆を動かし始めた、翡翠を見て笑みを浮かべる。
 ――それに、翡翠と出かけようとする時に誘うのは、大抵白琳からで、翡翠からどこかに誘うことはめったになかった。だから、翡翠から誘ってくれたのが嬉しかった。
「ではまた夜に」
 そう言い残して、心に広がる温かいものを感じながら、書庫を出た。

 翡翠の頬がわずかに珠に染まっていたのだが、幸い、当の本人も、そして白琳も気づかなかった。

 武術大会の会場は、大いに賑わっていた。武器をもって対峙する男を老若男女問わずに囲み、歓声やら野次やらが、混ざり合うように飛び交っていた。剣と剣がぶつかり合う音は、人々の声に混ざるように響いていた。人々の間を縫うに歩いていると、知っている人物を見つけた。
「亮さん?」
 湖北村で世話になったあの人物がいた。紅貴を見た亮は親しげな笑みを向けた。
「みなさんお元気でしたか?麒翠様はご無事ですか?」
「元気です。翡翠ももう大丈夫みたいです」
「それは良かったです。おや、そちらにいらっしゃるのは龍清様ですか?」
「お久しぶりです。亮先生」
「あの失礼ですが先生って……」
「亮先生は、子供の頃、俺に学問を教えてくれていたんだ。でも良いんですか?軍関係者はこの大会に出られないんじゃ」
「大丈夫ですよ。わたしはとうの昔に軍は引退してますから」
「亮さんって軍関係者だったんですか?」
 紅貴が驚いて聞くと、代わりに龍清が答える。
「亮先生は俺に学問を教えるずっと前は鳳軍にいたんだ。覇玄と同期だよ」
 道理で強かったわけだと、紅貴は納得する。湖北村で、亮に助けられたことがあったが、鳳軍に入れるくらいの実力を持っていたなら納得である。
(そういえばあの桃華も亮さんには敬語使ってたしな)
 もっとも、桃華も翡翠も元二将軍の覇玄には敬語を使っていないのだが。
「ではわたしは失礼します」
 そう言い、去って行った亮の後姿を見ながら、龍清がため息をつく。
「亮先生がいるんじゃ優勝は無理かな。いや、だめだ。もしかしたら奇跡がおきるかもしれない、うん」
龍清が自分を励ますように言う。
「俺も頑張るよ」
 話しているうちに、剣術大会の受付の幕まで着いた。少しどきどきしながら他の三人の一歩前に出て名を名乗った。
「紅貴くんだね。えぇ〜っと君の第一回目の対戦者は、と。あぁ流星君って方だよ」
 紅貴と龍清は思わず顔を見合わせた。

 紅貴は刀を抜いた。靖郭でもらったあの刀だ。初めて触った時は、少し重かったそれは、今では少し手になじんだ気がする。紅貴は顔をあげ、紅貴の前から歩いてくる人物の顔を見る。周囲の歓声にも動じず、風になびく黒い髪を振り払おうともせず、まっすぐに歩いてくる龍清は、たしかに強いのだと、肌で感じた。先ほどまで緊張していたが、今はそれよりも、龍清と闘いたいと思う気持ちが勝っていた。紅貴は深く息を吸って、武器を構えた。
「始め!」
 声がかかり、動き出したのは二人同時だった。
 紅貴が剣を繰り出そうとすれば、龍清はそれを防ぐ。逆に、龍清の剣も紅貴は全て防いでいた。毎朝、あの、動きが速い桃華の剣を受けていたのだ。目がそれに慣らされたせいか、龍清の動きを正確に捕えることができた。だからこそ分かる。龍清が強いと。吹き抜ける風のようなしなやかな動きで剣が繰り出され、細いと思っていた腕が持つ剣は、思いのほか力強かった。
 キン!
 金属と金属がぶつかる音が響き、紅貴と龍清の剣が交わる。かたかたと、振動を伝える紅貴の剣が、龍清の力強さを示していた。
(力じゃかなわない……!)
 紅貴は、慌てて後ろに跳び、龍清と距離をとる。荒い息を吐きながら龍清を見ると、龍清は、大きく剣を振りかぶり、技を出そうとしているようだった。その隙をついて、胴を狙おうとするが――
「そこまで! 勝者、流星!」
 そう、高らかに宣言されるが、状況を把握するのに、数秒時間がかかった。やがてゆっくりと目線をさげると、脇に、龍清の剣がぴたりと当てられていた。どうやら、紅貴が龍清に剣を当てようとするより早く、龍清が動いたらしい。日の光を受け、二匹の龍が絡み合う彫刻が入った龍清の剣が、光を反射するのを見て、ようやく勝負がついたことを実感する。龍清の剣が紅貴の脇から外され、鞘にしまわれるのを見た紅貴は、無意識に止めていた息を吐きだした。紅貴も剣をしまい、先ほどまで紅貴と龍清が対峙していた場所をあとにした。
「紅貴、お疲れ様」
 瑠璃の明るい声に迎えられる。
「負けちゃったけどな」
「でも、紅貴、強かったじゃない」
「ありがとう」
 紅貴は素直に頷く。確かに負けた。負けて悔しいという気持ちも確かにあったが、それ以上に、嬉しさと、安心が混ざった不思議な心境だった。
 ――自分の剣が、少しは通用するようになったって分かったからかな。
「大会上位の常連の龍清様とあそこまで戦えるなんてすごいですね」
「白琳来てくれたんだ」
「始まる少し前に。かっこ良かったですよ」
「うん、紅貴すごかった。紅貴が負けた原因の半分は私のせいだし、これからまた特訓だね」
「桃華のせい?」
「あー……ええと、龍清は、わざと隙を作って、紅貴の攻撃をさそってたけど、毎朝の稽古の時、そいうこと教えてなかったなって」
「でも、龍清の動きを読めなかったのは俺だし」
 紅貴はそう言ったが、桃華は紅貴の言葉を聞いていなかったかのように、明るい声で言う。
「だから、これからは、いろんな動きで攻撃してあげるねっ」
 そう、無邪気な声で言われれるが、声には、無邪気な子供にはない強さがあった。

 結局、剣術大会で優勝したのは、亮だった。優勝賞金は、湖北村の復興の足しにすると、嬉しそうに言う亮を見た紅貴は、これでよかったかもしれないと思った。二回戦で亮に当たり、悔しがってた龍清だったが、桃華に励まされ、すぐに立ち直っていた。剣術大会が終わり、先ほどより落ち着いた熱気を肌で感じながら、紅貴は空を見た。日は、空の一番高い位置から大きく傾いていた。もうじき日が沈むだろう。

戻る | 進む | 小説目次
inserted by FC2 system