史書

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  第六章 噂 5  

 

 挺明稜との会話を終えた檜悠は、浮かべていた笑みを消し、足早に庭園を歩いていた。できるだけ早く挺明稜から離れたかった。挺明稜の前ではなんとか笑みを取り繕ったが、それとは真逆の心の内側が溢れ出てしまいそうだった。
「どうしてあなたには『証』がないの?」
 檜悠が幼い頃、そう言って泣き崩れた母の声が今だに離れない。檜悠の母親は、檜悠の両肩を掴み、嗚咽が混ざった声で言った。皇との間に子を成さなければ自分が碧嶺閣に来た意味はない。そして子を成しても、自分が生んだ子供に『証』がなければ、自分の立場がない。幼い頃は母陽春が言った言葉を理解できなかったが、振り返ればそんなことを言っていた。
「なんで『灑碧』なの……!?」
 陽春はことあるごとに、檜悠にそう言っていた。勉学も、剣も、恵の皇子、皇女の中では誰よりもできるのにどうして檜悠ではなく灑碧なのかと。檜悠が物心ついた頃には、灑碧はいなくなってたから灑碧のことを詳しく知っているわけではない。だが、碧嶺閣にいた頃の灑碧の周りでは不可解なことばかりが起き、灑碧本人もあまり身体が丈夫な方ではなかったと聞いた。挺明稜に灑碧の話を聞いても、身体があまり丈夫な方ではなかったのは事実だと言っていたから、やはり灑碧は皇位継承者として相応しい人物ではなかったのだ。――少なくとも子供の頃の灑碧は。
 檜悠は立ち止り、池に映った自分の顔を見た。父親にはまったく似ていない自分の顔。父親の少し焼けた肌も大きな瞳も自分は受け継がなかった。だが、それは灑碧も同じだ。その上、自分は灑碧とは違い、健康面で悩まされたことはない。子供の頃の灑碧とは違い、自分は幼い頃から剣を扱ってきた。今では滅多なことでは人に負けない。勉学だって得意な方だ。母親が言う通り、皇位継承者の素質があるのはどう考えても灑碧ではなく自分だ。なのになぜ「灑碧」なのだろう。
 物心ついた頃には、灑碧はいなくなっていたが、挺明稜がいた。自分とは違い、現在の皇によく似た顔立ちの挺明稜。そしてたまたま自分より先に生まれた。だが、それだけだ。檜悠に対しては時に真面目な表情で何か言ってくることが多いが、いつも周囲の者に笑顔で接している挺明稜はあの、例の噂が広まる前は碧嶺閣の者に好かれている様子だった。確かに人が良いのだろう。だが、皇族の威厳など感じられない。そんな挺明稜が「灑碧」がいなくなったこの国の皇位に就くなど耐えられない。なのに、噂が広まる前はずっと、いずれは挺明稜が皇位に就くのが当たり前というような空気だった。
 何年か前に、檜悠は挺明稜と剣の勝負をしたことがあった。檜悠はあっさりと挺明稜を打ち負かしたが、その時も挺明稜は「檜悠は強いな」と言って笑っていた。自分に簡単に剣で負けるような人間が、なんで皇位を継ぐのか。たまたま自分より先に生まれたというだけで。そのせいで、自分の母、陽春が泣いたのに、そんなことも知らずに挺明稜は周囲の者に笑いかけていた。「灑碧」も「挺明稜」も、何の苦労もせずに皇位継承者として名が挙げられるなど許せない。
 何の能力もないのにたまたま恵家の次男に生まれただけの挺明稜に「お前が皇位を継ぐのは許されないことだ」と言われる謂れはない。
「皇になるのは私だ」
 池に映った自分の顔から逸らし、檜悠ははっきりとそう言った。だが、そう言ったものの不安も感じる。もしも、皇位を継げなければ、自分に後はない。皇になるどころか、今ある地位も失うことになるかもしれない。
「……大丈夫だよ」
 突然真横に現れた冷たい気配に、檜悠は目を見開く。黒い布を纏った男。この男は自分の味方のはずなのに、この男からは恐ろしさを感じてしまう。
「あなたは……」
 くすくすと、中世的な印象を感じさせる高めの笑い声が聞こえたかと思えば、黄金の瞳がこちらを見つめた。男は血のような唇を開いた。自分の味方だから、自分に不利になることを言うはずはないのに、自然と身構えてしまう。
「僕の言うことを聞けば、君は必ずこの国の王になれる。安心すると良い」
「……あぁ」
「だが、僕が言ったこと以外のことまでやらせようとしているのは感心しない。あの、邪魔者の翡翠を消そうと刺客を放っているね」
「……問題、ありますか?」
 声が震えそうになるのをなんとか抑え、そう言うと、男の赤い唇が、吊りあがったのが見えた。黄金の瞳が細まり、笑みが浮かぶ。
「あの男は、僕が直々に消すから君は何もしなくていいよ」
 消されるのは自分ではない。なのに、男の、どこかうっとりとした様子の笑みを見ているだけで、どうしても恐ろしさを感じてしまう。剣の柄に手を乗せているはずなのにその感触がない。にもかかわらず、背を冷たい汗が流れる感覚ははっきりと分かる。
「君は僕が言ったことをやるのに集中して」
「……はい」
 なんとかそれだけ返事をすると、男は姿を消していた。


 閑湖近くの宿場町。その宿屋の台所で、紅貴は瑠璃と並んで包丁でじゃがいもの皮を剥いていた。
 妖獣に襲われた宿場町だったが、白琳と瑠璃が人々を榛仙道に誘導し、桃華と町の兵士が、本格的に妖獣に襲われる前に妖獣を倒したため、妖獣に火は放たれたものの、全ての建物が焼き払われたわけではなかった。逃げるのが間に合わず怪我を負った者に対しては白琳が治療を行った。紅貴たちが今いる宿屋が療養場の代わりとして使われることになったのだ。また、家を失った者も、当分はこの宿屋で寝泊りすることになったのだった。
 宿場町に元々住んでいた人々は、自分の家の様子を見にいったり、町の立て直しの為の話しあいと、忙しい。今、療養場として使われているこの宿屋の女将は怪我はしていなかったが、一人で怪我人全員分の食事を作るのは困難だった。町の人間もそれぞれ忙しかったため紅貴と瑠璃は食事作りを手伝うことになったのだ。
「手伝ってくださってありがとうございます」
 黒い髪を後ろでまとめた女将が、鍋で出汁を取りながら言った。
「いえ。これくらいしか出来なくてすみません」
 瑠璃がそう言うと、女将は首を振る。
「みなさんがいらっしゃったおかげで本当に助かりました。ありがとうございます。それにしても、みなさんと一緒にいたお嬢さん、ずいぶんと強いんですね」
「はい。あの子、剣の強さだけが取り柄だとよく言っていますから」
 瑠璃が笑い、言葉を返した。女将と瑠璃の会話を聞きながら、紅貴は、今は町の兵士と話し合いをしている桃華のことを思った。まだ桃華にはっきりと聞いたわけではないが、もしも桃華が煌桜家の者だとしたら、どうして桃華は嘉にいたのだろう。あの、史書に登場する妖拳士「巓(てん)家」は諸国を回り、煌桜家は恵国の皇族、恵家に使え、妖獣使いは滅んだとされている。なのに、桃華は嘉にいた。もっとも、滅んだとされている妖獣使いである紅貴は今ここにいる。煌桜家に関してもそういうことなのだろうか。そんなことを考えているうちに、二階から白琳が降りてきた。
「治療はもう終わったの?」
「えぇ。もう、大丈夫です。あら、料理をしてるんですね。私にも手伝わせてください」
「白琳は辞めた方がいいよ。大丈夫、食事の手伝いは私と紅貴でやるから」
「大丈夫ですよ」
 瑠璃の制止を聞かずに手を洗った白琳は包丁を持ち、紅貴の隣に並んだ。紅貴の方を見て見よう見まねでじゃがいもの皮を剥こうとする白琳の手つきがぎこちないのは気のせいだろうか。じゃがいもの皮を剥くというよりはじゃがいもの皮を削ぐといった表現の方が正しいとさえ思えるような、危なっかしい手つきで包丁を扱う白琳を、瑠璃に習って止めようとすると、小さく声があがった。
「あっ……」
「白琳!?」
 瑠璃が慌てて名前を呼んだ。
「少し切ってしまったみたいです」
 白琳の手元を見てみれば、ほっそりとした指先に小さく傷が出来ていた。出ている血は少量だったが白琳の肌が元々白いため、赤い血が痛そうに見える。
「これくらいなら大丈夫ですよ。ほっといたら治ります」
「白琳、それ医者の言葉じゃないよ」
 紅貴がそう言うが白琳はにこりと笑う。
「大丈夫ですよ。これくらい」
「白琳、でもそれ、見ていると痛そう……早く治療して。ね? 癒しの力ですぐに治せるでしょう?」
 白琳は包丁をまな板の上に置き、指先を見つめる。
「癒しの力は自分自身には使えないんですよ。でも、どちらにしてもこれくらいなら大丈夫ですから」
「え? 癒しの力って自分には使えないのか?」
 白琳は手を水でゆすぎながら頷いた。
「自分にも使えたら良かったんですけどね。これは他者を助けるための力なので、自分には使えないんです」
「私、白琳と付き合い長いけど、初めて知った」
 瑠璃が、剥いたじゃがいもの皮を端に纏めながら言った。紅貴はジャガイモを一口大に切りながら言う。
「じゃあ、俺達は白琳が怪我をしないように守らなきゃな」
「紅貴にできるの?」
 瑠璃が軽く笑いながら言う。
「大丈夫だよ。俺だって前より強くなってるはずだし。多分」
 紅貴の言葉に、瑠璃の笑顔がやさしげなものに変わる。手に持っていた包丁を置き、笑顔を見せる瑠璃になんとなく暖かい気持ちになる。
「冗談よ。紅貴は意外と頼りになるもの」
「そうかな? だと良いんだけど」
 今話している瑠璃のように、自分にできることを瞬時に判断して的確に動けるわけではない。白琳のように特別な力があるわけでも、翡翠や桃華のように特別強いわけでもない。だが、嘉から出て旅をしていくうちに、自分にできることを見つけたいという思いがより強くなっていった。
(まずは妖獣の問題と、翡翠だな)
 自分は妖獣使いだ。きっと、自分にできることが何かあるはずだ。そして、翡翠。翡翠がいなくなってしまってから、白琳も瑠璃も翡翠を心配してていた。きっと何か理由があるはずだ。瑠璃が誰かに聞いたように、もしも本当に「灑碧」を殺したのが翡翠ならそれにもなにか事情があるのだろう。白琳や瑠璃はなんだかんだで、翡翠の気持ちを考えて気をつかってしまうかもしれないが、紅貴は翡翠がどう思うと、次に翡翠に会ったら翡翠が隠していることを全部話してもらおうと決めていた。あれだけ周りに心配掛けたのだ。翡翠の気持ちなんて知ったこっちゃない。
 翡翠が本当に証を持った皇位継承者を殺したのかは分からないが、それはこの世界において最もやってはいけないことの一つだ。それに、紅貴は白琳と瑠璃が翡翠を心配するのをずっと見てきた。白琳と瑠璃にあんな顔をさせるなど許せない。翡翠がどう思おうと、全て話してもらおう。そう、紅貴は改めて思う。
「あ、桃華お疲れ様」
 瑠璃の声に、紅貴は宿屋の入口に視線を向ける。町の兵士との話し合いを終えたらしい桃華が、腰に手を当てて宿の入口に立っていた。紅貴は少し視線を下げ、桃華の腰に差された黒い鞘に納められた刀を見つめる。赤い紐が巻きつけられたその刀が抜かれる所を見たのは一度きりだ。まだ嘉にいた時、あの刀で桃華は、修の人間の手枷を斬っていた。あの時は、桃華の動きに目を奪われ意識していなかったが、あの刀は、鞘から抜かれる時に確かに紫色の光を放っていた。
(あれ、やっぱ妖刀だよな)
 恨みが籠った妖獣の牙を鍛えた刀を妖刀と呼んでいる。妖刀は人が扱おうとすれば暴走してしまうが、妖刀の暴走を逆に抑える力がある刀を聖刀と呼んでいる。煌桜家は、あの、妖獣の牙から作った妖刀「桜玉」と神龍の牙から作った聖刀「煌玉」を扱うことができる唯一の一族だ。
(もしかして桃華がもってるあれって、「桜玉」……?)
 もしもそうならば「桜玉」をおさえることができる「煌玉」がなぜないのだろう。分からないことばかりだ。だが、そういったことを、好奇心だけで聞いてはいかないのかもしれないと紅貴は思っていた。まだ、旅を始めたばかりの頃だ。嘉国の東、靖郭で何も知らずに、翡翠に聞いたことがあった。白琳が翡翠の身体に手を当てると紫色の光が出たことを不思議に思い、聞くと、翡翠は桃華なら話せるが、当の桃華は話したがらないだろうと言っていた。もしも、桃華が煌桜家ならば、桃華はそのことについて話したくないと思っているということになる。
 気になることは多々あったが、あまり詮索するのも良くないのかもしれない。
「さて紅貴、もうひとふんばり、食事の用意がんばろう」
「うん」
 紅貴は頷き、再び食事作りを再開した。食事作りもまた、自分が出来る数少ない、できることの一つだ。


 

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